
墓山古墳には、向墓山古墳、浄元寺山古墳、西馬塚古墳、野中古墳の4基の陪冢が現存している。向墓山古墳、西馬塚古墳については、応神天皇陵の陪冢として指定を受けており、野中古墳は、国の史跡の指定を受けている。
野中古墳については、東西の方向に横を向いている墓山古墳の北側の住宅地の中にあり、一見民家の庭の中にあるのかなと思うようなところにある。

野中古墳は、一辺37m、高さが5mの方墳であり、周囲には周濠がめぐっていたらしい。この古墳は、大阪大学を中心に発掘調査がなされており、その成果を少し前堺市立博物館で見た記憶がある。多量の甲冑や鉄鏃などが出土している。但し、人体を埋葬したとおぼしき施設は発見されておらず、副葬品のみを埋葬した古墳であるようだ。当時は貴重品であった鉄製品をこれだけ埋葬することができるということは、墓山古墳に眠っている人物の勢力がうかがい知れるような気がする。

また、この古墳は実際に墳丘に立ち入ることができる。写真は墳頂の様子。斜面に見えている石は葺石の跡なのだろうか?
羽曳野市役所から墓山古墳に行く途中の斜面に、向墓山古墳がある。

この古墳も方墳で、一辺は68m、高さは約11mの2段築造となっている。宮内庁が応神天皇陵に号陪冢としているため、内部の発掘調査はされておらず詳細は不明である。

向墓山古墳から南東に200mほど行ったところに、西馬塚古墳がある。

住宅に囲まれてあるので、ちょっとわかりにくいかもしれない。この古墳も、墓山古墳の陪冢だと考えられている。(しかし、宮内庁は、応神天皇陵の陪冢として管理している。)墳丘はかなり削り取られていて形がわかるにくくなっているが、一辺42m、高さ約9mの方墳であり、周囲には周濠が廻らされていたようだ。馬塚古墳という名称は、おそらく日本書紀に出てくる田辺史伯孫という人の逸話にちなんだ名称ではないかと思われるが、残念ながら、西馬塚古墳からは、家や衣蓋、盾などの形象埴輪が出土しているが、馬の埴輪は見つかっていないという。
もし、日本書紀の田辺史伯孫の話の舞台が、この古墳だとすれば、8世紀の人々には、応神天皇の墓陵については、墓山古墳と認識していたのかもしれない。現在、応神天皇陵として治定されている誉田山古墳についても、東馬塚古墳と名づけられている陪冢がある。この説話はこちらの古墳のことかもしれない。

次に、墓山古墳の前方部の西側に、墓地を挟んで浄元寺山古墳がある。この古墳は、一辺67m、高さ約10mの方墳で、やはり周濠を廻らされていたようである。古墳について、発掘調査はあまりなされていないようで埋葬施設など詳しいことは不明である。

また、浄元寺山古墳の南側にもかつて西墓山古墳という方墳があったが、現在は消滅している。ただし、発掘調査によって大量に鉄製品を納めた施設が見つかっている。この古墳も野中古墳と同様に副葬品を納めるための古墳であったようだ。

ちなみに浄元寺山古墳の案内板のある公園の辺りに西墓山古墳はあったのか?
これだけの陪冢を備えている墓山古墳が、応神天皇陵の陪冢とはかなり考えられにくく、大王あるいはそれに近い人が埋葬されていると考える方が妥当ではないだろうか。
野中古墳については、東西の方向に横を向いている墓山古墳の北側の住宅地の中にあり、一見民家の庭の中にあるのかなと思うようなところにある。

野中古墳は、一辺37m、高さが5mの方墳であり、周囲には周濠がめぐっていたらしい。この古墳は、大阪大学を中心に発掘調査がなされており、その成果を少し前堺市立博物館で見た記憶がある。多量の甲冑や鉄鏃などが出土している。但し、人体を埋葬したとおぼしき施設は発見されておらず、副葬品のみを埋葬した古墳であるようだ。当時は貴重品であった鉄製品をこれだけ埋葬することができるということは、墓山古墳に眠っている人物の勢力がうかがい知れるような気がする。

また、この古墳は実際に墳丘に立ち入ることができる。写真は墳頂の様子。斜面に見えている石は葺石の跡なのだろうか?
羽曳野市役所から墓山古墳に行く途中の斜面に、向墓山古墳がある。

この古墳も方墳で、一辺は68m、高さは約11mの2段築造となっている。宮内庁が応神天皇陵に号陪冢としているため、内部の発掘調査はされておらず詳細は不明である。

向墓山古墳から南東に200mほど行ったところに、西馬塚古墳がある。

住宅に囲まれてあるので、ちょっとわかりにくいかもしれない。この古墳も、墓山古墳の陪冢だと考えられている。(しかし、宮内庁は、応神天皇陵の陪冢として管理している。)墳丘はかなり削り取られていて形がわかるにくくなっているが、一辺42m、高さ約9mの方墳であり、周囲には周濠が廻らされていたようだ。馬塚古墳という名称は、おそらく日本書紀に出てくる田辺史伯孫という人の逸話にちなんだ名称ではないかと思われるが、残念ながら、西馬塚古墳からは、家や衣蓋、盾などの形象埴輪が出土しているが、馬の埴輪は見つかっていないという。
もし、日本書紀の田辺史伯孫の話の舞台が、この古墳だとすれば、8世紀の人々には、応神天皇の墓陵については、墓山古墳と認識していたのかもしれない。現在、応神天皇陵として治定されている誉田山古墳についても、東馬塚古墳と名づけられている陪冢がある。この説話はこちらの古墳のことかもしれない。

次に、墓山古墳の前方部の西側に、墓地を挟んで浄元寺山古墳がある。この古墳は、一辺67m、高さ約10mの方墳で、やはり周濠を廻らされていたようである。古墳について、発掘調査はあまりなされていないようで埋葬施設など詳しいことは不明である。

また、浄元寺山古墳の南側にもかつて西墓山古墳という方墳があったが、現在は消滅している。ただし、発掘調査によって大量に鉄製品を納めた施設が見つかっている。この古墳も野中古墳と同様に副葬品を納めるための古墳であったようだ。

ちなみに浄元寺山古墳の案内板のある公園の辺りに西墓山古墳はあったのか?
これだけの陪冢を備えている墓山古墳が、応神天皇陵の陪冢とはかなり考えられにくく、大王あるいはそれに近い人が埋葬されていると考える方が妥当ではないだろうか。
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