あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

日本旅行記 10

2024-08-14 | 
金沢三日目は市内観光である。
まずは市内を見渡す見晴台から。
「いつもならここから白山が見えるのに」とヒデが残念そうに言うが、春の霞で霊峰白山は見えず。
そして東の茶屋街を歩く。
小京都と呼ばれるだけあって昔の茶屋が並ぶ街並みは素敵である。
こりゃいかにも観光客が喜ぶだろうなぁというような場所で、あちこちで写真を撮る観光客が絶えない。
貸衣装を着て写真を撮るなんてのも、観光地らしい一コマである。
ヒデに勧められるままに入った試飲ができる酒屋で飲んでみたが不味くないというだけの感想で、人生で一番かもしれないというほどの手取川を飲んだ感動からは程遠いものだった。
だからと言って「手取川の方が美味い」などとその店の人にいう気はない。
それこそヤボってもんだろう。



僕らが行ったのは朝も早い時間だったので人の出が少ないほうだが、繁忙期にはごった返すのは想像出来る。
自分の率直な感想を言うと、昔に賑わったお茶屋街と今現在の物とは違う物であり、そこから昔の社会風俗を想像するのは難しい。
実際に一つのお茶屋を解放して中に入れるような場所を見てみたが、引っ切り無しに人が出入りし子供が走り回るような状況では当時の様子を思い浮かべ心静かにその世界に浸る気分にはなれない。
一度は行ってもいいが二回行く気はない。
それよりもその近くの観光客目当てでなく人も少ないお茶屋街、一見さんお断りという雰囲気を建物が滲ませているような路地を歩く方が雰囲気があり好きだった。

そして兼六園である。
これは言わずもがな見事な日本庭園であるので僕がくどくど書かなくてもいいだろう。
一通り歩いてはみたものの、ここでも何故か自分の心が揺れ動くようなことはなかった。
兼六園を出て観光バスが停まる所では、バスドライバーがつまらなそうな顔をしてお客さんを待っている姿が妙に記憶に残っている。
ひがしの茶屋街、兼六園、金沢城跡、近江町市場、武家屋敷跡界隈、といったいわゆる観光名所を歩いたのだがどうも心が奮い立たない。
それぞれに日本っぽく良い所なのだが、何なのだろうなこれは。
お茶屋街では芸妓が歩く様を、兼六園では殿様が庭を愛でる様を、武家屋敷では武家が生きる様を想像するのだが、どれも今ひとつなのである。
旅の疲れがでてるのか、はたまた観光業に携わる者としてさめてしまっているのか、何かは分からないがモヤモヤは残る。



金沢市内の観光名所を巡って考えたのだが、ここでもオーバーツーリズムの波からは免れないのはもはや仕方がないだろう。
綺麗な場所に行きたいという感情は人間の自然な欲求であり、誰もそれを止めることはできない。
ましてやコロナ禍で世界中の人間の行動が急激に制限され、それが解放された現在は以前よりその動きが活発になっている。
そういう自分もコロナが終わって落ち着いたので日本に里帰りをした一人だ。
善悪の判断をしようとすると、物事がゆがんで見えてしまうのでそういう話は抜きにしてどういう状況か考えるようにしている。
人が動けば金も動く。
観光地のような場所に店ができて経済が潤うというのは、当たり前の話でどこの世界でも同じだ。
ただそこを訪れる人の数が多すぎるとバランスが崩れ、いろいろな弊害が起こる。
現在のように情報が一人歩きをし、全ての人が情報発信者になりたいという状況もその一つの要因だ。
旅をするということはただ空間を移動するのではなく、自分が生きる社会との相違点を見出し比較をすることで客観的に物を見ることができるようになる。
きれいごとだけでなく汚い所や危ない事もあることを知り、他人と出会うことで自分自身を見つめる。
それが旅の醍醐味なのだが、そんなのは小難しいことを言って大人の風を吹かせたい僕の戯言だ。
今の人には今の考えや価値観があり、それに乗って人は行動する。
そういう状況があるというだけの話だ。
それとは別に、自分が求める旅とは他人の価値観を物差しにすることなく、あくまで自分の持つ感性や心を動かされる事に焦点を当てて物を見る。
そういう意味では金沢市内の観光地にもう行く事はないだろうし、もしもう一度この地を訪れるのならば手取川の酒蔵に行ってみたいし、その奥にある霊峰白山を近くで見たいというのが素直な感想である。



金沢最後の夜はお好み焼きの店へ行くという。
日本のあちこちでいろいろと美味い物を食ってきた僕が行くと言うので、ヒデは聖が来たら何をご馳走しようかとあれこれ考えてくれていたらしい。
場所は前日に行った鶴来の町外れにある店で、人が多く集まる金沢より鶴来の方が好きだった僕には何の異存もない。
金沢と鶴来の関係はクィーンスタウンとアロータウンのようなものだ。
景色が綺麗でお店も多く観光客がごった返すクィーンスタウンと、その近くで派手さはなく小さいながらひっそりと昔風の情緒を残すアロータウン。
自分が連れて行ったお客さんのほとんどがアロータウンを気に入ってくれたし、僕自身も何故か心惹かれる街なのだ。
街が持つエネルギーというのか雰囲気というのか、何か特別これ!というものがあるわけではないし、うまく言葉にできないがなんとなく好きになる街。
目に見えてはっきり分かる特別にこれ!というものがあったらそこはすでに有名な観光地になっている。
インスタ映えする場所なんてのがいい例だ。
そんな鶴来へ行くまでにヒデが素敵な提案をしてくれた。
金沢から鶴来までは北陸鉄道石川線というローカル線があるのでそれに乗っていき、ヒデは終点鶴来まで車を回してくれる。
ローカル線が好きな僕としてはとても嬉しい。
新幹線の旅が移動としての手段であり、旅情のかけらが微塵もないなどと話していたのだ。
車で最寄り駅まで送ってくれて、そこからは30分ほどのローカル線の旅だ。
ワンマン車両の車内は部活を終えた高校生や家路に向かう勤め人など、生活の匂いがプンプンする。
電車は住宅街を抜け日が傾く田んぼの中をカタンカタンと走る。
停車駅はほとんどが無人駅で、家路に向かう人々が運転手に定期券を見せたり料金を払い降りていく。
こういうなんてことのない日常の一コマの中に異邦人の自分がいる。
運転手をはじめ乗客には当たり前の情景だが、僕には非日常だ。
終点鶴来駅でヒデが待っていて、そこから車でお目当のお好み焼屋へ。
まだ線路のレールが残っている廃線跡地の前にそのお店はあった。



お店の名前は八尾屋(やおや)お好み焼きのフルコースのお店で、古民家を改造した店構えの雰囲気が良い。
カウンターに僕とヒデが並んで座り、店主の親父が目の前で焼いてくれる。
お好み焼きでフルコースってなんなの?と思っていたが鉄板で前菜からメインへと流れるように次々と焼いてくれる料理だ。
もちろん全部が全部お好み焼きというわけではなく、前菜は薄焼き卵で包んだお肉だったりレンコンの薄切りえおお好み焼きっぽく作ったものだったり、エビ焼だったり、カキだったり。
そしてメインはお腹にたまるお好み焼きから焼うどんへ。
確かにこれはコース料理だな。
味は素材にこだわっているのだろう、文句なく美味い。
店主の親父は僕と同年代だろう。
最初は気難しくとっつきにくい雰囲気だったが、お店の片隅にあるスノーボードを僕が見つけスノーボードの話になり、自分昔のスキーパトロールの話をすると、うちとけて一気に饒舌になり色々な話で盛り上がった。
聞くと元々大阪のお好み焼き屋だったが、この地が気に入りお店を開くことにした。
ただしお店の場所で銀行と一悶着あったという。
というのもお店が辺鄙な場所なので銀行が渋って融資の話がまとまらなかった。
銀行側の言い分としては、こんな人が来にくい場所でやるより人が多く集まる金沢市街でやるべきだと。
それはそれで資本主義の基本に沿った考え方であり、何も間違っていない。
捨てる神あれば拾う神ありありで、別の銀行が融資を申し出てくれて今の場所に店を出すことができた。
神様はこんなところにも居る。
ミシュランでも星を取り、今やお店は大人気で予約が絶えない。
そうなると隠れ家的な名店ということで、テレビの取材の依頼も来るがそういうのは一切断っていると。
あーもう、昭和の頑固親父みたいでいい、とてもいい、すごくいい、なまらいい。
料理も美味かったが、僕は親父の生き様みたいなこの店が醸し出す雰囲気がとてつもなく気に入ってしまった。
白馬の食堂の絵夢のおかみさんもそうだったが、時代の流れに流されずかたくなに自分の信念を貫き通す人をみて、ここでも日本は大丈夫なんだろうなと思うのだ。
金沢最後の晩にこういう店に出会えたのは大きな喜びで、こういう思いがけない感動が旅の醍醐味だ。
人と人とのご縁、ご縁で全てこの世は成り立っている。



続く

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