ヒーメロス通信


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デリダ論序説(一)小林稔

2013年03月02日 | デリダ論

デリダ論序説―その一

小林稔

 

 その難解で知られるデリダという思想家の書物を紐解くにあたって、彼の「 脱構築 」(deconstruction)として流布する理論を日本人、あるいは東洋人である私が理解しようとすることにいかなる意味があるのか。そこからこのデリダ論序説を始めたいと思う。

 現代思想のコンテクストにおいて東洋哲学を理論化しようと試みた井筒俊彦の後世に残した著作には、これからの哲学的思考に対してじつに多大な貢献をなしうる可能性が至るところに充満している。これから展開しようとるデリダへの私の解読の根拠を、私を鼓舞した彼の言説を基底に据えて叙述することが適切であろうと考える。

 井筒哲学の「共時的構造化」(詳細は後述することにする)の出発となる書物『意識と本質』の冒頭に、サルトルの「嘔吐」体験を記述している。意識は必然的にもの(存在者)への方向性を持ったものであり、「本質」把握をコトバによって把握する。井筒は、「絶対無分節者」の「存在」の表面にコトバによる分節線を引いて事物を作り出していくと表現する。そのような「本質」把握なしに「外」に向かえば、不気味な「存在」の渾沌の泥沼にのめり込んで「嘔吐」を催すしかない。それは「言語脱落」の体験を語っているのであり、言語脱落は「本質」脱落を意味する。そこには「怖ろしい塊り」(『嘔吐』で示された「存在」だけが残るのだと井筒はいう。このような「存在」分節作用は日常的世界の意識(表層意識)に深くかかわっているが、一度「言語脱落」が起こると、無分節的「存在」の世界に投げ込まれ『嘔吐』の主人公のように愕然とするしかない。彼は意識の深層を覗き込んでしまい狼狽するだけである。

 一方、東洋哲学では表層意識に現われる事物と生起する事態を深層意識の次元におき眺めることができることを根本原理とすると井筒氏は指摘する。このような哲学では、経験的世界の本質は「虚構」であるとする徹底的な「本質否定」の立場を取るが、「言語の本質喚起的機能]に重大な役割りを負わせていると井筒氏はいう。「本質」は実在しないが、あるように見せかけている意識を「妄念」とする。「表層意識が深層意識に転換し、絶対的無分節者が無分節のままで現われてくれば経験的存在世界においてあらゆる存在者を区別する本質はことごとく消えてしまう」と井筒氏はいう。

 デリダ論への前置きとしては長くなりすぎたが、ここで私が述べたかったことは、これから少しずつ明かしていくことになる「脱構築」(井筒氏は「解体」と記述)は西洋思想の解体であり、東洋思想では解体を前提とした、あるいはその基盤に成立する思想であるということである。近代化とは西洋化のことである。その限りで我々の世界は生活や思考基盤においても西洋化されている。そのようなコンテクストにおいて西洋思想の解体の後に、東洋思想が来るべき世界の思想にいかに寄与できるかが問われているのである。

 西洋思想の源泉はヘレニズムとヘブライズムにあることは既知のことであるが、西洋思想の解体がそれらの否定に直結するものではないことは留意しなければならない。ギリシアやユダヤの思想を取り込む方法論においてヨーロッパ独自のモード(仕方・流儀)やそれに対する西洋思想からの反発があったのだ。その意味では私たちは西洋思想との差異化を認知し、ギリシアやユダヤの思想の原像を新しく把握する必要がある。例を挙げるなら、プラトン学者、藤沢令夫が、「ギリシア以来の哲学の伝統の単純総括の風潮」(『哲学の課題』)で説いたように、「ギリシア以来今日に至るまで、西洋の哲学・形而上学の伝統はロゴス中心主義という大罪を犯してきた」というデリダはその誤りの根本を衝いて脱構築をするのだと藤沢は解釈する。「ロゴス中心主義」は「話される言葉」を「書かれた言葉」の上に優先させる「音声中心主義」と倒置され、「父権的なロゴスを立てる」という「男根中心主義」と倒置されるとするデリダの考えを、理に合わぬ異常哲学として断罪する。これをハイデッガーによって植えつけられたギリシア哲学への偏重であると主張している。ここではギリシア思想を取り込む西洋的モードに問題があるといえよう。デリダと同時代のミシェル・フーコーは晩年、ギリシア思想の西洋的解釈の問い直しとして、「自己への配慮」を中心に哲学の本来あるべき姿を分析したのであろうと私は考える。

 一方、先に挙げた井筒俊彦は、デリダの最も重要な哲学用語の「エクリチュール」に注目する。「一定の方向に向かう強い思想的傾向性」に「彼のエクリチュール論の独自性と創造性の根源」を認め「魅惑される」としながら、現代哲学の問題を喚起し東洋哲学との比較を通して考えようとした。つまりデリダの「解体」と東洋思想の特徴とする徹底的な「本質否定」の構造理念から、「解体以後」の言語学的哲学理論を構築しようとしたと私は考えている。

 かつて井筒は『意味の深み』という書物の「あとがき」で、若年のころから「意味の深淵」に心を奪われていたことを告白した。「シニフィアン」と「シニフィエ」の結びつきが「シーニュ」(記号)であるという一般記号学の立場、つまり「意味」に対する表層主義に不満を持ちつづけていた。「マラルメやリルケのような詩人たちの深層的意味世界の生成の秘密を、もし探り出すことができたら」と考えていた井筒が出逢ったのは、仏教の唯識哲学であった。それは後に彼の「言語アラヤ識」理論に発展していくものであったが、「ユングの心理学が、人間意識の底に潜む巨大な下意識的エネルギーの働きを指摘し、ジャック・ラカンが、無意識とコトバの奇妙な結び付きの重要な意義を強調し始めた」ころであったという。

 ここでデリダのエクリチュールなるものを井筒はどのように考えていたのかを考えてみよう。デリダにおいては、「書く」という言葉の意味の「驚嘆な拡張解釈」である。「世界」はすでに「書き込まれた」エクリチュールの構成物であると考えている。「思惟と言語の深い関わり」を考えさせるものであると井筒はいう。「現実」や「世界」を「テクスト」と読み変える作業をする。「存在する」ということは「テクストの織り出し」である。表現の問題ではなく、「新しい角度から、新鮮な視線を対象に向けるということ」だと井筒は解釈する。つまり「現実」を「テクスト」と読みかえたとたんに「現実」は解体され違ったものとして現われる。「現実」という言葉で考えていては見えなかったものを引き出してくれるということである。「テクスト」は「織もの」の語源的に含む。世界内に織り込まれた私は、公共としての織りもののなかで、自分の「テクスト」を織リ加えていく。「織る」とは「書く」ということであり、書く」ことで「テクストを織り出していく力をエクリチュールという」とデリダ自身が定義していると井筒はいう。それは、我々が「書く」ことによって世界を変革していく可能性を賦与する考えだと私は思う。私はデリダを知る以前から、「書く」ということをそのように考えていた。それはランボーから教えられた「書く」ことの意味である。デカルトのコギトをもじり、「我、書く、故に我在り」と主張し、バト、デリダ、フーコー、ラカンなどに、この原理が根本的意義を持って働いていると、アメリカの文学理論家スコールズは指摘する。現代哲学的にいえば、「私は自分が生産するテクストである」ということになると、il n´a pas de hors de texte(テクストの外には何もない)いうデリダの言葉は「テクスト」の有意味性を示唆するものであると井筒はいう。「テクスト」の有意味性とは何か。ロゴス的意味、プラトン的ロゴス的意味は完全に否定されていると井筒は指摘する。意識の彼方に客観的に存在する実在性を否定するということだ。「指示対象」を排除し、相対的シニフィアンと相対的シニフィエの関係に還元することであると井筒は解釈する。「指示対象」を失った「シニフィエ」の立ち昇る意味、それは同時に「シニフィエ」の「シニフィアン」からの遊歩であり、「テキスト」の有意味性とはこのようになると井筒氏は解釈する。「指示対象を取り払う」ことには各人の存在論的立場の問題がある。デリダはそこに、defféranns(相異・繰り延べ)の概念の導入があると井筒はいうがどういうことか。現存する事物は現存する事物が残した「痕跡」である。大乗仏教でいう「幻影」であるがデリダはそういわない。「痕跡」を残した事物はどこへいったか。後を追っても現存する事物に行き当たらない。「繰り延べ」である。見失われたロゴスは「始原」(アルケー)を追い求めるが永遠にたどり着くことはない。したがってエクリチュールは必然的に「書くことの、歓喜に充ちた彷徨」であり、「始原」も「終末」もなく生のテクストを書いていくことになる。もし「始原」や「終末」や「中心」の確立した世界があるとすれば、それは死の世界である。つまり「書物」だとデリダはいう。話者は自分の言うことを耳に聞き了解する。彼のこころは、つまり「意味」は彼の意識に現存していると、フッサールはいうが、デリダはこのロゴスの絶対的現存の現成を否定する。「発声」と「意味」了解の接合点にかすかな遅延をみるのだと井筒は説く。つまり「相異」defférannsの介在を見てしまう。この一瞬に現存するかと思われたロゴスは現存せず、無がしのびこむ。すべての有のなかにははじめから非有が浸透しているから、それは有ではなく、有の「痕跡」なのだと井筒はデリダを解き明かす。デリダは「ゼノンの飛矢」の飛びつづける矢、つまり現在の状態に目を向けると矢の動きは実在性を否定されるという矢のパラドクスで、「今」は「非有」の「痕跡」を己の構成そのもののうちに含みこむものとして、いかなるものも、「現存」しないと結論する。しかし「現存の不可能性」は単純に「現存」がないということではなく現存は可能だが、その可能性はいつまでも現勢化しないということであると、つまり「現存」の際限のない繰り延べであると井筒はいう。

 ヨーロッパの文化伝統では、エクリチュールがパロールの従属的位置に置かれてきたのは、アルファベットはパロールを書き写す道具であるというアルファベット自体の構造によると井筒はいう。先述したプラトン学者、藤沢令夫の指摘するように、プラトンの対話篇『パイドロス』において文字に書かれる言葉の限界の論述は、「書物に対しては質問しても、書かれてあること以外には答えてくれないという当然の指摘」をしているに過ぎず、「話されている言葉ならどのようなものでも、文字言語の限界と欠陥を免れている」とはいわれていないのであるという。プラトン第七書簡においても、「もしそれが書かれたり語られたりするとすれば、この私によってこそもっともよく語られるだろうという。ここでも書くことと話すことはまったく同列である」と藤沢は主張する。再度、井筒氏の論説に戻れば、パロールの基底にはエクリチュールがあるとしてデリダは「原エクリチュール」と呼んでいることからすれば、「パロールは極めて不完全なエクリチュールである」といえるという。これは、ヨーロッパ思想の言語における伝統を逆転させるものであると井筒はいう。いわばデリダはアルファベットの限界、エクリチュールはパロールの道具に過ぎないという宿命に挑戦しようとしていると考えられよう。東洋では「書く」ことの意義が表音文字アルファベットとは根本的に異なることを井筒は指摘する。「文字そのものの形象性に、美的価値や精神的価値を認める中国のエクリチュールは、アルファベットとは比較にならない重要性を持っている」と井筒はいう。中国の思想史の発展過程において、老子のようなエクリチュールの敵視の思想が現われたことがあったが、「エクリチュールの怪物的な恐ろしさを痛感すればこそ」であると井筒氏は指摘し、「漢字、平仮名、片仮名を持つ世界一複雑な文字システムを作り出した日本人の「書く」意識の中から、デリダを越えて、新しいエクリチュール論」が現われることを井筒は期待しているのである。

 デリダの批判し否定するのは、プラトン以来のロゴス中心主義の歴史である。井筒によると、ロゴスとは永遠不変の超越的実在であり、経験世界、現象界、の事物の背後に、それらを超越して存在する不変不動の形而上学的実在者の措定することである。したがって、脱構築(井筒は解体という)は存在のロゴス的構造に向けられたものである。ロゴス中心主義とはギリシア的形而上学の精神、つまりプラトンの「イデア」論が中世、近世を通してヨーロッパ思想史を支配し現代のフッサールに至るギリシア性の否定であるように見えると井筒はいう。このようなロゴス中心主義のデリダにおける「解体」(脱構築)作業に、井筒は根強い「ユダヤ性」を見る。その一つが「終末論への抑えがたい関心」とその否定である。終末論の否定とは「極限」の否定であり、「極限」は一方へは未来に、もう一方には過去に延びているという時間概念である。この「終極」と「始原」、「世界の終末」と「世界の創造」という宗教的な見方は哲学的にいえば、「全存在世界からの存在論的根拠剥脱」であると井筒は主張する。「始まりなく、終わりもなく漂い流れる存在者の何一つそれ自体であるものはない」ものとは、記号としてのみ存在することに他ならず、「痕跡」として充実を求め浮動することになると井筒はいう。そこにはヘーゲルが「夢見た終焉」は無限に延期されていく事態を、デリダはdifférance と名づけ、繰り延べられていくのだという。この概念は終末論から離され「デリダの存在論的全体を特徴づける重要な哲学的概念に転生する」、つまり「ロゴスの現前を否定する究極原理」になる。このような存在観には、「砂漠」を彷徨いつづける「ユダヤ人」の存在の中核にある「纏綿する不安の感触」があると井筒はいう。

 デリダのユダヤ性にもう一つの側面を井筒は指摘する。それは、「純哲学的な次元を超えたその彼方に、預言的な次元がる」ということである。ある哲学者との対談で「あらゆる形での終末論を私は否定するわけではない」、「預言者の霊感的言表のなかに内包される終末論だけは例外的に否定しない」と述べたという。しかし、真理の客観的、絶対的基準を探究する哲学的営為と、それを必要としない預言者の言葉とは一線を引かれねばならない。井筒によると、預言者のコトバは自分自身の終末論を含み、真理性の指標、絶対的価値基準を己のうちに持っていて、外的法廷の真偽に委ねることを拒否することである。デリダには絶対的価値基準があるのだろうかという問いに、対談では次のようにいったという。「自分が霊感を受けているという自覚はないが、自分のなかの深いところで、何かの到来を待っている。何かを探し求めてやまないものが、私のなかにあるのです。この探求が、たんにレトリックの偶然でないことだけは確実です。だからこそ、私のコトバは、一種の預言的な響きを帯びてくるのかも知れません」(井筒俊彦「デリダのなかのユダヤ人」より一部改変引用)。デリダの難渋な思想が多くに人々の心をひきつけてやまない原因に、彼のコトバの預言的響きの魅惑にあることは疑い得ないと、井筒はいい、それは彼のユダヤ性に淵源するであろうと書き記している。

 ここまで書き連ねて、私は詩を論じたい気持ちを抑えることができない。「世界は書き込まれたエクリチュールの構成物」であり、「書く」ことでテクストを織り出すことができるということ。「世界」を読み解くことと、自らのエクリチュールをもって世界に参入でき世界を変革することができるということ。これらは本来詩人がすべきことではないのか。かつてモーリス・ブランショの『文学空間』や『来るべき書物』を読んだとき、「来るべき詩」のためにかかれたものであるという思いが強かった。デリダに対してもなぜ論文で書かれるのかという疑問は拭いえない。井筒が先に述べたデリダのユダヤ性と深く関連する「預言者的な次元」は詩の本質と大いに関係があるだろう。詩と関わるインスピレーションはやみくもに言葉を羅列することではない。深いところで詩人の自己と結ばれているのだ。新興宗教などにみられるいかがわしい霊的な想念とはまったく違う。「哲学と霊性」でミシェル・フーコーが主張するように、哲学の原初的意味での精神性のことである。そうした哲学と同様に、詩も主体の生存と深いところで関連づけられるべきものなのだ。詩学と哲学の漸近線上に詩は成立する。詩人に内包する批評的精神と哲学は表裏一体であるが、詩人は経験において自らの他者とロゴスにおいて出逢うのではないだろうか。ロゴスにがんじがらめにされた精神を解き放ち屹立する言葉を、どれほど困難であろうと詩人は獲得しようとする。ロゴスを獲得するプロセスを重視すべきであり、そこに詩人の姿を見るべきである。先にも述べたが、井筒が「書く」(デリダのエクリチュール論に因んで)という論文の末尾で主張された、漢字システムのようなエクリチュールの大きな特徴を摂取し、平仮名、片仮名を加えた世界一複雑な文字システムを作り出した日本人の「書く」という意識のなかから、新しいエクリチュール論を生み出すことに加えて、その渦中に身をしっかりと据え、詩を書かなければならないと私は思う。

 

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