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ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

若き闘士、羽生結弦よ。(2014年のブログより)

2015年12月01日 | 日日随想

若き闘士、羽生結弦よ。

 小林稔

 十四歳の羽生結弦が、テレビの画面を通して私の前に現れたときのことを鮮明に覚えている。全エネルギーを出し切ってスケートを終える彼の姿に、ほかのアスリートにはない魅力で私のこころはぐんぐん引きつけられていった。それ以来、毎年、彼の雄姿を目にするたびに、女の子みたいな外見を裏切る男らしさに感嘆の声を上げるしかない。このひたむきな情熱は彼の身体のどこに潜んでいるのだろう。

 今回の流血、試合直前練習に起きた中国選手エンカンとの激突。二人は、しばらく倒れた身体を立ち上げられずにいた。うつろな視線を氷上に落としていた羽生結弦の額と首は、真っ赤な血で染められていた。

 

氷上はリングに豹変し、ノックアウトされ血を流す敗者のようではないか。

 

誰もが試合の棄権を思い描いていたとき、一度抱えられ退場した羽生は、頭部にテープを巻き、出血した顎をテーピングして六分間練習に姿を見せたのであった。「危ない。いったい彼は誰と闘おうとしているのか、棄権すべきだ」と叫んだ解説者の松岡修造は、のちに、羽生は自分と闘っているのだという事を知ることになる。

蒼白の顔面に少し虚無的な形相を見せて現れた羽生結弦の横顔に、私は詩人ランボーの幻影を一瞬目撃した。

 

羽生は己れ自身の弱さと闘っている。彼の宿命と闘っているのだ。彼の身に降りかかった東日本大震災の惨事と闘ったのだ。死者と生者を鼓舞するため闘ったのだ。宿命から自由に成り立った。私にとってひとまず、アスリートはメタファーに過ぎない。詩人は「存在」の深淵を覗き込み、思わず言葉を発する生きものであるのだが、己の「現存」のすべてを一瞬に賭ける羽生結弦というアスリートの雄姿が、同様に「現存」のすべてを生きる詩人である私の内部に棲息する「少年」と共振し合い、おお、同志よ、とそいつが叫びをあげている。

 

詩の世界にスポーツのような判断の公平さはない。したがって、他者である読み手の心をいかに動揺させるかにすべてはかかっている。無名性を武器とする詩人の挌闘は休みない実践を強いられるに違いない。人は羽生結弦の勇気にヒロイズムを讃えるだろう。偶像を見るだろう。しかし、羽生よ、そのようにしてヒーローに仕立てることによって、君に泥を投げつける群衆から遁れよ。詩人に賞を与え、凡庸な詩人を育ててしまうように、君から闘争心を奪うだろうからだ。だが、だが、私たち人間への慈愛をもって、私たち人間に内在する情熱と勇気を掘り起こすため、跳び続けよ。君の繊細にして粗野な舞いに、私は私の身体にうごめく「少年」の躍動の跡を追い、言葉を発信する詩人であることを止めない。おお、同志よ。君は跳ぶことによって、私はエクリチュールを織り成すことで、ともに自己変革をし続けようではないか。「苦悩はたいへんなものですが、しかも強くあらねばなりません」というランボーの声を聴きながら。


井筒俊彦『神秘哲学』再読(五)

2015年11月29日 | 日日随想

井筒俊彦『神秘哲学』再読(五)

小林稔

第一部 自然神秘主義とギリシア

第一章 自然神秘主義の主体Ⅱ

 

 似たものは似たものによって認知される

 イオニアの自然学に始まり、アレキサンドリアの新プラトン主義に至るギリシア形而上学の根底には、超越的「一者」体験の深淵の存在がある。「似たものは似たものによって認知される」という考え方は、古くからギリシア人の間に広く行われた特徴ある思想であると井筒はいう。ナルシシズムを思わせるこの考え方は、私がプラトンの対話篇を読むたびに感じてきたものである。このことを井筒的に解釈すれば、それは神秘主義的の根底をなすものであり、個人的意識を超越した知性の極限に、知性そのものが自らを越えた絶空のうちに、忽然と顯現する絶対的超越者の自覚である。このような神秘主義体験を経験しようとするなら、自らが神秘主義の主体とならなければならぬと説明する。「等しいものは等しいものによってのみ認知される」というのである。つまり「超越的直観」が必要とされるのだ。ソクラテス以前期の、ニーチェのいう「巨人たち」の言説の断片を私たちがほんとうに知ろうとするなら、「似たもの」の経験をする必要がある。井筒がそう主張するのは、彼自身が若いころに似た体験をし、「巨大なものの声」を聴き、「パトスの地下の声」に彼の琴線が触れたからである。それなくして、プラトンもアリストテレスも教養の書棚に収納されているに過ぎない。西洋哲学を知ろうとするものに、まずソクラテス以前期の哲人たちの声に興奮と歓喜を覚えずして出発はない。哲学といえば、若いころの郷愁しか覚えないものに井筒哲学を紐解くことは無意味だろう。井筒のその後の径庭を少しでも知る者には、この西洋哲学に全身全霊で立ち向かい、やがて東洋哲学を全世界的なエピステメーに成就しようとした「共時的構造化」の構想を抱き、『意識と本質』、そして遺作『意識の形而上学』などの著作群に迂回しながらも辿りついた彼の足跡は、彼の試みを継承する者に、同じ最初の地点に立つことの重要性を、この書物『神秘哲学』において訴えているのであろう。

 

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井筒俊彦『神秘哲学』再読(四)

2015年11月27日 | 日日随想

井筒俊彦『神秘哲学』再読(四)

小林稔

 

第一部 自然神秘主義とギリシア

 この新版に、一九四九年に刊行された当時の覚書が掲載されている。それによると、ソクラテス以前期の自然学が発生するに至る、時代環境や思想的基盤がいかなるものであったかを叙述することが目的であることを述べ、一般的にはタレスに始まるとするギリシア哲学史ではなく、ギリシア哲学以前の精神史的背景を探り出し、ギシリア的知性を生み、哲学と科学を与えた伝統を広範囲な視野において取り出してみたいと思ったのだという。

「抒情詩から自然哲学に移行する中間期に自然神秘主義体験を置く井筒の哲学が、バーネットによる文献学的実証によって学問性を否定された、ニーチェの神秘主義的解釈を知るわれわれであるなら、なぜいまさらと思われようが、抒情詩と自然学を繋ぐ精神史の流れの連続しつつ断絶している様相を明確にしたいのだと主張している。

 

第一章 自然神秘主義の主体Ⅰ

 

 はじめに直観があった

 井筒の心を呪縛した、ディールズの「ソクラテス以前期断片集」を通読した最初の日に感じた妖気のごときもの、「巨大なものの声」の正体を若年の彼が突きつめようとしたことが事の始まりである。根源に宇宙的体験があり、その虚空のような形而上的源底からあらゆるものが生み出されてくるという。「初めに直観があった」、つまり絶対的体験というべきものがあったのである。それを井筒は、「自然神秘主義的体験」と呼ぶ。人間の体験でなく、無限絶対な存在者としての「自然」が主体なのだ。絶対的超越的主格。「宇宙万有に躍動しつつある絶対生命を直ちに「我」そのものの内的生命として自覚する超越的生命の主体、宇宙的自覚の超越的主体としての自然を意味する」という。消えやらぬ熾火のような井筒の一途な情熱がひしひしと感じられるエクリチュールである。(『意識と本質』の文体と比較してみよ!)それゆえに彼の主観に沿って私もまた精神の高揚を体験させられるのだ。ソクラテス以前期の哲学者の言語を絶するこの自然体験を確証するには、彼らと同じ直観をもって深遠な宇宙の秘儀に参入しなければならない。そうすることによって、彼らの言語以前の体験からロゴスの世界が開けてくるプロセスを観ることができるというのである。宇宙に躍動し充満する生命を自らその中に身を浸すことによって、相互に己の生命と感応しロゴス化した、かつての偉大な哲人の体験を私たちも追体験し、ギリシア哲学発生の現場に立ち会い主体的に把握することの重要性を井筒は主張する。

 学的認識の根本条件は客観的であることにあるのだが、「神秘主義に関する限り、徹底的に主観的であることこそ、かえって真に客観的である所以なのではなかろうか」と井筒はいう。なぜなら神秘主義的体験を客観的に外側から観察し客観的に捕捉しても「死した死骸のほか何物も見出されないからである」という。


井筒俊彦『神秘哲学』再読(三)

2015年11月26日 | 日日随想

井筒俊彦『神秘哲学』再読(三)

小林稔

 序章Ⅲ

 

 一九七八年の「新版前書き」で、『神秘哲学』は最初一巻本として出版されたが、今回の新版で第一部、第二部と二巻本に分けて出すことになったことを述べている。第二部は戦後、病床になりながら生死の限界において書かれたことを告げる。第一部の「自然神秘主義とギリシア」は文学部の助手であったころの講義のノートを基にして書かれたものであるという。ほぼ四十年前の執筆当時を振り返り、「精神的現象の内蔵する哲学性、神秘主義的意識の次元における哲学的思惟に対する関心」だけは一貫して守り続けてきたことを確認する。「形而上学的思惟の根源に伏在する一種独特の実在体験を、ギリシア哲学というひとつの特殊な場で取り出してみようとする試み」であったという。「神秘主義と哲学の関係」は唯一プロティノスには明白であるが、プラトンやアリストテレスにおいては一般的には異論のあるところである。しかし井筒は、「ギリシア的思惟の底には、少なくとも密儀宗教的な神秘体験のパトスが渦巻いているという確信があり、そのパトスを明確に表面に取り出さずにはギリシア哲学へのアプローチは有りえないという信念があった。それは権力論から主体論に転回した、ミシェル・フーコーの古代哲学の基底にある「哲学と霊性」と共通する概念である。だが、四十年の「神秘主義的実在体験の哲学化の可能性」を顧みて、今なら直接に東洋思想、唯識、華厳のような大乗仏教の思想や老荘、ヴェーダンタ、スーフィズムといった神秘主義と哲学の内的連関が意識的な東洋哲学の伝統に向かうだろうという。

『意識と本質』以後に明確化した「共時的構造化」を展開しようとする井筒の脳裏には、広漠たる領野が広がり、気の遠くなる想いに暮れたであろう。だが、西洋の文学と哲学に全身を浸した迂回路の果ての東洋の発見は決して無駄ではなかった。彼自身にとってだけではなく、後に残された私たちに、有意義な遺産を残すことになった。この『神秘哲学』は、プラトン哲学に関心を寄せ、井筒のやり残した東洋哲学の継承を志す私に、井筒の辿った道を歩ませ、さらに東洋哲学の探求の径庭を拓く力を与するものである。

 


井筒俊彦『神秘哲学』再読(二)

2015年11月25日 | 日日随想

井筒俊彦『神秘哲学』再読(二)

小林稔

序章Ⅱ

 

 井筒にとって思想とは、「言語や風土や民族性を軸としてその周囲に現象し結晶する有機的にして流動的な実存的意味構造体として措定される」ものである。この言語意味構造体が後に「言語アラヤ識」として成育していく井筒哲学の最も重要なキーワードの一つである。このあとがきで井筒自ら説明するところを解読してみよう。あらゆる存在を認識するのはコトバであり、さまざまな言語体系によって哲学的思考がなされる。つまり言語の数だけ世界観があり、価値観がある。その内的世界は「言語アラヤ識的存在者」で満ち溢れている。したがって多種多様な言語意味単位で構成された、多種多様な「各言語文化組織」は、言語意味単位すなわち存在単位が「インターカルツュラリー」に展開し、やがて「人類の未来にひとつの集団的無意識界を構成する契機となるのではなかろうか」と井筒はいう。このような普遍的、融合的文化の成立は、無数の言語意味単位郡の有機的構造体として花開いた多種多様な文化の構造的分析と探求の彼方に求められるべきものであり、普遍的主体性が絶対無分節的なるものの自己分節的展開の秘境裡に探求されるであろうという。つまり、『意識と本質』で説明された、分節(Ⅰ)から「深層意識的事態」である無分節に至り、無「本質」的分節である分節(Ⅱ)の領域のことである。井筒が「修行道としての禅」の三角形として形象化したものであり、「深層意識的言語哲学」と呼んだものであった。ここでは「言語意味論的世界観学」と言い換えているが、主体的に学問にかかわり続けてきた、井筒の思想探求にとって不可欠な方法論にとどまっていることを告白している。

 

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