ヒーメロス通信


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ボードレール『悪の花』から「白鳥」訳詩・小林稔

2013年03月30日 | ボードレール研究

ボードレール『悪の花』から「白鳥」訳詩・小林稔

 

12 白鳥 Le CYGNE

 

アンドロマケー、私はあなたを想う! この小さな河、

それは哀れにも悲しい鏡、かつて、寡婦であるあなたの、

あなたの数々の苦悩に対して大いなる尊厳を映した鏡、

あなたの涙で嵩を増した、それは偽りのシモイス河。

 

突然、豊かな記憶が実を結んだのは

私が新しいカルーセル広場を横切っていたときだ。

古いパリはもう、ない。(都市の形態は

すばやく変わる、ああ、人のこころよりも!)

 

私は、こころのなかだけに見ているに過ぎない、

あの仮小屋の野営地、積み上げた粗仕上げの柱頭と円柱、

雑草、水溜りの水で緑色に染めた大きな石塊、

ガラス窓に光っている、乱雑に置いた、古道具類を。

 

そこに、かつて動物の見世物小屋が掛かっていた。

そこに、私は見た、ある朝、寒く明るい空のした、

「労働」が目を覚まし、道路清掃車が

静かな空気のなかに、暗い激風を押しやる時刻に。

 

檻から逃げた一羽の白鳥が

水かきのついた足で渇いた敷石を引っ掻きながら、

でこぼこの地面のうえ、水のない排水溝の側で

鳥が嘴を開け、白い羽を曳き摺っている。

 

いらだたしげに、翼に埃を被って、故郷の美しい湖で

こころを満たし、言っていた、「水よ、いったいおまえは

いつ雨を降らすのか? 雷よ、おまえはいつとどろき渡るのか?」と。

私は見る、奇妙で宿命的な神話である、この不運な者が、

 

時折空の方へ、オウディウスが歌った男のように

皮肉な、残酷なまでに青い空に向けて、

まるで神に、数々の非難を浴びせかけるように、

飢えた頭を、痙攣した首のうえで伸ばす姿を。

 

パリは変わる! だが、私の憂愁のなかでは、まったく何も

動かなった! 新しい宮殿、建設工事の足場、石材、

近郊の古い街々、すべて私には寓意になり、

私の忘れがたい思い出は岩よりも重いのだ。

 

それゆえこのルーヴルのまえで、あるイマージュが

私の胸を締めつける。――私は想うのだ、私の偉大な白鳥を。

愚かな身振りで、流謫の人たちのように、滑稽でしかも気高く、

間断なく願望に悩まされる姿を! それからあなたを!

 

アンドロマケー、偉大な夫の腕から、

卑しい家畜のように、尊大なピュロスの手に落ち、

空の墓の近くで、恍惚に身をたわめる、

ヘクトールの寡婦、ああ、ヘレノスの妻よ!

 

私は想う、痩せた結核を病んだ黒人女を、

泥濘に足踏みし、血走った眼で

至上のアフリカの、ここにはない椰子の木々を探す姿を、

靄の立ち込める巨大な城壁のうしろで。

 

私は想う、誰であれ、決して二度と

ふたたび見出されえないものをすでに失ったすべての人たちを、

涙に濡れ、喉を潤そうと、優しい雌狼の乳を飲むように

「苦痛」を飲む人たちを! 花々のように萎れてゆく痩せた孤児たちを!

 

このように、私の精神が遁れゆく森のなか

息を大きく吸い込んで、年老いた「追憶」が角笛を吹き鳴らす!

私は想う、島に忘れられた水夫たちを、囚人たちを、敗者たちを! 

……さらに他の多くの者たちを!

 

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