主婦業
2012-06-03 | 日記
観光業というのは波がある。
忙しい時はとんでもなく忙しいが、ヒマなときはとことんヒマとなる。
ボクはガイドの仕事が無いときは主婦ならぬ主夫となる。
主婦業というものは直接お金を稼ぐわけではない。
なので世間一般では一段低く見られる傾向にある。
だが人間が生きていくためにとても大切なものだと思う。
自分達の生活環境をきれいにし、健康な食事を作り、清潔な衣服を用意し、外で働く人を内からサポートするのが主婦業だ。
うろおぼえだが、一人の主婦が一生でする家事仕事をお金に換算すると3千万円以上にもなるという。
横暴な日本のお父っつあんが「誰のおかげで飯を食っているんだ」と妻を怒鳴るという話を聞いたことがある。
表面だけでしか物を見ない、金を稼ぐだけが仕事と思えばそうなるのだろう。
そして主婦業というものは自分がボスである。
時間の使い方は自由で、手を抜こうと思えば抜けられるし、賢く働けば時間やエネルギーの節約にもなる。
今回は数ある家の仕事の話である。
朝、家族を送り出してからは自分の時間である。
昨日は天気が良かったので洗濯をした。
洗濯だって朝一で機械を回しておけば、お日様が昇る頃には干せる。
ボクが子供の頃には洗濯は自分の仕事だった。
当時の洗濯機は二槽式で、ある程度の時間ごとに洗濯物を洗濯槽から脱水槽へ入れ替えなければならなかった。
それが今では全自動でスイッチ一つで機械が洗濯をしてくれる。
文明の利器とありがたいものである。
昔の人は洗濯板で洗濯をしていた。
当然時間だって手間だってかかる。
こういう思いはあったはずだ。
「何か便利な箱みたいなものに洗濯物をいれたら、きれいになって出てくる。そんな物があったらいいなあ」
こうなればいいなあ、という思いは実現する。ただし時間はかかる。
昔の人の思いの上に今の生活はある。
ボクがすることはそれを知りつつ、機械を使わせてもらい、そして感謝である。
ありがたや、ありがたや。
洗濯をしているうちに朝食の片付け、夕食の仕込み、トイレ掃除などをする。
家ではトイレ掃除用の洗剤も手作りだ。
洗濯が終わり、外に干して、ニワトリに餌をあげて一段落である。
この時期は日が昇るのが遅い。
洗濯物に日が当たるのは10時くらいだ。
それでも日中は良く日が当たるので午後には乾くことだろう。
洗濯物を外に干す、というのも当たり前のことだが意味がある。
乾燥機を使わずに済むならそれに越したことはない。電気の節約にもなる。
そして日の光というのは有害な菌を殺菌してくれる。
全ては理にかなう。
お茶をいれてまったりしていると犬のココがクンクンと近寄ってきた。
「なんだお前、散歩にいきたいのか?」
「クーン、クーン」
「よし、じゃあちょっとだけ行くか」
ボクはガレージから自転車を出して、ココに首輪をつける。
最近はココもたくましくなり、グイグイと自転車を引っ張る。楽で良い。
そろそろ首輪でなくハーネスを買ってあげようかな。
北欧ではスキージョアリングというものがあり、スキーを履いた人を犬が引っ張るそうな。
何とも楽しそうじゃないか。今度このあたりで雪が降ったらやってみようと思う。
近くのカンタベリーパークが散歩のコースである。
公園まで行くと首輪を外す。
ここから先は自由の身である。
好きなところを走り、好きな所で水に入り鴨を追いかけ、好きな所でウンコをする。
この公園は牧場とつながっており、だだっ広い。牧場ではウンコは拾わない。
ボクは散歩に行く時はビニール袋を持っていく。
人の家の前などでウンコをしたらそれを拾うわけだが、最近ではココも分かっているようで、この公園でウンコをする。
ビニール袋には落ちているゴミを入れて持ち帰る。
空はどこまでも広く、遠くに山が見える。
まもなくあの山も真っ白くなり、来月には山頂からこちらを見下ろすことだろう。
散歩が終わると庭仕事である。
木の枝を切ったり、雑草を抜いたり、畑を耕したり、やる事は山ほどある。
昼飯をはさんで庭のことをやっていると娘を迎えに行く時間だ。
今日は天気が良いのでココを連れて歩いて迎えに行く。
娘の学校までは歩いて40分ぐらいだ。
以前は車がビュンビュン通る道しかなかったが、最近では公園を突っ切って行けるようになった。
歩くというのは人間の基本的な行動である。
そして歩く間というのは実に色々な事を考えるものだ。
時間はかかるがこうやって歩く事の中に色々な問いの答があるような気がする。
家に帰ってきて洗濯物を取り込む。
たたむのは娘の仕事だ。
娘はボクがやるよりもきれいにたたむ。
お気に入りのテレビを見ながら洗濯物をたたむのが好きなようだ。
ボクは庭仕事を続け、暗くなるころに晩飯の支度をする。
そして女房が仕事から帰ってくると家族団らんの食卓である。
これがボクの主夫の1日だ。
もちろん毎日、天気がいいわけではない。
天気が悪く外に出たくない日もある。
そんな時は家の中のことをやる。
先日は洋ナシのコンポートを作った。
ナシは今が旬である。
旬のものは栄養価が高く、そして値段が安い。
人間はもっともっと旬の物を食べるべきだと思う。
近くの八百屋ではB級品が10個で$1だった。
毎年この時期は安いナシを買ってきてコンポートを作る。
コンポートと言うが、なんてことはないシロップ煮である。
大きな鍋に白ワイン1カップ、水2カップ、砂糖160g、蜂蜜大さじ5杯、レモン汁2個分、シナモンスティック1本、バニラエッセンス適量を入れて沸騰させる。
洋ナシの皮をむき半分に切り種の部分をほじり、弱火で15分ぐらい煮る。
ただこれだけ。
シンプルだがこれがめっぽう旨い。
これ一品でデザートにもなるし、朝食にシリアルと一緒に食べてもよし。
熱いうちにビンに入れて密封すれば保存もきく。
ちなみに以前、リンゴや日本の梨でも作ってみたが、味はいまいちだった。
これは断然洋ナシが旨い。
旬の果物で保存食を作る。
立派な主婦の仕事である。
それから、先週はモツ煮を作った。
20年ほど前、クィーンズタウンに住んでいた頃、モツ煮が食いたくなり肉屋でモツを売っていないか聞いた事がある。
「そんな物をオマエはどうするんだ」と言われた。
こっちの肉屋ではタンとかレバーとかハツは売っているがモツは売っていない。
今では中国人経営の肉屋があり、モツとかスジ肉とか、鶏の足とかそういったものも売っている。
アジア人が増えると食が豊かになるのだ。
モツ煮はたくさんで作るほうが旨い。
生のモツなので何回も茹でこぼし、匂いを取る。
庭のネギの葉っぱやニンニク、しょうがで煮て、野菜を入れて又煮る。
庭の大根、ネギ、シルバービート。ニンジン、こんにゃくをいれて弱火でとろとろ煮て味噌で味を整えてできあがり。今回はごぼうが無いのが残念だ。
長ネギを刻んで上にかけて唐辛子をかけて、いただきます。
日本の居酒屋で出てくるようなモツ煮である。
自分で作る喜び、そして食べる喜びがある。幸せである。
そして幸せは皆で分かち合うものだ。
会社の同僚、友達におすそ分けして大鍋一杯のモツ煮は数日でなくなった。それでよし。
ボクにとって人にあげることが喜びであり、それが愛なのだ。
モツ煮なんて、家族分つくるのも10人分作るのも同じだ。
いや、まとまった量で作る方が旨い。
それを食べたいという人に分け与える。見返りは求めない。
見返りの事を考えた瞬間、真実の愛から離れてしまう。
物事は分けあえば足りるし、奪い合えば足りなくなる。
これをイヤイヤやるのならば意味がない。
自分にできることで、それを好きでハッピーという状態。
行動の原動力は愛だ。
幸せのバイブレーションはモツ煮と共に人に伝わる。
主夫もまた楽し。
結構なことである。
忙しい時はとんでもなく忙しいが、ヒマなときはとことんヒマとなる。
ボクはガイドの仕事が無いときは主婦ならぬ主夫となる。
主婦業というものは直接お金を稼ぐわけではない。
なので世間一般では一段低く見られる傾向にある。
だが人間が生きていくためにとても大切なものだと思う。
自分達の生活環境をきれいにし、健康な食事を作り、清潔な衣服を用意し、外で働く人を内からサポートするのが主婦業だ。
うろおぼえだが、一人の主婦が一生でする家事仕事をお金に換算すると3千万円以上にもなるという。
横暴な日本のお父っつあんが「誰のおかげで飯を食っているんだ」と妻を怒鳴るという話を聞いたことがある。
表面だけでしか物を見ない、金を稼ぐだけが仕事と思えばそうなるのだろう。
そして主婦業というものは自分がボスである。
時間の使い方は自由で、手を抜こうと思えば抜けられるし、賢く働けば時間やエネルギーの節約にもなる。
今回は数ある家の仕事の話である。
朝、家族を送り出してからは自分の時間である。
昨日は天気が良かったので洗濯をした。
洗濯だって朝一で機械を回しておけば、お日様が昇る頃には干せる。
ボクが子供の頃には洗濯は自分の仕事だった。
当時の洗濯機は二槽式で、ある程度の時間ごとに洗濯物を洗濯槽から脱水槽へ入れ替えなければならなかった。
それが今では全自動でスイッチ一つで機械が洗濯をしてくれる。
文明の利器とありがたいものである。
昔の人は洗濯板で洗濯をしていた。
当然時間だって手間だってかかる。
こういう思いはあったはずだ。
「何か便利な箱みたいなものに洗濯物をいれたら、きれいになって出てくる。そんな物があったらいいなあ」
こうなればいいなあ、という思いは実現する。ただし時間はかかる。
昔の人の思いの上に今の生活はある。
ボクがすることはそれを知りつつ、機械を使わせてもらい、そして感謝である。
ありがたや、ありがたや。
洗濯をしているうちに朝食の片付け、夕食の仕込み、トイレ掃除などをする。
家ではトイレ掃除用の洗剤も手作りだ。
洗濯が終わり、外に干して、ニワトリに餌をあげて一段落である。
この時期は日が昇るのが遅い。
洗濯物に日が当たるのは10時くらいだ。
それでも日中は良く日が当たるので午後には乾くことだろう。
洗濯物を外に干す、というのも当たり前のことだが意味がある。
乾燥機を使わずに済むならそれに越したことはない。電気の節約にもなる。
そして日の光というのは有害な菌を殺菌してくれる。
全ては理にかなう。
お茶をいれてまったりしていると犬のココがクンクンと近寄ってきた。
「なんだお前、散歩にいきたいのか?」
「クーン、クーン」
「よし、じゃあちょっとだけ行くか」
ボクはガレージから自転車を出して、ココに首輪をつける。
最近はココもたくましくなり、グイグイと自転車を引っ張る。楽で良い。
そろそろ首輪でなくハーネスを買ってあげようかな。
北欧ではスキージョアリングというものがあり、スキーを履いた人を犬が引っ張るそうな。
何とも楽しそうじゃないか。今度このあたりで雪が降ったらやってみようと思う。
近くのカンタベリーパークが散歩のコースである。
公園まで行くと首輪を外す。
ここから先は自由の身である。
好きなところを走り、好きな所で水に入り鴨を追いかけ、好きな所でウンコをする。
この公園は牧場とつながっており、だだっ広い。牧場ではウンコは拾わない。
ボクは散歩に行く時はビニール袋を持っていく。
人の家の前などでウンコをしたらそれを拾うわけだが、最近ではココも分かっているようで、この公園でウンコをする。
ビニール袋には落ちているゴミを入れて持ち帰る。
空はどこまでも広く、遠くに山が見える。
まもなくあの山も真っ白くなり、来月には山頂からこちらを見下ろすことだろう。
散歩が終わると庭仕事である。
木の枝を切ったり、雑草を抜いたり、畑を耕したり、やる事は山ほどある。
昼飯をはさんで庭のことをやっていると娘を迎えに行く時間だ。
今日は天気が良いのでココを連れて歩いて迎えに行く。
娘の学校までは歩いて40分ぐらいだ。
以前は車がビュンビュン通る道しかなかったが、最近では公園を突っ切って行けるようになった。
歩くというのは人間の基本的な行動である。
そして歩く間というのは実に色々な事を考えるものだ。
時間はかかるがこうやって歩く事の中に色々な問いの答があるような気がする。
家に帰ってきて洗濯物を取り込む。
たたむのは娘の仕事だ。
娘はボクがやるよりもきれいにたたむ。
お気に入りのテレビを見ながら洗濯物をたたむのが好きなようだ。
ボクは庭仕事を続け、暗くなるころに晩飯の支度をする。
そして女房が仕事から帰ってくると家族団らんの食卓である。
これがボクの主夫の1日だ。
もちろん毎日、天気がいいわけではない。
天気が悪く外に出たくない日もある。
そんな時は家の中のことをやる。
先日は洋ナシのコンポートを作った。
ナシは今が旬である。
旬のものは栄養価が高く、そして値段が安い。
人間はもっともっと旬の物を食べるべきだと思う。
近くの八百屋ではB級品が10個で$1だった。
毎年この時期は安いナシを買ってきてコンポートを作る。
コンポートと言うが、なんてことはないシロップ煮である。
大きな鍋に白ワイン1カップ、水2カップ、砂糖160g、蜂蜜大さじ5杯、レモン汁2個分、シナモンスティック1本、バニラエッセンス適量を入れて沸騰させる。
洋ナシの皮をむき半分に切り種の部分をほじり、弱火で15分ぐらい煮る。
ただこれだけ。
シンプルだがこれがめっぽう旨い。
これ一品でデザートにもなるし、朝食にシリアルと一緒に食べてもよし。
熱いうちにビンに入れて密封すれば保存もきく。
ちなみに以前、リンゴや日本の梨でも作ってみたが、味はいまいちだった。
これは断然洋ナシが旨い。
旬の果物で保存食を作る。
立派な主婦の仕事である。
それから、先週はモツ煮を作った。
20年ほど前、クィーンズタウンに住んでいた頃、モツ煮が食いたくなり肉屋でモツを売っていないか聞いた事がある。
「そんな物をオマエはどうするんだ」と言われた。
こっちの肉屋ではタンとかレバーとかハツは売っているがモツは売っていない。
今では中国人経営の肉屋があり、モツとかスジ肉とか、鶏の足とかそういったものも売っている。
アジア人が増えると食が豊かになるのだ。
モツ煮はたくさんで作るほうが旨い。
生のモツなので何回も茹でこぼし、匂いを取る。
庭のネギの葉っぱやニンニク、しょうがで煮て、野菜を入れて又煮る。
庭の大根、ネギ、シルバービート。ニンジン、こんにゃくをいれて弱火でとろとろ煮て味噌で味を整えてできあがり。今回はごぼうが無いのが残念だ。
長ネギを刻んで上にかけて唐辛子をかけて、いただきます。
日本の居酒屋で出てくるようなモツ煮である。
自分で作る喜び、そして食べる喜びがある。幸せである。
そして幸せは皆で分かち合うものだ。
会社の同僚、友達におすそ分けして大鍋一杯のモツ煮は数日でなくなった。それでよし。
ボクにとって人にあげることが喜びであり、それが愛なのだ。
モツ煮なんて、家族分つくるのも10人分作るのも同じだ。
いや、まとまった量で作る方が旨い。
それを食べたいという人に分け与える。見返りは求めない。
見返りの事を考えた瞬間、真実の愛から離れてしまう。
物事は分けあえば足りるし、奪い合えば足りなくなる。
これをイヤイヤやるのならば意味がない。
自分にできることで、それを好きでハッピーという状態。
行動の原動力は愛だ。
幸せのバイブレーションはモツ煮と共に人に伝わる。
主夫もまた楽し。
結構なことである。