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ヒーメロス通信


詩のプライベートレーベル「以心社」・詩人小林稔の部屋にようこそ。

小林稔「来るべき詩」への大いなる序章・2015年12月15日現在。

2015年12月15日 | 日日随想

「来るべき詩」への大いなる序章 (2015年12月15日現在)

                            小林稔

創作――詩、小説

     詩学

     評論――『自己への配慮と詩人像』(評論集として刊行する予定)

           ミシェル・フーコー

             古代ギリシア――プラトン、アリストテレス、ストア派

             新プラトン主義、デカルト、スピノザ

             詩人像―ニィーチェ、ボードレール、ランボー、マラルメ

                 ノマディズム――マラーノの系譜

     

現代哲学

          ヘーゲル、ハイデガー、バタイユ、デリダ、レヴィナス、ラカン

バルト、ブランショ

 

東洋哲学――井筒俊彦、ギリシア哲学、ユダヤ哲学、イスラム哲学、仏教哲学

 

     音楽――バッハ、モーツアルト、ベートーベン、ショパン

 

     美術――ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、カラヴァジオ、ドラクロア、

           マネ、セザンヌ、ゴッホ、ピカソ

 

     文学――プルースト、ジャン・ジュネ、ユルスナール

 

     日本の近代詩、現代詩

         新体詩から現代詩へ、中原中也、冨永太郎、萩原朔太郎、金子光晴、西脇順三郎、

         鮎川信夫、鷲巣繁男、吉岡実

 

     日本の文学――松尾芭蕉、三島由紀夫、森茉莉、澁澤龍彦

            プラトン哲学―藤沢令夫

     

     日本の近代思想

            西田幾太郎、和辻哲郎、森有正

 

     評論家――小林秀雄、吉本隆明、粟津則雄,柄谷行人

 

註―――上記したものは、私が長年関心を抱いてきた人物をアトランダムに図式化したものである。まだ多くの人物が付け加えられるかもしれない。私のブログのカテゴリーをごらんいただいている人には、思いつきで多方面のジャンルに手を染めているという印象を持つ人もいるかもしれない。事実はそうではなく、四十年以上にわたる詩作の途上で培ってきた私の知の遍歴といったものであるが、ミシェル・フーコーの晩年の三年間のエピステメーを解読することによって、私が動かされてきた、見えない横断面が少しずつ浮き上がってきたのである。今後は一歩一歩継続して関連性を深めていくことにする。

     

すでになしえた試行錯誤の後を辿ると

     一、『自己への配慮と詩人像』、2009年から連載の形をとり、第二十三回を終了し、後半は自己への配慮から詩人     像を中心に展開していく。

     二、『意識と本質』解読、井筒俊彦の東洋哲学に関する一書を中心にすえ、評論集「来るべき詩学(一)」を2014年9月刊行。さらに続け、『意識の形而上学』読解に接続する。

     三、現代詩の源流として、新体詩から現代詩までの概略を十年以上前に発表しているが、さらに深めていく。萩原朔太郎論を準備する。評論集「来るべき詩学(二)」を2025年9月刊行。

     四、現代哲学の分野で、デリダ論序説(一)なる記事をブログに載せ、「来るべき詩学(一)」に収録。さらにエクリチュールを解明していく予定。

     五、ボードレール『悪の花』の翻訳(ブログに掲載中)を通して、ボードレール論を準備している。

     六、長年構想している、ミケランジェロの伝記的小説。今年中に書き始める予定。ヘレニズムとヘブライ思想(キリスト教)の芸術家の葛藤を描きたい。

 

 これらは相互に関連して記述されていくであろう。

 これらは「来るべき詩への大いなる序章」として進行する。

 上記の記述は私のためのメモ、あるいはブログを読んでくださる人への指標に過ぎない。

 人物一覧ではなく、テーマを中心にすえ表記することもできるのだが、もう少し進めな

 いと十分に書きとめることはできない。これらのプロジェクトは「詩作」において完成

 させるべきプロセスに過ぎないのである。人生の残された時間に完成できるか知らない


第九回 井筒俊彦『神秘哲学』再読。小林稔

2015年12月14日 | 日日随想

第一部 自然主義とギリシア

 

第三章 オリュンポスの春翳

 

 オリュンポス神系の成立以前

 オリュンポスの神々がギリシアの始原的神々であると久しく思われてきたが、その後の比較宗教学的研究によって、前段階があったことが判明したのだと井筒はいう。ホメロスによって描き出されたイリアス・オデュセイアの生誕によって、ギリシア精神の新しい世紀が始まるのであった。青春の栄光を讃え、光り輝く永遠の美を讃えるこの芸術的世界は、自然界の出来事を人の如き霊力の働きと見る、つまり原始未開民族に共通の「自然義人観」、神聖かつ不気味な怪物たちを制覇したのちに開花したものであったという。ホメロス叙事詩は、もとは植民地イオニアの貴族階級の神観であり、やがてギリシア本土に渡り、先ず社会の進歩的な人々が受け入れ、一般大衆は反発や反抗を長い間経てオリュンポス神観は浸透して行った。イオニア種族は、「全ギリシア人の叡智を代表する知性の前衛部隊であった」し、宗教においても、原始的信仰をまず脱却した人たちであったという。

 このイオニア的精神の決定的一歩によって「偉大な人間的神々の支配が始まり、大地は新しい神々の誕生を祝して歓喜の声を上げ」、「久遠の美と青春の象徴たる古典ギリシアが生まれた」と井筒はいう。

 

  私よりもせいぜい四百年前の人たちで、ギリシア人のために神の系譜をたて、神々の称号を定め、その機能を配分し、神々の姿を描いて見せてくれたのはこの二人、ヘシオドスとホメロスなのである。

(ヘロドトス『歴史』巻二―五三)松平千秋訳

 

 地中海の青い海と澄み切った青い空のもとで、光に満ち溢れた大気に慈しまれたホメロスの世界、その二大叙事詩、イリアスとオデュセイアの成立時代から差異のあることが読み取れる。井筒の解釈によれば、イリアスは民族移動時代の闘争の歴史を反映したものであり、純空想的理想図が描かれていて、英雄たちは理想化を経た超人間的人間であり、神に近い存在である。それに比べて、オデュセイアにおいては自分自身の生命的現実を昔の英雄たちの運命に反映させるところに移ってきている。つまり現実に対する態度の相違である。オデュセイアの世界には経験的要素が混入し、現実的な翳が射しかけている。それは後のヘシオドス的要素、空想を去って現実に赴こうとする傾向がすでに見え隠れしている。しかしながら、この二つの叙事詩に共通する世界は、ともに詩的幻想世界に過ぎないのである。やがてイオニアが生んだホメロスの世界に新しい精神の動向が芽生え、そこからイオニアの抒情詩が始まり、イオニアの自然科学者たちが誕生することになるのであるが、彼らをより現実世界に駆り立てたのが、農民詩人ヘシオドスの叙事詩であった。


宗教のはじまりについて。井筒俊彦『神秘哲学』再読(八)小林稔

2015年12月06日 | 日日随想

井筒俊彦『神秘哲学』再読(八)

小林稔

 

 第一部 自然神秘主義とギリシア

 第二章 自然神秘主義的体験Ⅱ

 

存在の謎

 あらゆる存在者の相対性、存在者は在りつつしかも無いものであり、ないものでありながらしかも有るという有無のパラドックスは、存在の核心に纏綿する最大の謎であると井筒はいう。このオルフェウスの宗教的存在体験を最もよく近代文学に再現した詩人としてリルケを挙げ、その有名な詩「秋」を、井筒は俎上に載せ解読する。紹介してみよう。

 

  木の葉が落ちる 落ちる 遠くからのように

  天空の遠い園生が枯れたように

  木の葉は否定の身振りで落ちる

 

  そして夜々には 重たい地球が

  あらゆる星の群れから 寂寥のなかへ落ちる

 

  われわれはみんな落ちる この手も落ちる

  ほかをごらん 落下はすべてにあるのだ

 

  けれどもただひとり この落下を

  限りなくやさしく その両手に支えている者がある

                      (富士川英郎訳)

 

「リルケが凝視する物たちは、いなむ身振りをしながら降りしきる秋の枯葉のように小やみなく、刻々に、無の暗黒の底深く陥落して行く。しかも、一瞬の休みもなく落下して行くこれらのものを、何処かに一つの者があってそのやさしい両手にそっと受けとめ、刻々に新しい存在を与えている」という。一般的に人は物に名を与え、物を固定化する、つまり相対的事物であることを忘れ絶対視する。人間だけが有する特権である、一切のものは絶えず無に顚落し、その同じ瞬間にまた有に向ってつき上げられながら、永遠にそれを自覚することなく、ただそのまま「永遠の交換」(ヘラクレイトス)を繰り返すばかりであるが、人間のみが忽然としてこの実相が開示される瞬間が来ると井筒はいう。そのとき無の深淵を覗き、絶望の叫喚を上げるとともに、自己と万物を優しく受け止めてくれる不思議な愛の腕をあることに気づき、幽玄な一つのものに対して、懊悩と憧憬を感じることが「宗教の初め」であると井筒は解釈する。

 

 絶対否定的肯定

「宗教的懊悩とは相対的存在者が自己の相対性を自覚した結果、これを超脱しようとして、しかも流転の世界を越えることのできない苦悩であり、宗教的憧憬とは、それでもなお霊魂が永遠の世界を瞻望し、絶対者を尋求してこれに帰一しようとする切ない願いにほかならない」と井筒は主張するのである。

 

 不思議な愛の腕、と井筒は言った。万物は絶えず落ちて行き、再び存在に還される、万物流転を動かす「一なるもの」とは何者なのか。「それは神羅万象の生命の源泉,あらゆる存在の太源、いや「存在」そのもの」であろうという。「それでは、宇宙的愛の主体としての「存在」は窮極に於いてそも何者であり、かつ人はいずこに求めて、この「一なるもの」で逢着できるのであろうか」と井筒は自問自答する。自然神秘主義が一つの解答を提出したというのだ。それは「渾然たる一者としての宇宙、汝自らにほかならない」ということ。自らの奥に神を求め、求めつつ汝の心の底を打ち破って大宇宙に窮通せよ。これがオルフォイの神託「汝自身を識れ」の神秘主義的解釈であると井筒はいう。このことは「人は直ちに神だ」ということであり、「自然的宇宙がそのまま絶対者だ」ということを意味するだろう。しかし、自己や万物の相対性を知り、あらゆるものが無の暗中に絶えず陥落しつつ、何者かに受け止められ危うく存在を保つ光景を見たその人が、「何者か」であり宇宙的詩の主体であることが果たして許されるのか、ギリシア人が神々の忌み憤るところのものとされる倨傲(ヒュプリス)ではないのかと井筒は自問する。もちろん先の論の神秘主義的解釈を肯定するための迂回路である。

「世界は神の世界である。故にひとり神のみ世界を救うことができる。この世から神への連続性はなく、そこには絶対的裂罅がある」というカール・バルトの言葉を引用し、神と人との懸隔を強調し、人はひたすら跪き無限の彼方の見えざる神に祈るしかない。この「絶対隔絶的結合」こそが宗教的真髄であるという。さらにピンダロスの「人間の身は影の夢」を引き合いに出し、無益なはからいは棄て、全身全霊をあげて神にささげるべきであり、このように自らを滅し,自我が完全に破砕されたとき、無限に隔絶する神と人は、隔絶するままに超自然的愛の不思議ないとなみによって結合されるという。しかし井筒はいう、自然神秘主義はこれらに厳しく異を唱えると。絶対乖離的結合を成した人間は、依然として「人」であり、否定された人は、新しい人として神と和解している。反抗を放棄した自我が生まれ絶対者と新しい関係において対峙していることになる。絶対者を障礙(さまたげ)している。

 このように自然神秘主義では、一度否定された自我がさらにもう一度否定され、絶対空無が現前するに及んで、はじめて絶対者は真に絶対者として自己を露現するという。このときにはいかなる自我も相対者と隔絶対立する絶対者もない。いかなる意味の相対者もないということがすなわち絶対者なのであり、絶対否定即絶対肯定と言われる所以であるという。つまり、人が自性を保持し人である限りは絶対者は渾然たる全者として現われることができない。人が完全に完全無欠に消滅したとき、絶対否定の虚空のうちに、絶対者が露現するという。このような境位を神秘主義では「人が神になる」と表現したのだという。もはや人の体験ではなく神が神になり、絶対者が絶対者になることだ。右に述べたことだが、相対的人間意識の超越的無化があって絶対者の覚存が現証されるというのだ。超越的絶対意識の出現を人間の「神化」と名づける所以である。(スコトス・エリウゲナ)人は窮極的に殺されることによって、徹底的に生かされ、絶対的に否定されることによって否定的に絶対化されるという。人間意識が無に帰することによって否定的に宇宙意識になるという。そこからいかなる思想が発展するのかは後に述べることにして、その前に自然神秘主義思潮勃興の背景をなすギリシア精神の盛衰をホメロスまで遡って検討したいという旨を伝え、次章に続く。


井筒俊彦『神秘哲学』再読(七)小林稔

2015年12月03日 | 日日随想

井筒俊彦『神秘哲学』再読(七)

小林稔

 

 第二章 自然神秘主義的体験Ⅰ

       ――全体否定的肯定――

 

 無の深淵

 

青春の日を楽しめよ、わが胸。

やがて他の人々の生まれ来てわれは息の緒絶え、

黒き土塊となりてはつべし。

 

 メガラの抒情詩人テオグニスの、有為転変を常とする世の中において、生の儚さを青春の日々の栄光を讃えることで生滅無常を歌う詩の一節を引用し、井筒はこの章で、人間の宗教的欲求から生起する神秘主義への憧憬を抽出しようとする。

 紀元前六世紀に、自然神秘主義的思潮はギシリア世界に興隆し、西洋の哲学と西洋の自然科学は誕生したと井筒はいう。つまりソクラテス以前のイオニア、イタリアの思想家たちは自然神秘主義という新宗教運動体験の主体であったのである。

 それでは自然神秘主義とは何か。井筒は「無」を人はいかに捉えたかを説明することから始める。「あらゆる存在者の根底には必ず無がひそんでいる」という。絶対的に有と言いえるものはない。「あらゆるものは無の絶壁上に懸けられた危うく脆い存在である」という。万物の存在の基底にひそむ無の深淵を覗き込み慄然とする。存在そのものがすでに存在否定的要素を不可避的に抱いている事実を知り、「実存の不安」に苛まれる。この「無の深淵」の不安として自覚されるとしても、「存在者の有が無に裏付けられ、無を含むということは、それが本質的に相対的存在であるということにほかならない」。「存在の無とは自己のうちなる無であるとともに、他者に対する無でもある」という。つまり「すべての存在者は他者を否定することなしには自らの存在を確保することのできない罪深いものなのである」と井筒は解く。イオニア的考え方では、存在そのものが「不義」とされるという。個別的相対者の存在は、絶対者に対する罪ではなく、個別相互間の「罪」であり「不義」なのだという。

 

同一の河流に我々は足を入れしかも入れず、我々は在りしかも在らぬ。(ヘラクレイトス)

 

それらのもの(存在者)は己が不義にたいし、『時』の判決に従って互いに罰を受け、償いを払わねばならぬ。(アナクシマンドロス)

 

 存在の根源的悪に対する哀傷、存在者の相互否定的相対性は、紀元前六世紀イオニアの精神的空気であるという。「他者を否定することなしに自ら存立することのできない相対者の存在はいわば存在することによってすでに他に対して不義不正の罪を犯しているという考えは、個人が正当な権利を主張する反面、他者の権利を侵害することを禁じる法的国家の成立を背景として理解されるという、イエーガーの論述も尊重すべきであるが、「存在の相対性」をアナクシマンドロスは社会的法的人間生活のアナロジーとして表現しようとしたことを忘れてはならないと井筒は主張する。それであればこそ、アナクシマンドロスのみならず、「不断に成壊去来して常なき事物の実相を徹見」し、「イオニアの詩人たちは、常住不変の彼岸の世界に憧れ、イオニアの哲人たちは永久不滅の絶対者、「根源」(アルケ―)を尋求したのではなかったのか」と問う。


井筒俊彦『神秘哲学』再読(六)

2015年12月02日 | 日日随想

井筒俊彦『神秘哲学』再読(六)

小林稔

  第一部 自然神秘主義とギリシア

    第一章 自然神秘主義の主体Ⅲ

「万物は神々に満ちている」(タレス)

 イオニアの自然学も、南イタリアのエレアの存在論も、西暦紀元前七世紀から五世紀にわたって出現した大動乱時代の只中、紀元前六世紀に、新宗教精神、つまりオルフォイズム・ピュタゴリズムの中から起こった思想である。「彼らの宗教体験のロゴス化がそのまま彼らの自然学なのであり、存在論であった」と井筒はいう。宗教と哲学は同一物であった。大文明が出現しては滅びて行った動乱の三百年、アジア、アフリカ、ヨーロッパが地中海をめぐって相対し、「社会的にも精神的にもあらゆる古いものが伝統の地盤から根こそぎにされ、次々に崩壊して行った」時代であるという。政治生活の分野では、神々の後衛を自負する王家が失墜し、個人が支配を握る下剋上の風潮が到来する。社会生活の分野では、貴族階級が内乱党争に揉まれ、ギリシア民族を統一支配してきたホメロス・ヘシオドス的叙事詩が凋落し、自我の覚醒からその想いを歌う抒情詩が興隆してくるという、「我」の時代の到来である。このような状況の中で新しい世界観の哲学思想が生み出されていったのである。

 この大変革の実相を詳細に論じ、いかなる歴史的苦悩のうちにギリシア人たちが自然神秘主義に近づいて行ったのかを、井筒は以下の論文で熱く語っている。ソクラテス以前期の思想家たちの宇宙は神々に満ちており、彼らの残された著作の断片もまた神々と精霊の気に満ちていると井筒はいう。それらに立ち向かう井筒も、私たちも、自然神秘主義思想に、古くからギリシア人特有の、超越的直観、「似たもの」を感受し共鳴しながら、ギリシア哲学の知性がいかなる神秘体験を征服して成立したのか、あるいはギリシア哲学は、西洋文化の礎となるべく普遍性の基底に神秘思想をいかに内在させているのかを読み解いていこう。やがて我々の意識の奥に眠る東洋思想の胚芽を呼び起こすため、井筒哲学の一歩となったギリシア哲学の森を踏破していこう。

 

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