嵐電の鳴滝駅から、帷子ノ辻駅で嵐山本線に乗り換え、嵐山方面に向かう。嵐電嵯峨駅で電車を下車、南へ少し歩くと右手に長慶天皇陵に向かう参道がある。
参道は結構長い。京都の市街地だとこれだけ長い参道というのはないが、少し外れたところにあるのでこれだけの敷地があるのかもしれない。
ちなみに長慶天皇という天皇はあまり知られていないかもしれない。南北朝時代の南朝の天皇で、後村上天皇から位を譲られたとするのだが、長らく長慶天皇が本当に即位したのか、在位、非在位の論争があり、明治時代に南朝が正統とされるも、長慶天皇が、天皇に加えられることがなく、大正15年になり、ようやく皇統譜に列せられた。
長慶天皇が在位していたとされる時期は、南朝がもうかなり振るわなくなっており、長慶天皇の在所も、吉野や河内の金剛寺、大和の栄山寺など転々としていた。弘和3(1383)年に後亀山天皇に譲位したのち、南朝の協力を求めて、各地を転々としたと伝えられる。
なお、南北朝合一後も京には還幸せず、亡くなった場所も、天龍寺の塔頭である慶寿院など諸説あり、確定はしていない。
以上のような経過もあり、長慶天皇の墓所もきちんとは伝わっておらず、慶長天皇の陵と伝わる所も全国津々浦々にあり、70ヵ所にも及ぶという。
長慶天皇の陵については、確定したものがなく、戦前には臨時陵墓調査会が宮内庁に置かれ、長慶天皇陵の所在地の確認を行ったが、結局の所、確定した情報を得ることが出来ず、正式な所在は不明のままであった。
最終的に、臨時陵墓調査研究会は、埋葬地以外を陵墓として指定している安徳天皇陵などの「擬陵」という考えを用いて、長慶天皇の皇子海門承朝が居住し、長慶天皇の終焉の地の一つであり、供養所であった天龍寺の塔頭慶寿院があったとされる現在の長慶天皇陵がある場所を昭和19(1944)年に長慶天皇陵として定め、現在に至っている。
このような複雑な経緯をたどった長慶天皇陵ではあるが、訪れる人もなく、ひっそりと嵯峨のまちの中に佇んでいる。
また、天皇の皇子である海門承朝の墓も、長慶天皇の陵に並んで造られている。
一列に並んでいるというのもどうにも不思議な感じである。
長慶天皇陵についても、神武天皇陵などと同様に天皇すべてに陵がなければならないという要請に基づいて創作されたものである。これも近代天皇制を表わす一コマであろう。
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