ヒーメロス通信


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演奏会・小林稔詩集『白蛇』天使舎刊より

2016年05月21日 | 小林稔第3詩集『白蛇』

小林稔第三詩集『白蛇』(旧天使舎)以心社1998年11月刊より

演奏会
小林稔


 会場は静まり返った。ときおり 咳をする声があちらこち

らで響いた。彼は鍵盤に落とした視線を上げ 背筋を伸ばし

た。真っ暗闇の中で、観客は息を呑んだ。

 左手の五指が 小指から鍵盤の上を這っていく。六連符が

波のように 満ちては曳いていった。ショパンのノクターン

害七番嬰ハ短調、作品二十七の一。左手の序奏が少しずつ波

のように高まり、波に浮上して 右手の人差し指、中指が 

もの憂い旋律を打ち始めた。

 主題が見え隠れするが、泡のように低音部の闇の中に消え

ていく。左手が低い三連符の音を 小さく刻み 繰り返す。

同時に 右手の重音が ゆっくりと大きな波と共に 悲壮な

高まりを見せて 激しさを増していく。

 右手の波のリズムが 変化をもたらしながらも、孤独な想

いを抱えこんで 嵐のように荒れ狂った。

 空が引き裂かれる。暗雲が裁ち切られ 青空が覗く、次の

劇的展開を予測していたとき、鍵盤を走り回る十指が あま

りにも突然停止した。

 沈黙の瞬間が訪れた。永遠にも似た一瞬であった。すぐに

弾き出せばいいのだ。かなしいかな 彼の腕から力が消えて

いた。許されるなら 鍵盤の上に 半身をうなだれてしまい

たかった。彼の体重で ハンマーで叩いたような不協和音を

会場いっぱいに響かせただろう。

 楽譜は頭上から消え失せ、指は彼に従うかのように 配列

を忘れていた。

 彼は このまま何時間でも、ピアノの前に座っていたかっ

た。だが、彼を裏切った指は 鍵盤を左から右へと走り抜け

た。青空が絶望の淵に かいま見えた。待望の勝利の歌が鳴

り響いたと想うつかの間、半音階の階段を 左手が最強音で

転げ落ちていく。再び 夜の静かな波が 鏡に映されたよう

に、寄せては曳いていく。三度の和音が 失意を優しく包み

込んで、終盤に水を注いでいった。

 演奏会は終わった。会場は深い闇の中で息をつめた。彼の

踵を波が寄せ来るようであった。


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