あおしろみどりくろ

楽園ニュージーランドで見た空の青、雪の白、森の緑、闇の黒の話である。

茶道

2018-08-01 | 
今年も又、日本の実家から新茶が届いた。
父親からは最高級のお茶、そして兄からはガバガバ飲む用のお茶が大量に。
これでこの1年はニュージーランドでも、お茶が楽しめる。
ありがたいことである。
早速、最高級のお茶を淹れて飲んでみた。
お茶を淹れるのも、カルキが入った水では風味を台無しにしてしまう。
山から取ってきた雪解け水を使う。
お湯を沸かし、80度ぐらいまで冷ませ、急須にいれる。
葉っぱの量はやや多め。
葉っぱが完全に開ききった頃に湯のみに入れる。
この時に最後の一滴まで搾る。ここがお茶の旨いところなのだ。

家族で今年の新茶をいただく。
お茶の表面がわずかに毛羽立つのは良いお茶の証拠だ。
香りよく、飲んでみるとわずかに甘ささえも感じる。
あー、幸せだなあ。
娘も「わあ、すごい、このお茶!」などと感嘆の声をあげた。
本物の味が分かる人間に育っている。よろしい。

僕は本当のお茶の作法を知らない。
狭い茶室でシャカシャカお茶を立てて、茶碗をまわして飲み「結構なお手前で」などという儀式に出たこともない。
だが実家から送られてきたお茶を、最高の水で最高に美味しく淹れ、「旨い!」などとつぶやいて飲む。
これが自分にとっての茶道である。
形式というものは大切なものだろうし、そういう世界があることは知っている。
だが今の自分の置かれている環境で、真摯な気持ちでお茶を淹れる。
お茶を育ててくれた農家の人々、それを製品にしてくれたお茶工場の人々、それを送ってくれた家族。
そういった人々に感謝の気持ちを持ちながら、地球の裏側で美味しくいただく。
その心こそが茶の湯の心ではなかろうか。
ヨガでもポーズを作ることが目的ではなく、たとえできなくともそこに向かう姿勢と心が大切だという。
何か通じるものがあるだろう。
武道でも作動でも華道でも何でも道とつくものは、その見えない心こそが目的であり結果なのではないか。
食べ物も然り。
本当に美味いものを作ろうという気持ちが大切なのだ、と自分の食いしん坊を正当化してしまう。

道といえば、道を極めるで極道。
今の世の中、ヤクザは居るが本物の極道はいないかもしれない。
もしいるならば、天然記念物の絶滅危惧種なのだろうな、などとバカバカしいことをお茶を飲みながら想った。

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