
平成27年12月20日(日)
これも昨年現地説明会に行ったもの。この日、いっぺんに3カ所の現地説明会があったので、あんまり記憶に残っておらず置いてあったのを、YouTubeで説明会の動画を見つけて、それを元に記憶を呼び戻しながら記述することにした。しかし、便利な世の中になったなあ。居ながらにして何でも情報は入手できるんだなあ。
さて、話は、興福寺の現地説明会に戻しましょう。この日は非常にお天気も良かったので大勢の方が見学に来られてたようで、調査区域に入るのに少し並んで待った記憶がある。今回の発掘調査の目的は、興福寺では、1989年に興福寺境内整備基本構想をたて、それに基づき、寺観の復元や整備を行っており、今回の発掘調査は、その一環で行われたものである。
まずは、鍾楼について、今回は鍾楼の規模を確認するために行われた西北部の遺構について説明が行われた。

西北部の発掘では、西北隅に礎石が一基確認されている。また、表面にもいくつかの礎石が顔を出しているので、そこから得られるデータとしては、桁行3間×梁行2間の南北棟の建物であり、大きさとしては、南北10m、東西7.1mと推測されている。

基壇の規模については、一部の調査のみで推測ではあるが、東西12m、南北で14mほどと推測されている。
また、基壇では、基壇の外装部と見られる凝灰岩の石材が見つかっている。石自体は、室町時代以降のものらしい。

基壇の外側に東西の石組みの溝が走っている。(東西溝3)この東西溝については、経蔵の北にも同じように東西溝が見つかっているのでそれと繋がっていると考えられている。

この溝については、興福寺の創建時にさかのぼる可能性もあり、(説明会では、古代の世界と表現されていた。)講堂周辺の排水溝ではなかったかと考えられている。

また、東西溝の北では、玉石敷が検出されており、この玉石敷も東西溝と同様に経蔵の北側のものと繋がると考えられている。
次に経蔵の説明に向かう。(今回は、それぞれの調査区でも説明があった。)
経蔵については、経蔵の全容を明らかにするために全面を調査している。

経蔵についても、桁行3間×梁行2間の南北棟の建物である。ほぼ鍾楼と同じ大きさと考えられるが、説明会の資料では経蔵の方が少し小さい。(約6.5m)また、礎石が11基の他、礎石の据付穴、抜取穴も見つかっている。

今回の発掘調査の結果、礎石については、ほぼ創建時の位置を保っているとのことである。
基壇については、鍾楼と同様に地山を削りだし、その上に積み土をして作っている。規模は南北に約15m、東西に約11mとなっている。

基壇外装についても、創建時のものは見つからず、室町時代以降と考えられる石材が一部残っている。ほとんどは近代以降に抜き取られている。

また、江戸時代の階段跡(?)と考えられる高まりも見つかっている。

基壇の東面に沿って、瓦溜が検出されている。瓦は近世のものが主で、享保年間の火災の片づけ伴って破棄されたものだと考えられている。
この辺りはずっと、中世、近世の世界と言えそう。

ここからが古代の世界で、東西溝(東西溝2)と玉石敷(玉石敷1)が検出されており、これが鍾楼の所で見つかった東西溝3、玉石敷3と接続する。

写真の下部に見えるのが玉石敷2である。これは、東西溝を挟んで玉石敷1と接続するそうだ。
今回見つかった石組み溝は、講堂周辺の排水のための溝であり、玉石敷は、僧房や講堂などの建物の間をつなぐ道路であった可能性があるとのことである。中室については、パート②ということで。
これも昨年現地説明会に行ったもの。この日、いっぺんに3カ所の現地説明会があったので、あんまり記憶に残っておらず置いてあったのを、YouTubeで説明会の動画を見つけて、それを元に記憶を呼び戻しながら記述することにした。しかし、便利な世の中になったなあ。居ながらにして何でも情報は入手できるんだなあ。
さて、話は、興福寺の現地説明会に戻しましょう。この日は非常にお天気も良かったので大勢の方が見学に来られてたようで、調査区域に入るのに少し並んで待った記憶がある。今回の発掘調査の目的は、興福寺では、1989年に興福寺境内整備基本構想をたて、それに基づき、寺観の復元や整備を行っており、今回の発掘調査は、その一環で行われたものである。
まずは、鍾楼について、今回は鍾楼の規模を確認するために行われた西北部の遺構について説明が行われた。

西北部の発掘では、西北隅に礎石が一基確認されている。また、表面にもいくつかの礎石が顔を出しているので、そこから得られるデータとしては、桁行3間×梁行2間の南北棟の建物であり、大きさとしては、南北10m、東西7.1mと推測されている。

基壇の規模については、一部の調査のみで推測ではあるが、東西12m、南北で14mほどと推測されている。
また、基壇では、基壇の外装部と見られる凝灰岩の石材が見つかっている。石自体は、室町時代以降のものらしい。

基壇の外側に東西の石組みの溝が走っている。(東西溝3)この東西溝については、経蔵の北にも同じように東西溝が見つかっているのでそれと繋がっていると考えられている。

この溝については、興福寺の創建時にさかのぼる可能性もあり、(説明会では、古代の世界と表現されていた。)講堂周辺の排水溝ではなかったかと考えられている。

また、東西溝の北では、玉石敷が検出されており、この玉石敷も東西溝と同様に経蔵の北側のものと繋がると考えられている。
次に経蔵の説明に向かう。(今回は、それぞれの調査区でも説明があった。)
経蔵については、経蔵の全容を明らかにするために全面を調査している。

経蔵についても、桁行3間×梁行2間の南北棟の建物である。ほぼ鍾楼と同じ大きさと考えられるが、説明会の資料では経蔵の方が少し小さい。(約6.5m)また、礎石が11基の他、礎石の据付穴、抜取穴も見つかっている。

今回の発掘調査の結果、礎石については、ほぼ創建時の位置を保っているとのことである。
基壇については、鍾楼と同様に地山を削りだし、その上に積み土をして作っている。規模は南北に約15m、東西に約11mとなっている。

基壇外装についても、創建時のものは見つからず、室町時代以降と考えられる石材が一部残っている。ほとんどは近代以降に抜き取られている。

また、江戸時代の階段跡(?)と考えられる高まりも見つかっている。

基壇の東面に沿って、瓦溜が検出されている。瓦は近世のものが主で、享保年間の火災の片づけ伴って破棄されたものだと考えられている。
この辺りはずっと、中世、近世の世界と言えそう。

ここからが古代の世界で、東西溝(東西溝2)と玉石敷(玉石敷1)が検出されており、これが鍾楼の所で見つかった東西溝3、玉石敷3と接続する。

写真の下部に見えるのが玉石敷2である。これは、東西溝を挟んで玉石敷1と接続するそうだ。
今回見つかった石組み溝は、講堂周辺の排水のための溝であり、玉石敷は、僧房や講堂などの建物の間をつなぐ道路であった可能性があるとのことである。中室については、パート②ということで。
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