親鸞聖人は、大智度論の指月喩から、「名号」(指)は、阿弥陀如来の(本願)真実功徳(法性法身)(月の光)に照らされてあることを私たちに分からせてくれる阿弥陀如来の(本願)真実功徳(月)のはたらき(救い)そのものである(方便法身)とするのである。また、阿弥陀如来の(本願)真実功徳(法性法身)(月の光)に照らされてあってこそ分かることができる「名号」(指)(方便法身のはたらき)の有り難さを強調するのである。
そして、大智度論において法性法身と方便法身の不一不異、由生由出の関係性が明示されてあるところとも繋がるのである。
大智度論巻第九の
「復次,仏有二種身:一者、法性身,二者、父母生身。是法性身満十方虚空,無量無辺,色像端正,相好荘厳,無量光明,無量音声,聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身,非生死人所得見。常出種種身,種種名号,種種生処,種種方便度衆生;常度一切,無須臾息時。如是法性身仏,能度十方衆生。受諸罪報者,是生身仏;生身仏,次第説法如人法。以有二種仏故,受諸罪無咎。」の
「聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身」だ。
しかし、親鸞聖人は、最終的には、法性法身と方便法身の不一不異、由生由出の関係性を再考した上で、曇鸞とは異なる二種法身の論である一如宝海論を展開していくことになるのである。
そして、大智度論において法性法身と方便法身の不一不異、由生由出の関係性が明示されてあるところとも繋がるのである。
大智度論巻第九の
「復次,仏有二種身:一者、法性身,二者、父母生身。是法性身満十方虚空,無量無辺,色像端正,相好荘厳,無量光明,無量音声,聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身,非生死人所得見。常出種種身,種種名号,種種生処,種種方便度衆生;常度一切,無須臾息時。如是法性身仏,能度十方衆生。受諸罪報者,是生身仏;生身仏,次第説法如人法。以有二種仏故,受諸罪無咎。」の
「聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身」だ。
しかし、親鸞聖人は、最終的には、法性法身と方便法身の不一不異、由生由出の関係性を再考した上で、曇鸞とは異なる二種法身の論である一如宝海論を展開していくことになるのである。