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京都の春、ちょうど受験シーズンには多くの参詣客でにぎわう北野天満宮。
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かくいう私めも、子どもたちの受験の時は、ここをお参りし、合格祈願のお守りを買い求めたものである。その事もずいぶん昔のことになってしまった。
北野天満宮も、学生時代から通学路みたいな形でよく通り抜けたものだ。
北野天満宮のすぐそばを流れる紙屋川沿いの小径を抜けて学校に通うのがお気に入りのコースだった。
その紙屋川を北へ登っていくと、閑静な住宅街の中に花山天皇陵が所在している。
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花山天皇は、大河ドラマ「光る君へ」では、かなりエキセントリックな人物に描かれている。実際のところはわからないが、それでも当時の天皇としては異例の人物であったようである。
少しその人物について記してみると、花山天皇は、名は師貞、父は冷泉天皇で、母は、藤原伊尹の娘、藤原懐子である。
984年、円融天皇の譲位を受けて、17歳で即位する。この時点で外祖父にあたる藤原伊尹はすでに死亡しており、有力な後ろ盾等がいない状態であった。
藤原義懷や藤原惟成を起用し、荘園整理令や物価統制令などを行ったが、寵愛していた女御藤原忯子が早逝すると、政治等に興味を失いつつあり、在位2年とわずかで寛和の変と呼ばれる藤原兼家の謀略により、元慶寺にて突然の出家を果たし、一条天皇に譲位をした。その後は、法皇となり、41歳で元慶寺にて死去したと伝わる。
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花山天皇の墓所については、「日本紀略」という本では、紙屋川の上、法音寺の北と記されており、また、「御堂関白記」では、大和寺の東辺りとするが、法音寺も大和寺も早く廃絶しており、所在がわからなくなっていた。
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江戸時代末期の文久の修陵の際、現在の陵とされている場所にあった字法音寺屋敷という場所にあった「菩提塚」を花山天皇陵として、濠に囲まれた方丘に修陵し、現在に至っている。
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平安時代の陵墓については、古代以上にわからなくなっているのが実情のようである。
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この天皇陵を訪れたときは、ちょうど3月の中頃で早咲きの桜がちらほらと咲いている様子で、この時も桜の花がわずかに咲いていた。
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