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アメフト観戦記や読書日記を綴っていましたが、最近は古墳(コフ)ニストとして覚醒中!横穴式石室をもつ古墳にハマっています。

和泉の古墳① ~和泉黄金塚古墳~

2021-08-15 23:54:10 | 史跡を歩く

 数年前になるが、和泉市の和泉黄金塚古墳の見学会があり、まだブログにUPしていなかったので、改めて掲載。和泉黄金塚古墳と言えば、ひと昔の古代史の本ではかならずのように取り上げられていた古墳である。昭和20年に森浩一氏や末永正雄氏が緊急調査を行い、短甲や鉄刀、革製漆塗盾などが出土し、昭和25年には、大阪府教育委員会と日本考古学協会の合同調査が行われている。その時には、粘土槨に木棺を収めた埋葬施設が三つ検出され、中央槨からは、三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡、鉄刀、鉄剣、鉄斧など多くの出土品が出土しており、特に画文帯神獣鏡は、「景初三年」と書かれた銘文があり、ちょうど邪馬台国の卑弥呼が魏から100面の銅鏡が下賜されたという記述の銅鏡との関係が注目されていた。

 まあ、昔ほど、古代史を語るのに、邪馬台国、邪馬台国と言わなくなったせいか、和泉黄金塚古墳への言及も少なくなっているような気がしている。

 この昭和25年に行われた発掘調査の記念碑が、古墳の後円部の墳頂にある黄金塚と刻まれた石碑である。その裏には、末永正雄氏や森浩一氏らの名が記されている。

 

 和泉黄金塚古墳は、全長94mの前方後円墳であり、墳丘の周りには盾形の濠が巡らされていたらしい。(佐紀盾列古墳群の佐紀陵山古墳などの類似が考えられる。)築造は4世紀末と考えられている。景初三年(239年)からは、100年以上も後になるが、おそらく中国から伝えられたのち、この古墳の被葬者の何世代か前が譲り受け、しばらく伝世したのち、この古墳の副葬品として埋葬されたのだろう。ちなみに埋葬施設の東棺からは、頭骨と歯が出土しており、壮年期の男性のものであるそうだ。埋葬順序としては、中央槨、次に東槨、西槨の順と考えられている。

 

 墳丘は、こんな感じでぼこぼこになっている。これは、太平洋戦争の折、周辺の見晴らしのよさから、高射砲の陣地とされ、墳丘の縦横に塹壕が掘られたためである。ある意味これも、りっぱな戦争遺跡である。

 

 後円部から前方部を見たところ。左側の低いところは周濠の跡かな。

 

 墳丘の上は確かに見晴らしがいい。高い建物もないので非常にながめがいい。

 

 後ろのコンクリートの塔は和泉市のクリーンセンター(清掃工場)である。

 

 これも塹壕の跡だろうか。こんな穴ぼこもいくつもあった。今後、和泉黄金塚古墳も整備されていくことになった場合、当然、これらの戦争の傷跡も残していく必要があると思う。そういったことを無視して、古代の形に戻すことは、歴史の改竄に当たるのではないだろうか。

 

 ちなみに和泉黄金塚古墳のアクセスは最悪である。Googleマップなどで見ると、周囲が棚田などで囲まれていて牧歌的田園風景を見ることができるように思えるが、古墳までの道が雑草で覆われ、古墳自体作で囲まれているため墳丘に近づけそうにない。こういう見学会などの機会を捕まえないと難しいような気がする。

 

 墳丘に新しい石碑もたっているので、将来的には整備しようと思っているのかもしれない。(早速ひび割れてるな。)

 

 そういえば、最近の調査で葺石や前方部の円筒埴輪列などが確認されているとのことだ。ちなみに史跡指定されたのは平成8年って、えらい最近までなおざりにされてたんだなあ。有名な古墳だけに、ちょっと意外だった。


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