言霊
2012-10-20 | 日記
言霊とは言葉の魂だ。
言葉には魂がある。
良い言葉には良い魂が、悪い言葉には悪い魂が宿る。
以前、ある場所を走っている時に見通しの悪いコーナーで大型トレーラーとすれ違った。
僕は何故か分からなかったがFワードを言ってしまった。
Fワードは英語では一番悪いとされている言葉である。
ちなみに昔、バスドライバーをやっている時には1日に100回もこの言葉をつぶやいていた。
あの時には心がすさんだ。
若い頃、英語を覚えたての時にはこの言葉がかっこいいのだと勘違いして所構わず使い周囲のひんしゅくを買った事もあった。
まあ、若気の至りということで許してもらおう。
年を重ねそれなりに分別もつき、子供も成長すると、めったにはこの言葉も使う事がなくなった。
だがこの時は自然とこの言葉が口から出た。
その瞬間、トレーラーからの石が跳ね、車のフロントスクリーンを傷つけた。
幸いスピードも出していなかったので、傷も小さいものだった。
ここではストーンチップと言われ、特別に珍しいことではない。
誰でも車を運転していれば1回や2回は経験することだ。
僕も何回も経験はあるが、このタイミングで来たか、とその時に思った。
まさに下唇に歯を当て正確にFの発音をしてこの言葉を言った瞬間である。
物事に偶然はない。
これは言葉の魂が僕に気づかせるために、このタイミングで石をとばしたのだ。
それ以来、僕はこの言葉を全く使わなくなった。
あるフェイスブックのでページで見たが、紙を4枚用意して2枚には「ありがとう」と書き2枚には「ばかやろう」と書いた。
それぞれの紙の上に桃をのせてみると、「ありがとう」の方の桃はみずみずしさを保つのに「ばかやろう」の方の桃はシナシナになった。
これが言霊だ。
もちろん賛否両論ある。
素晴らしいという意見が大多数だが「科学的でない」「インチキだ」という意見もある。
科学的ではないさ。だって今の科学とはこういったことを否定することに原点があるのだから。
否定する人はこの実験をやるか?
たぶんやらないだろうし、やっても同じ結果にはならないだろう。
否定する人の心の奥には、それまで自分が信じていたものが崩れてしまう怖れがある。
その怖れが強ければ「ありがとう」と素直に感じることもなくなってしまうだろう。
別の情報ソースから「戦後、アメリカの占領下となった日本において、メディアを陰で支配している電通が、アメリカからの命令で絶対にテレビやCMなどで使ってはならないと禁止された日本語は「言霊」だったようです。」
なるほどね。
僕が最近若いお父さんお母さんに言う言葉でこういうものがある。
「できるだけ自分が生まれ育った土地の言葉で子供に話しかけてください。関西弁なら関西弁で、九州弁なら九州弁で、東北弁なら東北弁で。訛りを隠さず自分の言葉で話してください」
言葉というのは波動の一つである。
ある人がその土地の方言をしゃべる事により、言葉以上のものが人の心に伝わる。
マスメディアの普及により、方言がどんどん薄れてしまうのは嘆き悲しむことだ。
そういう僕だって、長い事NZに居て、方言が出なくなっている。
と自分では思っていたのだが、あるお客さんに指摘された。
「ガイドさんは『~ね』とよく使うけど、それは静岡の方言でしょうか?」
「いや、違うと思います。静岡の言葉は『なんとかだら~』とか『なんとかずら~』とか『なんとから~』というようなものです。」
「そうですか、でもなんか優しい感じがしてとてもいいです」
「そうですか、ありがとうございます」
静岡弁では「青い、赤い、黄色い」を「あええ、あきゃあ、きいない」と言う。
そんな静岡弁も今は全く出ないが、あえて言うなら『聖弁』とでも言おうか。
以前にも「綺麗な日本語をしゃべる」と誉められた事もある。
聞く人が喜んでくれるので、まあ良しとしよう。
言葉には魂がある。
その魂とは自分の気持ちに直結する。
自分の心が真っ直ぐで曇りがなければ、言葉も自然にそうなる、と僕は思っている。
そしてそこから出た言葉には目に見えない、科学で究明できない魂があり、色々な物事を起こす。
家の庭に生えるシルバービートは灰汁が出ないと評判だが、これも僕は言霊のおかげだと思っている。
実際、家の野菜はどれも旨い。
鶏の卵も旨い。
そして僕が庭でつぶやく言葉は「ありがたやありがたや」なのである。
言葉には魂がある。
良い言葉には良い魂が、悪い言葉には悪い魂が宿る。
以前、ある場所を走っている時に見通しの悪いコーナーで大型トレーラーとすれ違った。
僕は何故か分からなかったがFワードを言ってしまった。
Fワードは英語では一番悪いとされている言葉である。
ちなみに昔、バスドライバーをやっている時には1日に100回もこの言葉をつぶやいていた。
あの時には心がすさんだ。
若い頃、英語を覚えたての時にはこの言葉がかっこいいのだと勘違いして所構わず使い周囲のひんしゅくを買った事もあった。
まあ、若気の至りということで許してもらおう。
年を重ねそれなりに分別もつき、子供も成長すると、めったにはこの言葉も使う事がなくなった。
だがこの時は自然とこの言葉が口から出た。
その瞬間、トレーラーからの石が跳ね、車のフロントスクリーンを傷つけた。
幸いスピードも出していなかったので、傷も小さいものだった。
ここではストーンチップと言われ、特別に珍しいことではない。
誰でも車を運転していれば1回や2回は経験することだ。
僕も何回も経験はあるが、このタイミングで来たか、とその時に思った。
まさに下唇に歯を当て正確にFの発音をしてこの言葉を言った瞬間である。
物事に偶然はない。
これは言葉の魂が僕に気づかせるために、このタイミングで石をとばしたのだ。
それ以来、僕はこの言葉を全く使わなくなった。
あるフェイスブックのでページで見たが、紙を4枚用意して2枚には「ありがとう」と書き2枚には「ばかやろう」と書いた。
それぞれの紙の上に桃をのせてみると、「ありがとう」の方の桃はみずみずしさを保つのに「ばかやろう」の方の桃はシナシナになった。
これが言霊だ。
もちろん賛否両論ある。
素晴らしいという意見が大多数だが「科学的でない」「インチキだ」という意見もある。
科学的ではないさ。だって今の科学とはこういったことを否定することに原点があるのだから。
否定する人はこの実験をやるか?
たぶんやらないだろうし、やっても同じ結果にはならないだろう。
否定する人の心の奥には、それまで自分が信じていたものが崩れてしまう怖れがある。
その怖れが強ければ「ありがとう」と素直に感じることもなくなってしまうだろう。
別の情報ソースから「戦後、アメリカの占領下となった日本において、メディアを陰で支配している電通が、アメリカからの命令で絶対にテレビやCMなどで使ってはならないと禁止された日本語は「言霊」だったようです。」
なるほどね。
僕が最近若いお父さんお母さんに言う言葉でこういうものがある。
「できるだけ自分が生まれ育った土地の言葉で子供に話しかけてください。関西弁なら関西弁で、九州弁なら九州弁で、東北弁なら東北弁で。訛りを隠さず自分の言葉で話してください」
言葉というのは波動の一つである。
ある人がその土地の方言をしゃべる事により、言葉以上のものが人の心に伝わる。
マスメディアの普及により、方言がどんどん薄れてしまうのは嘆き悲しむことだ。
そういう僕だって、長い事NZに居て、方言が出なくなっている。
と自分では思っていたのだが、あるお客さんに指摘された。
「ガイドさんは『~ね』とよく使うけど、それは静岡の方言でしょうか?」
「いや、違うと思います。静岡の言葉は『なんとかだら~』とか『なんとかずら~』とか『なんとから~』というようなものです。」
「そうですか、でもなんか優しい感じがしてとてもいいです」
「そうですか、ありがとうございます」
静岡弁では「青い、赤い、黄色い」を「あええ、あきゃあ、きいない」と言う。
そんな静岡弁も今は全く出ないが、あえて言うなら『聖弁』とでも言おうか。
以前にも「綺麗な日本語をしゃべる」と誉められた事もある。
聞く人が喜んでくれるので、まあ良しとしよう。
言葉には魂がある。
その魂とは自分の気持ちに直結する。
自分の心が真っ直ぐで曇りがなければ、言葉も自然にそうなる、と僕は思っている。
そしてそこから出た言葉には目に見えない、科学で究明できない魂があり、色々な物事を起こす。
家の庭に生えるシルバービートは灰汁が出ないと評判だが、これも僕は言霊のおかげだと思っている。
実際、家の野菜はどれも旨い。
鶏の卵も旨い。
そして僕が庭でつぶやく言葉は「ありがたやありがたや」なのである。
その桃のようなことを、水を使って実験したのをレポートした本なんだけど、ね。
私はうちの坊主が赤ちゃんの時に読んで、「人間の体の70%くらいは水だから、きっと効果がある」と思いついて、
毎晩寝る前に「今日もいい子でいてくれてありがとう」と言い続けました。
大きくなった今は毎日じゃないけど、折々に言ってる。
よその人がうちの坊主のことを褒めてくれるのは、その言霊のおかげ、と信じてる。
言葉は大事だよ。
その本は読んだ事がないなあ。
身体を作っている水も同じ。桃も水からできている。
全て波動ですな。
ちなみにこの本の著者は波動研究所っていうのをやってるらしいです。
波動研究所ですか。
いいですな。いかにも怪しげなところが良い。
うちには波動の法則という本があるよ。