淳和天皇御母藤原旅子陵から府道142号線に戻り、さらに国道9号線を歩いていくと、樫原廃寺跡史跡公園があり、さらに歩いていくと天皇の杜古墳が道路に面して所在している。
古墳の周りは史跡公園として整備されていた。
「史跡天皇の杜古墳」と刻まれた石標があり、そこから公園の中に降りることが出来る。
天皇の杜古墳というちょっと変わった名称は、かつてこの古墳が、平安初期の天皇、文徳天皇の御陵という伝承に基づくものである。
ただ、この古墳が築造されたのは、古墳時代の前期、4世紀末の築造と考えられており、実際は、文徳天皇とは関係がなさそうである。(ちなみに文徳天皇陵については、「京都洛西の天皇陵めぐり④ ~文徳天皇田邑陵~」を参照)
公園内には、説明板も立てられている。
天皇の杜古墳は、墳丘長83.0mの前方部が広がらない柄鏡式の二段築造の前方後円墳である。
航空写真などを見ると、周濠等があったように見えるのだが、1988年~90年にかけて行われた発掘調査では確認されず、墳墓の区域を周囲と区分するために整地された兆域だと考えられている。
これだけの古墳なのに、周濠がないのもちょっと不思議な感じ。
それは、奈良や大阪の古墳を見慣れているからかもしれない。
墳丘に沿って、公園内を歩いてみると、墳丘の中に入ることが出来るようになっていた。
そこは、マニアの悲しい性、こういうのを見ると放っておけない。早速、墳丘を登ってみると、斜面が途中緩やかになり、また斜面になっているので、二段築造であることを感じることが出来る。
後円部の墳長に上がると、平坦になっている。ただ、特に埋葬施設を示すものはなかった。
ちなみに埋葬施設については、調査をされていないためよくわかっていないようだ。
後円部から前方部に向かって歩いていく。前方部は、後円部からは少し低くなっているようだ。
天皇の杜古墳は、桂川の右岸に築造されており、周辺にも遺跡地図を見る限り、いくつかの古墳が点在しており、この辺りの古墳群の盟主的な豪族の墓と考えられそうである。
この日も、古墳の周りでくつろいでいる人は、遊んでいる子どもたちがおり、市民の憩いの空間として親しまれているようである。
そして、京都市内には、なかなかこういう大きな古墳が保存されているようなところがなく、非常に貴重なものであると改めて実感した。
そして、この後は、阪急の桂駅をめざしてぶらぶらと歩くことにしよう。この日は、思いもかけずかなり歩いたよ、疲れた。(笑)
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