ヒーメロス通信


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井筒俊彦『神秘哲学』再読(五)

2015年11月29日 | 日日随想

井筒俊彦『神秘哲学』再読(五)

小林稔

第一部 自然神秘主義とギリシア

第一章 自然神秘主義の主体Ⅱ

 

 似たものは似たものによって認知される

 イオニアの自然学に始まり、アレキサンドリアの新プラトン主義に至るギリシア形而上学の根底には、超越的「一者」体験の深淵の存在がある。「似たものは似たものによって認知される」という考え方は、古くからギリシア人の間に広く行われた特徴ある思想であると井筒はいう。ナルシシズムを思わせるこの考え方は、私がプラトンの対話篇を読むたびに感じてきたものである。このことを井筒的に解釈すれば、それは神秘主義的の根底をなすものであり、個人的意識を超越した知性の極限に、知性そのものが自らを越えた絶空のうちに、忽然と顯現する絶対的超越者の自覚である。このような神秘主義体験を経験しようとするなら、自らが神秘主義の主体とならなければならぬと説明する。「等しいものは等しいものによってのみ認知される」というのである。つまり「超越的直観」が必要とされるのだ。ソクラテス以前期の、ニーチェのいう「巨人たち」の言説の断片を私たちがほんとうに知ろうとするなら、「似たもの」の経験をする必要がある。井筒がそう主張するのは、彼自身が若いころに似た体験をし、「巨大なものの声」を聴き、「パトスの地下の声」に彼の琴線が触れたからである。それなくして、プラトンもアリストテレスも教養の書棚に収納されているに過ぎない。西洋哲学を知ろうとするものに、まずソクラテス以前期の哲人たちの声に興奮と歓喜を覚えずして出発はない。哲学といえば、若いころの郷愁しか覚えないものに井筒哲学を紐解くことは無意味だろう。井筒のその後の径庭を少しでも知る者には、この西洋哲学に全身全霊で立ち向かい、やがて東洋哲学を全世界的なエピステメーに成就しようとした「共時的構造化」の構想を抱き、『意識と本質』、そして遺作『意識の形而上学』などの著作群に迂回しながらも辿りついた彼の足跡は、彼の試みを継承する者に、同じ最初の地点に立つことの重要性を、この書物『神秘哲学』において訴えているのであろう。

 

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