平成29年3月18日(土)
発掘調査の現地説明会には珍しく、大東市教育委員会もしくは四条畷市教育委員会に参加申し込みが必要とのことで、自宅より比較的近い大東市教育委員会に申し込みを行った。当日の集合場所は、大東市野外活動センターとなっており、JR学研都市線の住道駅からバスに乗って向かうことにした。阪奈道路の急勾配の坂道をバスが音を立てながら登っていく。はじめ歩いて登ってみようかと計画が無謀であることが判明。よかったあ。「竜間」というバス停で降りると、教育委員会の方が迎えに来られていて一緒に集合場所へ。
野外活動センターに向かう途中の山の中に、今年の選抜で優勝した大阪桐蔭高校のグラウンドが山を切り開いて作られている。こんな山の中のグラウンドだと野球するほかないなあなどと思いながら尾根伝いに野外活動センターに向かって歩く。
野外活動センターに着くと、すでに20名ほどの人が集まっており、合流して現地説明会の場所までさらに歩いていく。野外活動センターからさらに20分ほど山道を歩くとやっとのこと飯盛城の虎口を抜け、説明会の場所である千畳敷と呼ばれる平地に到着した。
飯盛城の発掘調査は、飯盛城跡が大東市、四条畷市の二つの市域にまたがってあるため、2市で共同して発掘調査が行われており、千畳敷の発掘調査は、大東市教育委員会が担当している。
千畳敷は、地山を削って整地をしており、礎石に使われたであろう石がいくつか見つかっている。
ただ、石が最初に置かれた場所から動かされているため、どのような建物があったかは確認できなかった。飯盛城の中では、一番広い平坦地であるので、城の中心的な建物があることが想定されたが、残念ながら、そういった建物があったということを示す遺構は見つからなかった。
教育委員会の方の話では、近代に入ってから飯盛山に遊園地が作られた記録があり、その時にかなり削平がなされたのではないかとのことであった。残念。
地山の中に、ポツンと石が据えられている。人工的に置かれたものであるので、何らかの施設があったことは間違いなさそうである。
飯盛城については、戦国大名三好長慶の居城として知られている。三好長慶は1560年(永禄3年)に飯盛城に入城している。ここを根拠に畿内一円を支配していたと考えられている。ちなみに1560年は、織田信長が今川義元を破り、戦国大名として名乗りを挙げた桶狭間の戦いが行われた年でもある。
三好長慶がこの飯盛城に本拠を構えたのは、この地が要害の地であるとともに、京都、大阪、大和を視野の収めることができ、山麓には東高野街道が走るなど交通の要所でもあったからであろう。
その4年後、1564年(永禄7年)三好長慶は、飯盛城で44年の生涯を閉じている。
千畳敷を出て、少し歩くと飯盛城の石垣が残っている場所があり、そうしてしばらく行くと山の急斜面に四条畷市の教育委員会が担当している飯盛城の石垣の確認調査地があった。山の急斜面にあるため、直接目の前で石垣を見ることができず、少し離れたハイキング道から見ることになる。
野面積みという工法で作られており、ほぼ全山、石垣で囲まれていると考えられている。こうした山城に大々的に石垣を導入したのは、この飯盛城が最初であると考えられている。
そうしたことでは、中世の城郭史上、重要な位置にある遺跡と言えそうである。
発掘された石垣の上にある御体塚郭と呼ばれる曲輪には、三好長慶が埋葬されたと伝えられる御体塚がある。
ここからの大阪平野への眺望は素晴らしいものがある。惜しむらくはデジカメの電池が切れたこと。(途中から携帯のカメラで撮ってみたのだが、かなり写りが悪い写真しか取れなかった。)御体塚からは、説明もないため一路下山となる。四条畷側へ降りるつもりで歩いてたら間違えたらしく楠公寺を通って、大東市の野崎側に降りていくルートになってしまった。途中、石垣が崩れたところがあり、石垣の裏込め石が見えているところがあった。
今回の説明会、とにかく山登りがきつかった。珍しく奥様がついてきてて、激怒!そない怒られてもねえ。理不尽な・・・。
この飯盛城の発掘調査は、国の史跡指定をめざして3か年で行われる予定である。ということはあと2回はあるということですよねえ。楽しみのようなそうでないような。
発掘調査の現地説明会には珍しく、大東市教育委員会もしくは四条畷市教育委員会に参加申し込みが必要とのことで、自宅より比較的近い大東市教育委員会に申し込みを行った。当日の集合場所は、大東市野外活動センターとなっており、JR学研都市線の住道駅からバスに乗って向かうことにした。阪奈道路の急勾配の坂道をバスが音を立てながら登っていく。はじめ歩いて登ってみようかと計画が無謀であることが判明。よかったあ。「竜間」というバス停で降りると、教育委員会の方が迎えに来られていて一緒に集合場所へ。
野外活動センターに向かう途中の山の中に、今年の選抜で優勝した大阪桐蔭高校のグラウンドが山を切り開いて作られている。こんな山の中のグラウンドだと野球するほかないなあなどと思いながら尾根伝いに野外活動センターに向かって歩く。
野外活動センターに着くと、すでに20名ほどの人が集まっており、合流して現地説明会の場所までさらに歩いていく。野外活動センターからさらに20分ほど山道を歩くとやっとのこと飯盛城の虎口を抜け、説明会の場所である千畳敷と呼ばれる平地に到着した。
飯盛城の発掘調査は、飯盛城跡が大東市、四条畷市の二つの市域にまたがってあるため、2市で共同して発掘調査が行われており、千畳敷の発掘調査は、大東市教育委員会が担当している。
千畳敷は、地山を削って整地をしており、礎石に使われたであろう石がいくつか見つかっている。
ただ、石が最初に置かれた場所から動かされているため、どのような建物があったかは確認できなかった。飯盛城の中では、一番広い平坦地であるので、城の中心的な建物があることが想定されたが、残念ながら、そういった建物があったということを示す遺構は見つからなかった。
教育委員会の方の話では、近代に入ってから飯盛山に遊園地が作られた記録があり、その時にかなり削平がなされたのではないかとのことであった。残念。
地山の中に、ポツンと石が据えられている。人工的に置かれたものであるので、何らかの施設があったことは間違いなさそうである。
飯盛城については、戦国大名三好長慶の居城として知られている。三好長慶は1560年(永禄3年)に飯盛城に入城している。ここを根拠に畿内一円を支配していたと考えられている。ちなみに1560年は、織田信長が今川義元を破り、戦国大名として名乗りを挙げた桶狭間の戦いが行われた年でもある。
三好長慶がこの飯盛城に本拠を構えたのは、この地が要害の地であるとともに、京都、大阪、大和を視野の収めることができ、山麓には東高野街道が走るなど交通の要所でもあったからであろう。
その4年後、1564年(永禄7年)三好長慶は、飯盛城で44年の生涯を閉じている。
千畳敷を出て、少し歩くと飯盛城の石垣が残っている場所があり、そうしてしばらく行くと山の急斜面に四条畷市の教育委員会が担当している飯盛城の石垣の確認調査地があった。山の急斜面にあるため、直接目の前で石垣を見ることができず、少し離れたハイキング道から見ることになる。
野面積みという工法で作られており、ほぼ全山、石垣で囲まれていると考えられている。こうした山城に大々的に石垣を導入したのは、この飯盛城が最初であると考えられている。
そうしたことでは、中世の城郭史上、重要な位置にある遺跡と言えそうである。
発掘された石垣の上にある御体塚郭と呼ばれる曲輪には、三好長慶が埋葬されたと伝えられる御体塚がある。
ここからの大阪平野への眺望は素晴らしいものがある。惜しむらくはデジカメの電池が切れたこと。(途中から携帯のカメラで撮ってみたのだが、かなり写りが悪い写真しか取れなかった。)御体塚からは、説明もないため一路下山となる。四条畷側へ降りるつもりで歩いてたら間違えたらしく楠公寺を通って、大東市の野崎側に降りていくルートになってしまった。途中、石垣が崩れたところがあり、石垣の裏込め石が見えているところがあった。
今回の説明会、とにかく山登りがきつかった。珍しく奥様がついてきてて、激怒!そない怒られてもねえ。理不尽な・・・。
この飯盛城の発掘調査は、国の史跡指定をめざして3か年で行われる予定である。ということはあと2回はあるということですよねえ。楽しみのようなそうでないような。
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