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浄土真宗本願寺派・西本願寺における「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)異安心問題についてのメモ・2

2023年03月27日 | ブログ
浄土真宗本願寺派・西本願寺における「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)異安心問題についてのメモ・2

浄土真宗本願寺派 勧学・司教有志の会より声明1が出されました。

https://www.facebook.com/profile.php?id=100091286410899

「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」に対する声明(一)
 このたび御正忌報恩講におけるご門主さまの「ご消息」のなかで、「新しい領解文(浄土真宗のみ教え)」(以下「新しい領解文」)が発布された。従来の「領解文」(大谷派では「改悔文」)は、真宗法義の模範的領解を言語化したものとして、本願寺派、大谷派において、ながらく門信徒の指針となってきたが、時代の変化に応じて平易な言葉を用いた現代版の領解文として、新しく発布されたものである。
 しかし、これについては勧学寮から『本願寺新報』二月一日号において、長文で難解な解説が掲載され、『中外日報』二月十日号には、「真宗教義に沿った解釈を基礎に持たないと誤解が生じる可能性があるため、解説を熟読してほしい」との見解が掲載された。この「新しい領解文」は、五年後(二〇二八年)に全寺院での一〇〇%の唱和を目指すものとして、すでに全国各地の僧侶や門信徒に強くはたらきかけがなされ、布教使にもこれに基づき学びを深めるように指示がなされている。また、すでに本願寺及び宗派関連施設での法話は「新しい領解文」を元にするようにと指示がなされている。そのような指示がなされる以上、一々の文言については、決して誤った法義理解に結びつかないよう最大限の配慮が不可欠である。にもかかわらず、発布直後に勧学寮から長文かつ難解な解説文が出され、誤解を危惧する見解まで紙面に掲載されていること自体、異常である。これは「新しい領解文」が領解文としての意味をなさないことを示している。
 発布された「新しい領解文」は、全般を通して、宗意安心を大きく誤まるものとして懸念されるが、とりわけ『中外日報』掲載の勧学寮の見解において「特に議論した」とあった第一段の以下の箇所については、最も深刻な危惧を抱かざるをえない。
私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ
「そのまま救う」が 弥陀のよび声
 これは「煩悩即菩提・生死即涅槃」という言葉を不二円融の理をもって解釈し、「そのまま救う」という本願の救済の起こされた理由としているように読める。しかし端的に言って、如来の本願は、煩悩と菩提が「本来一つゆえ」に起こされたのではない。私たちはすでに、宗祖親鸞聖人の「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」というお言葉のなかに、本願救済の理由をいただいているではないか。「仏願の生起」すなわち本願の起こされた理由は、煩悩具足の私にこそある。無始よりこのかた出離の縁なき凡夫のために、本願は成就しているのであり、これよりほかに本願救済の理由はない。したがって、領解の表出としては、
煩悩具足 出離の縁なき わが身ゆえ
「そのまま救う」が 弥陀のよび声
という趣旨の文脈とならねばならない。従来の「領解文」において「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて」とあり、まず第一に、自力心の否定を出言してきた所以である。しかし「新しい領解文」では、仏願の生起として、無始よりこのかた出離の縁なきわが身という機実(私の真実のありさま)をおさえるべき箇所に、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」という文言が置かれている。何一つ善をなしえない煩悩具足の凡夫という機実をおさえず、煩悩と菩提が「本来一つ」であることを理由句として「そのまま」の救いを理解することは、法義の領解を大きく誤り、きわめて安易な現実肯定論に陥るおそれがある。歴史的に検証され批判されてきたものであるが、その現実肯定論とは、世俗のありさまをすべて肯定する思想であり、戦争・差別・暴力などの人間の愚かな営みを否定できないだけではなく、むしろ正当化する根拠とさえなる。それはまた、人間の意思と努力を無意味なものとし、信心も念仏も、仏法を聴聞することさえも不要とする思想に繋がる。煩悩と菩提が「本来一つ」であれば、救われる必要すらないからである。
 このように、第一段の当該箇所は、宗祖の示されたご法義に対する重大な誤解を招くものと言わざるをえない。勧学寮の解説文では、当該箇所について「阿弥陀如来の立場から」の説示であり、「さとりの智慧から衆生救済のはたらきが導き出される」と語られているが、そもそも「領解文」が自身の領解の表明であるかぎり、衆生の立場からの文言でなければ意味を持たない。仮にそれが仏のさとりの立場からは言えたとしても、領解の混乱を生ずることは明らかである。「新しい領解文」はそもそも領解文としての意義を失っているが、特にこの一段により、すでに全国の寺院・門信徒の間に大きな混乱を招いており、勧学寮の解説文は、その混乱に拍車をかけるものとなっている。
 以上、このたび制定された「新しい領解文」について、我々は、宗意安心の上で重大な誤解を生ずる危惧を抱かざるをえない。よって、この文言を領解文として出言することはできない。そして何より、宗祖のご法義に重大な誤解を招きかねない文言が、ご門主さまの名のもとに発布される「ご消息」として掲げ続けられることを、座視することはできない。
 平易な言葉を用いた現代版「領解文」を示そうとされた意図は理解できるが、発布された文言によって、かえって全国的な混乱を生じている。したがって、宗祖親鸞聖人のご法義に照らして、速やかに取り下げるべきである。そして、ご門主さまを中心として、すべての門信徒が安心して出言できる文言をあらためて作成し、真の現代版「領解文」として制定すべきである。
 なお、この声明文は本願寺派の勧学・司教有志により発するものであるが、その「志」(こころざし)とは、ご法義を尊び、ご門主さまを大切に思う、愛山護法の志であることはいうまでもない。
                          合掌
二〇二三年 三月二五日
   浄土真宗本願寺派 勧学・司教有志の会
           代表 深川 宣暢(勧学)
              森田 眞円(勧学)
              普賢 保之(勧学)
              宇野 惠教(勧学)
              内藤 昭文(司教)
              安藤 光慈(司教)
              楠  淳證(司教)
              東光 爾英(司教)
              殿内  恒(司教)
              武田  晋(司教)
              藤丸  要(司教)
              能仁 正顕(司教)
              松尾 宣昭(司教)
              福井 智行(司教)  
              井上 善幸(司教)
              藤田 祥道(司教)
              武田 一真(司教)
              井上 見淳(司教)
                    他数名

・・

本覚思想一点集中にはやや驚いた、、

しかし、二段、三段でもいかようにも疑義は問える。

本覚思想一点集中は、やはり日本仏教、仏教全体への誤解に向けた配慮であるとも言える。

新しい領解文は、仏教全体への大問題として取り組むべきというメッセージなのだと思う。

戦争、差別へと繋がりかねない思想背景があることを指摘されたのは、誠に有り難いことであり、優生思想へも陥りかねない危険性があるのは言うまでもないのであります。

更に言えば、この新しい領解文のもっと裏にある思想背景をも考えねばならないと思うのであります。

陰謀論とかなり笑われてはいるでしょうが。

・・

先ほどにコメントさせて頂きましたが、ご指摘のとおり、今回の教義教学変容は優生思想へと繋がりかねない危険性も孕んであるのであります。戦争、差別に向かうことになるかもしれないということです。

もちろん、陰謀論と笑われるでしょうが、警鐘しておかねばならないのであります。

「大事なことは、(優性思想の)兆しを、端緒を見る力、読む力ですね。もしかしたら今の世界は、何十年後かに『あの時が始まりだった』ということかもわからないのです。この兆しを読む力は、現代の人々にも問われている責任ではないかと思います」(藤井克徳さん)

優生思想と向き合う 戦時ドイツと現代の日本(1) 繰り返される命の選別
https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/404/

・・

「極楽浄土と自然の浄土について」

「自然の浄土」とは、「一如宝海」とほぼ同意になると思われるのだが、もちろん、阿弥陀如来の報身報土である「極楽浄土」を示すものではない。

極楽浄土は、正確には、阿弥陀如来の方便法身の浄土と言えるところになる。

では、一如宝海は、阿弥陀如来の法性法身の浄土であるのか、となれば、限りなく近いのだが、厳密にはイコールではない。
この「厳密にはイコールではない」が実は極めて重要なのである。

また、娑婆世界は、浄土か穢土かとなれば、阿弥陀如来の方便法身、真実功徳円満の「名号」が届いてある世界として、極楽浄土と同じく、阿弥陀如来の方便法身の浄土と考えることになるのである。

もちろん、教義的には、娑婆世界から極楽浄土を経由するまでもなく、自然の浄土、一如宝海への往生が求められるところであり、そのためには、信心獲得、信心決定が一大事となるのだが、親鸞聖人の二種法身論、二種回向論を正確に理解していないと、自然の浄土への往生の理解は、かなり難しいものとなります。

つまり、まだ、あそこを極楽浄土としていたのであれば、経由地への往生として、自力的な要素をある程度、敢行推奨するのも、正直なところ百歩譲って認められる余地があったのではあります。拙的には。

しかし、「自然の浄土」と表記してしまった以上は、もはや後半は蛇足どころか、完全に教義的にはアウトとなってしまったのであります。

まあ、これはあくまでも教学論としての投稿ですので、どれのどこがとはもちろん申しませんが、、

また、かなり前の拙論にても述べたように、極楽浄土は、自力聖道行者においても往生先の一つであり、自力他力の両方が混ざってある行者においても往生先の一つとなるが、絶対他力行者の往生先とはやはり違うことになるのであります。

阿弥陀経にあるように基本的に善根少ない者は、極楽浄土に往生できません。

つまり、一定の功徳行が前提であり、それはもちろん自力聖道行となるのであります。

ゆえに、極楽浄土への往生を説くのであれば、道徳、善行、功徳行を勧めても全くもって何ら矛盾はないのであり、また、通仏教的な悟りへと向けた見仏と授記に向けて、ごくごくそれは当たり前のことになります。

問題は、自然の浄土、一如宝海への往生についてであります。

こちらへの往生を説くのであれば、残念ながら絶対他力へと向けて、一切の自力的な要素は微塵も認められる余地はなくなるのであり、もちろん、見仏、授記も必要にはならないため、他浄土への往生も不必要となります。

自然の浄土、一如宝海への往生へと向けて説かれたのが、親鸞聖人の教えの要諦であり、もちろん難儀至極ではあるものの、教義的にはこちらを優位優先して説き示して、教化していくことを目指さなければならないのであります。

ですから、あれを草稿した者は、明らかに「自然の浄土」とは何かを全く理解していないと言えるということでも問題なのであります。

あれは何かはもちろん言いませんし、これはあくまでも教学論としてのことになりますので、ご寛恕下さい。

・・

浄土真宗本願寺派・西本願寺における「新しい領解文」(浄土真宗のみ教え)異安心問題についてのメモ・1

まず、何が問題であるのかを知るために・・

新しい「領解文」を考える会・岡本法治先生より

一人ひとりの領解(教えの理解)を改めて問うための阿弥陀さんからの有り難いご仏縁として、西本願寺の皆さんはもとより、これまで浄土真宗にご縁のなかった方、他宗の方、一般の方にもこの問題を広く考えて頂けるように問題提起して、議論に参加して頂ければ有り難いとのことでした。

非公開グループですが、参加は自由になりますので、お気軽にご参加下さいませ。

新しい「領解文」を考える会
https://www.facebook.com/groups/754460852681528/?ref=share

・・以下、拙メモより・・

雑行雑修、雑善を敢行奨励するのが、なぜダメなのかがわかりませんと頂いた、、

確かに新しい領解文にあるような普通の世間一般に奨励されるような道徳規範的なことは、別に否定されるわけではありません。

ただ、それはあくまでも個人的な思想信条における、個人的なこととして行うべきことで、それを寺院、僧侶、宗門として行うことは明確に教義に反するということです。

絶対他力の絶対信心は、生半可なことでは不可能なものです。雑行雑修、雑善に励む余地など本来は微塵もないのであります。
ましてや、寺院、僧侶、宗門としてならば尚更となります。

もちろん、個人として行う、世間的な道徳、社会的な活動、奉仕ボランティア活動、慈善事業、寄付事業等は、否定されるものではありません。まあ、普通であれば敢行奨励されてしかるべきとなります。

しかし、それとは全く別次元として、教義的なあり方を考えないと、なし崩し的にこれを認めていけば、一気に教義、宗門の崩壊を招くことになると懸念されるのであります。

今回の件では、本来であればはたらいたであろう是正力が、全く機能しなかったのは、一つは勧学寮や監正局、宗会による是正措置が効かなかったことが大きいと思われるのであります。

要は、教義、宗門が死に体になったということです。

なぜ、このような事態を招いたのか。深く考える必要があるのです。

・・

では、宗門自体の社会活動や慈善事業、寄付事業はどうなるのでしょうか、となります。

本来は教義的に余計なことであり、それは宗門外に位置付けて行うべきでしょう。

それを総局に紐づけて行っていること自体が、もともと教義に反しているのであります。

更に、教義に反することに余計な予算を使い、無駄にし、財政を圧迫しているということになってしまっているということです。

特に、本来は教義、宗門の理論的中枢となる宗門のシンクタンク、総合研究所を潰すという暴挙に出るなど、まず考えられないことであります。

それなら、重点プロジェクト推進室、二特別部門、社会部を宗門外の別法人化した組織に移して、予算を見直せば、すっきりとするでしょうし、対外的にも非常に見栄えしたあり方になります。

いずれにしても、死に体となった教義、宗門を立て直すには、勧学寮、監正局、宗門教学会議、宗会が、その中心的な役割を果たさなければならないでしょう。

・・

拙生は、新しい領解文について、従来通りに、本覚思想の問題と、雑修雑行、雑善の敢行奨励を蛇足したこの二点を問題視しています。

他には、「知識帰命の異安心」(阿弥陀如来ではなく教師先生への帰依)なども問題視されていますが、新しい領解文を考える会による「新しい領解文についてのお尋ね」には、内容への疑義だけでも、ナント17項目も理由と共に挙げられています。詳しくは、グループへご参加下さい。

また、草稿した者による誤った仏教理解、誤った教学理解も、その背景として、その者の思想が反映されてあるものとほぼ確実に推定されています。

更には、当初は領解文として発布されないようにしかるべき集まりのしかるべき方々により(当然にできないぐらいに誰が見てもマズイ内容)勧告されていたにもかかわらずに、強引に領解文として発布されたことも明らかとされており、そこまで強引に進められた背景も含めて、この問題は考える必要があると思うのであります。

特に、本来は教義、教学的に通常なら考えられない雑修雑行、雑善の敢行奨励を蛇足した点には、何らかの意図が含まれてあると考えられ、その意図からこの問題の本質を見極めて、対処していくことも必要になると思われるのであります。

新しい領解文への見解を聞かれたことから始まった関わりですが、浄土真宗教学、親鸞聖人の思想の考究にもなるため、引き続き意見交換をしていければと思います。

・・

新領解文問題は、西本願寺さん内で早くの収束を願っていますが、門主さんの立場が外部からはよくわからないため、安易には言えないところがあります。

ただ、言えるのは、西本願寺、本願寺派の皆さんにとって門主さんは大切な存在ということ。

今回の新領解文問題も、その批判、または、撤回、修正を求めるのは、つまり、消息を発布した門主さんへの批判になるため、声を上げにくい、憚られてしまう現状があるのは確かであります。

しかし、この新領解文の問題は、浄土真宗教学、親鸞教学上における問題(特に雑修雑行、雑善、自力の敢行と捉えられる点)があることと、本覚思想に関する誤謬を宣揚してしまっている点で、撤回、修正しない限り、いつまでもくすぶり続けることになり、恥を晒し続けるということになります。

宗会では、この問題を軽く見て、留保案を否決したようですが、かえってこれから門主さんの傷になってしまっていくことが分からなかったのか、それが残念でならないのであります。

門主さんを大切に思うならば、留保案を通すべきだったでしょう。

宗会で議論に上がらなくなってしまったら、残された道は、門主さん自らで、なるべく早くの撤回、修正をするしかないということになります。しかし、門主さんにその意思がおありでも、そんなことは総局も今さらさせないでしょうし、総力を上げて止めるのは必定でしょう。

しかし、本当に門主さんを守りたい、尊重する心があるなら、どうすれば一番、門主さんに傷がつかずに収束が図れるか、それはもう総局が、今回の経緯の責任があったことを認めて、混乱を招いたことを謝罪し、総辞任して、新領解文を撤回するということでしか無理なように思えるのである。

まあ、完全部外者による無責任、勝手な意見ですが、門主さんを大切になさっていることがわかりましたので、門主さんには傷がつかないように守りたいと私も思うのであります。

・・

拙生が問題視しているのは、新領解文の「本覚思想」と、草稿された方の間違った仏教理解、特に「空と縁起・中観思想」の間違った解釈。

この間違った解釈から、やがて極端な一元論、もしくは二元論のいずれかへと陥りかねず、それが差別思想、もしくは全体思想へと向かっていく危険さが常に孕んでいるのであります。

ですから、差別、戦争に加担した歴史への反省を門主さんに宣言をさせておきながら、その内実では、差別、戦争へと繋がりかねない危険な思想を、ましてや宗門教義へと入れ込もうとしている・・

まさに獅子身中の虫なのである。

この間違った中観理解からは、第二、第三のオウムがいつ生まれてもおかしくないのである。ですから、誰だって、全く関係がないとは言えないのであります。

・・

「新しい領解文」を考える―組織と教学の陥穽
https://www.youtube.com/live/Jat7j8OMrIU?feature=share

この「新しい領解文」は多くの反響を呼んでおり、その中には批判的な意見も少なくありません。これが門主個人の領解なら何ら問題はないはずですが、本願寺派は組織をあげてこの文章の唱和を推進しようとしており、そこにはどこか全体主義的な空気も見え隠れします。

一体、この「新しい領解文」の問題点とはなにか。宗学(真宗教学)、宗教社会学、教団法規、宗教哲学の分野から本願寺派内の識者を招き、ディスカッションを行います。視聴者からのチャットによる意見や質問を歓迎します。感情的な批判を離れ、建設的な議論ができればと思っております。

・・

浄土真宗本願寺派・西本願寺さんが発布された新しい領解文についての見解について幾人かより聞かれましたので・・

まずは、その新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)

新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)についての消息[龍谷門主釋専如]令和五年一月十六日
https://www.hongwanji.or.jp/message/m_001985.html

南無阿弥陀仏

「われにまかせよ そのまま救う」の 弥陀のよび声

私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ

「そのまま救う」が 弥陀のよび声

ありがとう といただいて

この愚身をまかす このままで

救い取られる 自然の浄土

仏恩報謝の お念仏

これもひとえに

宗祖親鸞聖人と

法灯を伝承された 歴代宗主の

尊いお導きに よるものです

み教えを依りどころに生きる者 となり

少しずつ 執われの心を 離れます

生かされていることに 感謝して

むさぼり いかりに 流されず

穏やかな顔と 優しい言葉

喜びも 悲しみも 分かち合い

日々に 精一杯 つとめます』

・・

浄土真宗の要諦は、何よりも阿弥陀如来の往相還相の二種回向による法性方便の二種法身の獲得を目指しての阿弥陀如来の本願への絶対他力、絶対信心。

その絶対信心を得ること、信心決定が、極楽浄土への往生、正定聚に至るために求められるところとなります。

この信心決定、信心獲得は、帰依や報謝とは全くの別モノ、別次元であり、衆生に対しては、この信心決定、信心獲得に対してどうあるべきか、どう臨むべきかが教義的に重要となるため、絶対信心への絶対他力の念仏以外は、雑行雑修、あるいは雑善として否定されるべきものとなります。

「自然の浄土」への往生、その浄土は、衆生が二種法身を獲得するための(阿弥陀如来の本願の利益としての)はたらきを有する阿弥陀如来の法性法身そのもの、一如宝海とされるわけであります。

この一如宝海への往生により、阿弥陀如来の救いに与ることができ、法性方便の二種法身を獲得して成仏が完成するとされるのであります。

そして、信心決定、信心獲得、それは、ただ、念仏するだけで可能となるような簡単なものではなく、当然に聖道門(自力行)における菩薩階梯の十地の第八地に相当するほどに難しく、厳しいものであり、とても易行道と呼べるものではなく、本来は難儀至極なるものであります。(別時意趣)

また、絶対信心への絶対他力の念仏以外は、雑行雑修、あるいは雑善として否定されるべき中で、後半における、生きる者となり~、執着を離れて〜、感謝して~、貪瞋痴に流されず〜、和顔愛語に〜、分かち合い~、つとめます~、などは、自力的(自分自身による努力的)要素に絡む印象を与えかねず、ある意味、蛇足と言えるのではないだろうかと思われます。

最後の「つとめ」るべき内容は何か、それは絶対他力、阿弥陀如来の本願への絶対信心の獲得であるとして、それをより明確にした方が曖昧さを排除できたのではないだろうかというのが拙見解であります。(前半の「南無阿弥陀仏~仏恩報謝のお念仏」だけの方が良かったのではないだろうかと思われます。)

最後に、もう一つ特筆しておくべきことは、本覚思想的要素が鮮明になっていること。

「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」

親鸞思想が、本覚思想・如来蔵思想的な問題を抱えてあるということについては、下記の拙見解をご参考頂けましたらと存じます。

「曇鸞以降における浄土論の最大の誤謬(般若中観思想の誤った用法による)」
https://blog.goo.ne.jp/hidetoshi-k/e/2b03bb2aab7cfaec260de8d5382ab206

・・

追記・2023.2.26

ご消息解説 勧学寮

このたび、ご門主より発布されましたご消息は、新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)と題していますが、平易さを重視し、唱和することを目的としたために、その肝要を現代版に直したものであることをご理解ください。

ところでこの文は、三段に分けて受け止めることができます。まず第一段は、「南無阿弥陀仏」のおこころです。そのおこころをありがとう、といただき、おまかせする[信心]。そして救われていく「浄土」。それに「報謝の念仏」について述べています。第二段では、そのみ教えを私たちにお示しくださった宗祖親鸞聖人、また、お伝えくださった歴代宗主の恩徳について感謝を表しています。第三段では念仏者の日々に生活する態度を示し、聞法を勧める構成になっています。

どのようなご文も同じですが、いかに味わって拝読するか、その味わい方が肝心です。いま、このご文を、二、三行ずつに分けてその肝要を窺ってまいりましょう。

第一段 お念仏のこころに

南無阿弥陀仏

はじめに、六字の名号が掲げられます。この名号は単に名前ではありません。阿弥陀如来の顕現したおすがたを示すものです。

親鸞聖人が名号といわれるとき、多くの場合、上に本願の語が冠せられます。「本願名号正定業」などです。他に「誓願の名号」とか「誓いの名号」などの例もみられます。これらは、名号が本願であり誓願されたそのこころを表しているという意味です。本願とは、阿弥陀如来が因位の法蔵菩薩であったとき、一切の苦しみ悩む衆生を一人のこさず救いとろうと誓われたものです。この願いが成就して阿弥陀仏となられ、そして名号となって私をよんでくださっているのです。ですから続いて

「われにまかせよ そのまま救う」の弥陀のよび声

とあります。「そのまま救う」が阿弥陀如来の願いですので、短い消息文の中に二度にわたって述べられます。親鸞聖人はこの六字の名号を

しかれば、「南無」の言は帰命なり(中略)ここをもって「帰命」は本願招喚の勅命なり。「発願回向」といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施(註釈版聖典170ページ)

として、阿弥陀仏が名号となって煩悩に覆われる私の上に届き「まかせよ、わが名を称えよ」とよびかけてくださるすがたと味わわれたのです。また、この名号はよび声ではありますが、阿弥陀仏の功徳のすべてを与えたいという慈悲のすがたでもあるのです。しかも、信ずることも、念仏することも如来よりいただくものと味わわれます。

私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ「そのまま救う」が 弥陀のよび声

ここで問題は、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」の受け止め方です。私たち凡夫の立場からすれば、異様な内容と映ります。しかし、阿弥陀如来の立場からするならば違って受け止めることができるのです。仏教では、迷いの世界とさとりの世界の両方を説きます。いま、私の煩悩と仏のさとりは本来一つ、と言われるのは、さとりの世界の風光を示すものです。

阿弥陀如来には絶対的な真実無相の立場と、人間を救う仏として具体的なかたちをあらわす二面性があります。それが智慧と慈悲の阿弥陀仏と言われる所以です。智慧とはさとりを指しますので、その智慧の眼で眺めた時には「煩悩と菩提は一つ」と見ることができます。このさとりの智慧から衆生救済の慈悲が導き出されるのですから「ゆえ」が付加されているのでしょう。

要するに阿弥陀如来のさとりの智慧から「この私をよんでくださる慈悲」が出されたという意味です。この弥陀のよび声に私が呼応して「ありがとうございます」といただくのです。「そのまま救う」とよびかけてくださるのですから、素直に「この身このまま、おまかせします」と、ただただおまかせするのみを「いただく」と言っているのです。ですから

ありがとう といただいて

と続きます。

阿弥陀如来の必ず救うという慈悲のこころをそのまま受け入れて、この身をおまかせする。ここを「信心をいただく」と表現し、ここに他力の救いが成立します。本願を憶念して、自力のこころを離れていく、それ以外に煩悩具足の私が迷いの世界から抜け出る道はありません。

この愚身をまかす このままで
救い取られる自然の浄土

すでに述べたように、救われるということは、如来のよび声を聞き、おまかせするということです。ですから、如来の側からすれば「そのままの救い」であり、私の側から言えば「このまま救われる」ということになります。

ここを「愚身をまかす」とあえて「愚身」と書いて「み」と読むように指示されています。私という愚かな身ながら[このまま救われる]ことを表そうとされているのです。そうすれば、私の命が終かったその時にお浄土に往生させていただき、この私を仏にしてくださいます。

その往生させていただく世界が「救い取られる 自然の浄土」、いわゆる極楽浄土です。浄土が自然の語によってさとりの世界であることを表そうとしています。「自然虚無之身無極之体」という経典のことばにも、自然がさとりを意味していることが窺えます。

仏恩報謝の お念仏

阿弥陀如来の私をよんでくださるよび声が届いた瞬間からお浄土に寄せていただくまでのこの世での生活、それが「ありがとうございます」という感謝の念仏生活以外にはありません。「仏恩報謝のお念仏」と表現される所以です。南無阿弥陀仏と私の口からお念仏が出ます。決して救いの因として役立たせるためではありません。阿弥陀如来のご恩をよろこぶ気持ちがあふれ出たものです。仏になるべき身に育てあげていただいたご恩に対する報恩の念仏です。

第二段

師の徳を讃える
これもひとえに
宗祖親鸞聖人と
法灯を伝承された 歴代宗主の
尊いお導きに よるものです

ところで、愚身の私が往生させていただく手段は、すべて阿弥陀さまの方で完成されていますので、これを「他力」といいます。この「他力の法門」を数あるお釈迦さまの教えの中から見出してくださり、この私に至るまでお伝えくださったのは「ひとえに宗祖親鸞聖人と 法灯を伝承された 歴代宗主の 尊いお導きに よるもの」と言えましょう。親鸞聖人ましまさずば、と思うとき本当にお念仏に遇いえた喜びが湧きあがってきます。そして法灯を伝承された歴代宗主のお導きに感謝しなければなりません。

第三段

念仏者の生活

み教えを依りどころに生きる者 となり
少しずつ 執われの心を 離れます

「そのままの救い」とか「摂取不捨の救い」とはいっても、どんな悪事をしてもいいということではありません。「薬あればとて、毒をこのむべからず」という誡めもあります。ですから、他力の教えをいただき感謝の念仏を称える人たちの生き方はどのようなものといえるでしょうか、それを考えねばなりません。消息文では「み教えを依りどころに生きる者」と示されています。

今生が終わった後の行き先が定まれば、その後の生活は当然ながら異なってくるものです。努力しなくとも「少しずつ 執われの心」が離れていきましょう。「執われ」とは「この世の財産や地位、名誉等々」に執われることで、当然ながら、そこには「生きる」ことも含まれます。要するに、死んだ後まで相続できないものへの執着です。

私たちは、この執着心からなかなか離れることができないものです。しかし、それが阿弥陀如来のみ光に照らされて、死後に至るまで相続できないものとわかれば、少しずつ心に変化が生じてくるものです。そこを聖人は

仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし(註釈版聖典739ページ)

と示してくださいます。

ここの「誓いを聞き始めしより」の文が大切です。煩悩成就の凡夫ですが、如来の誓願を知ったならばという意味でしょう。そうすれば、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころが少しずつ遠のいていくものだと示してくださっているのです。

生かされていることに 感謝して
むさぼり いかりに 流されず

執われの心が薄れてくれば「生かされていることに 感謝」ができます。私たちは多くのご縁によって生かされています。常に自分を中心において、さまざまなご縁を眺めていますが、ご縁が先にあっての私だということがわかります。生かされて生きているのです。そのように思うとき、煩悩的欲求に無批判に従うことはできません。

また、貪・瞋・痴の三毒の煩悩は死ぬまで無くなりませんが、親鸞聖人がお示しくださったように「無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ」てくるに違いありません。これらを「むさぼり いかりに 流されず」と言い表しているのです。くれぐれもそのように努力しなければならないという意味ではありません。自ずからそのような念仏生活ができるという意味ですのでご注意ください。

穏やかな顔と 優しい言葉
喜びも悲しみも分かち合い

「和顔愛語」は法蔵菩薩修行の徳目の一つです。阿弥陀如来はいつも私たちによりそい、私の喜び悲しみを共にしてくださる仏さまです。

善導大師は、阿弥陀仏と念仏の衆生との関係を親縁で示してくださいます。親しい間柄という意味です。阿弥陀さまと私が親しい間柄ということをこころに思い浮かべるとき、自然にこころ穏やかになり、顔や言葉にあらわれるものです。私の優しい態度や言葉は、広く他におよび、曇鸞大師が念仏者を「四海のうちみな兄弟とするなり」(註釈版聖典310ページ)と言われるような輪が広がっていきます。すなわち、「穏やかな顔と 優しい言葉」また「喜びも 悲しみも 分かち合」う生活が送れることになるのです。

日々に 精一杯 つとめます

念仏申して生きることは、生きる意義がはっきりするということです。『仏説無量寿経』には

愚痴矇昧にしてみづから智慧ありと以うて、生の従来するところ、死の趣向するところを知らず(註釈版聖典70ページ)

とあります。どこから来て、どこへ帰っていくのか知らない私です。そのような私に生きる方向を指し示してくださるのがお念仏です。

そのお念仏による仏恩報謝の生活では、このように素睛らしい心安らぐ日常が送れるということです。

そのために、私たちはとにかく「阿弥陀如来のよび声に呼応」しなければなりません。この呼応することが「ご信心をいただく」という意味でもあります。まず私たちが聞法にはげみ、そして少しでも如来のお心にかなう生き方を目指し、「日々に 精一杯 つとめ」なければならないでしょう。それを奨励した言葉であることを肝に銘じなければなりません。

今回発布された消息文を以上のような味わいで唱和くださいますことをここに念じます。

『本願寺新報』2023年(令和5年)2月1日 3ページ


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