「極楽浄土と自然の浄土について」2
お念仏で極楽浄土へ行くものだと思っていました、との方が、門徒さんでも意外に多い。
それは教学的には間違いになりますが、ただ、方便的に用いる場合はあるでしょう。
昨日にも述べたように、極楽浄土は、自力聖道門の行者の往生先の一つであり、往生の目的は、阿弥陀如来との見仏、授記になります。
しかし、通仏教的には如来の報身仏との見仏、授記は、菩薩の第八地以上の境地が必要となります。
第八地に至っていない行者でも極楽浄土に往生できるかどうかは、ある程度の功徳行を前提として、阿弥陀如来の本願力を頂くことにより可となる可能性はあると言えますが、それより極楽浄土でも阿弥陀如来の化身化土上に赴ける可能性の方が極めて高く、そちらで仏道修行を進めることになり、更に境地を上げることで、やがて報身仏との見仏、授記に段階として至れると考える方が妥当であると思われるのであります。
このことは、以前にも述べてあります。
また、極楽浄土にも、その広大な中には娑婆と同様に六道もあると考えておかないといけないでしょう。要は、極楽浄土にも地獄はあるということです。
娑婆との違いとしては、見仏と授記が可能となる如来の在世と、阿弥陀如来の本願力が娑婆よりも強くはたらいてある世界であるため、仏縁に与れる、阿弥陀如来の(応身を含めた)教化に与れる可能性は極めて高く、また、報土における多くの菩薩や聖者方による導きも期待できるため、仏道のスピードは娑婆よりも早く進めることができるであろうとは思われるのであります。
ですから、極楽浄土は、浄土門の宗派はもちろんながら、日本でも、天台、臨済、昔の曹洞と、あと、チベット仏教や中国仏教、台湾仏教、韓国仏教でも、在家の葬送における引導先として、最も多いのであります。
しかし、いずれにしても無条件に往生できるものではなく、一定の要件、善根、功徳が必要となるのであります。
葬送の儀軌によりそれをある程度カバーすることにはなりますが、故人の集積してある功徳が足りない場合には、遺族、縁故者によって、功徳を補助する追善供養がやはり欠かせないものになると考えておかないといけないでしょう。
話を戻して、浄土真宗における葬送先、往生先は、上記のような極楽浄土ではないということであります。
目指すべき葬送先、往生先は、阿弥陀如来の法性法身のある「自然の浄土」、「一如宝海」となるのであります。
この点をしっかりと理解していないと、自力聖道門との相違がどこにあるのかが分からなくなってしまうおそれがあるため、非常に注意が必要となるのであります。
・・
「極楽浄土と自然の浄土について」
「自然の浄土」とは、「一如宝海」とほぼ同意になると思われるのだが、もちろん、阿弥陀如来の報身報土である「極楽浄土」を示すものではない。
極楽浄土は、正確には、阿弥陀如来の方便法身の浄土と言えるところになる。
では、一如宝海は、阿弥陀如来の法性法身の浄土であるのか、となれば、限りなく近いのだが、厳密にはイコールではない。
この「厳密にはイコールではない」が実は極めて重要なのである。
また、娑婆世界は、浄土か穢土かとなれば、阿弥陀如来の方便法身、真実功徳円満の「名号」が届いてある世界として、極楽浄土と同じく、阿弥陀如来の方便法身の浄土と考えることになるのである。
もちろん、教義的には、娑婆世界から極楽浄土を経由するまでもなく、自然の浄土、一如宝海への往生が求められるところであり、そのためには、信心獲得、信心決定が一大事となるのだが、親鸞聖人の二種法身論、二種回向論を正確に理解していないと、自然の浄土への往生の理解は、かなり難しいものとなります。
つまり、まだ、あそこを極楽浄土としていたのであれば、経由地への往生として、自力的な要素をある程度、敢行推奨するのも、正直なところ百歩譲って認められる余地があったのではあります。拙的には。
しかし、「自然の浄土」と表記してしまった以上は、もはや後半は蛇足どころか、完全に教義的にはアウトとなってしまったのであります。
まあ、これはあくまでも教学論としての投稿ですので、どれのどこがとはもちろん申しませんが、、
また、かなり前の拙論にても述べたように、極楽浄土は、自力聖道行者においても往生先の一つであり、自力他力の両方が混ざってある行者においても往生先の一つとなるが、絶対他力行者の往生先とはやはり違うことになるのであります。
阿弥陀経にあるように基本的に善根少ない者は、極楽浄土に往生できません。
つまり、一定の功徳行が前提であり、それはもちろん自力聖道行となるのであります。
ゆえに、極楽浄土への往生を説くのであれば、道徳、善行、功徳行を勧めても全くもって何ら矛盾はないのであり、また、通仏教的な悟りへと向けた見仏と授記に向けて、ごくごくそれは当たり前のことになります。
問題は、自然の浄土、一如宝海への往生についてであります。
こちらへの往生を説くのであれば、残念ながら絶対他力へと向けて、一切の自力的な要素は微塵も認められる余地はなくなるのであり、もちろん、見仏、授記も必要にはならないため、他浄土への往生も不必要となります。
自然の浄土、一如宝海への往生へと向けて説かれたのが、親鸞聖人の教えの要諦であり、もちろん難儀至極ではあるものの、教義的にはこちらを優位優先して説き示して、教化していくことを目指さなければならないのであります。
ですから、あれを草稿した者は、明らかに「自然の浄土」とは何かを全く理解していないと言えるということでも問題なのであります。
あれは何かはもちろん言いませんし、これはあくまでも教学論としてのことになりますので、ご寛恕下さい。
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親鸞聖人の特殊と言える二種法身、二種回向の理論的根拠は、大智度論にあることを先に述べていますが、最後に釈摩訶衍論の性徳円満海と親鸞聖人の一如宝海論の比較検討について扱っていた中で、西本願寺さんの新領解文についての見解を聞かれたことから、しばらくそちらのことが主になってしまっていました。
大乗起信論は本覚思想を扱い、その派生としての釈摩訶衍論は、大智度論と同様に龍樹造と仮託されたものではありましたが、親鸞聖人は全く重きを置かれませんでした。もちろん、天台自体が釈論を教学から外したため、当然となります。
問題は、一如宝海は阿弥陀如来の法身であるのか、それ以外のものであるのか、というところであります。
特に一如宝海は、衆生が二種法身を得る、つまり、成仏するところとなります。
その成仏の根拠はもちろん阿弥陀如来の法身のはたらき、いわゆる本願のはたらきとなるのですが、このように考えると、一如宝海への往生にて阿弥陀如来の法身と自分の法身、他のたくさんの衆生の法身も共にあるような、いわゆる混在した状態となります。そこから還相として各自の方便法身のありようが示現することにもなるのですが、果たしてそのような事態が可能かどうかを考えなければならないということになります。
一如宝海論の理論的根拠は大智度論に見出だせるのは確実ではありますが、もう少し突き詰めなければならないと考えています。
本覚思想ならば、当然に大乗起信論、釈摩訶衍論からすぐに見出だせたであろうと思うのですが、そうではないため、複雑さが増すのであります。
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釈摩訶衍論の不二摩訶衍・性徳円満海、金剛三昧経の仏菩提薩般若海、親鸞聖人の一如宝海。
これら海論における焦点は、この「海」の性質が、もしも、悟り、法身、真如、般若、般若波羅蜜多、阿耨多羅三藐三菩提であるとするのであれば、そこから迷い苦しむ衆生が生じるということはありえないものとなります。
迷い→悟りへの過程はあっても、悟り→迷いへの過程はありえないもので、「海」を悟り、法身、真如、般若、般若波羅蜜多、阿耨多羅三藐三菩提として、全てがそこを元に生じるものだとするならば、悟りから無明(による迷い苦しむ衆生)が生じるということになってしまいます。これはありえないことです。
ですから、性徳円満海、仏菩提薩般若海、一如宝海も、仏の法身の世界であると考えるならば、そこから無明(による迷い苦しむ衆生)が生じることはもちろんないのであります。
それよりも、仏の色身、報身、応身、または方便法身など、仏の智慧と慈悲のはたらきを有するものであるならば生じることになります。まさか迷い苦しむ衆生がそこから生じる余地など微塵もないのであります。
もちろん、仏も衆生も、もとの生じる根源は同じところからにはなります。宇宙誕生のビッグバンのように、この世に物質、現象を生み出した大元のようなものです。
特に物質、現象を生み出す根源は、中立、無記なものとして展開していくものとなります。ただ、ビッグバンも無から発生したものではなく、その前の因縁もあるため、ビッグバンがその根源とは言い得ないのではありますが。まあ、無始なるところからということなのであります。
いずれにしても、性徳円満海、仏菩提薩般若海、一如宝海も、想定されてあるのは、仏の法身であり、その無始なる根源というものではないと考えるのであります。
では、一体、仏性とか、如来蔵とか、阿摩羅識とかは何であるのかということが本覚思想においても問題となるのですが、これは、仏にも衆生にも有してある、つまり、有情なる者、有情だった者(仏)であれば皆、有している「知る力」の根源のことで、いわゆる密教でいうところの「心の光明」のこととなります。これは、もちろん中立、無記な力であります。
そして、有情は皆、悟るための知る力である、この心の光明を有してはいるものの、その知る力を正しく育てて悟りへと至れるかどうかは、いずれにしてもそれぞれの業次第になるということなのであります。
仏性、如来蔵、阿摩羅識とは、この「心の光明」のことなのであります。
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釈摩訶衍論における不二摩訶衍の説明で出てくる「因縁無」は、般若経、大智度論や宝性論、涅槃経などに出てくる悟り、解脱、涅槃、第一義諦は「因縁無」と説かれてあることと同じ事態を示すのではないかと思われるかもしれません。
実は相当前の拙論では、一切が空ならば、各個物は実体としてあるわけではないため、そもそも各個物がいったい何であるのかなど、元から分かりようがなく、つまり、どうやっても分別して区切りようもないし、示しようもない、当然に、因、縁、果も実体としてあるわけでないため、何が因、何が縁、何が果さえも示しようがないため、「因縁無」であると言えるとしていたわけです。
要は、空=勝義諦、縁起=世俗諦という図式の理解においては、確かに勝義諦では「因縁無」として、般若経、大智度論、宝性論や涅槃経のように説明されるわけですが、真なるところは、空と縁起は切り離せるものではなく、表裏一体、相即関係、不一不異であって、「空=勝義諦、縁起=世俗諦」という単純な図式での理解は間違いとなるのであります。
このことを明らかとして、正したのがツォンカパ大師であります。
また、覚者による認識のありようからは、「因縁無」として表現できることがあるとしても、私たち凡夫において、そうではないということになります。このあたりのことも覚者における離戯論の議論から、両者の認識のあり方の相違を理解することが必要となるのであります。
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では、大乗起信論における「水と波の喩え」における「風」は何の喩えとなるのか?
「風」を衆生と解釈する場合もありますが、風はあくまでも波を起こす原因となるものであり、それが無明、虚妄分別、煩悩障、所知障で、その風による波の状態にあるのが、衆生であって、もう少し詳しく述べるのであれば、その衆生の心のありようを表すものと考えると分かりやすくなります。
風が止み、波が収まれば、それで元々の真如、第一義諦、法身、般若そのままの揺らぎのない水の状態になるということであり、皆、衆生は元々、悟りの状態にある、悟りの状態を有しているものとして、大乗起信論は本覚思想として位置付けられるものとなるのであります。
しかし、そんな風が吹いたぐらいで、つまり、無明や虚妄分別によって簡単に揺らぎ惑わされるものが、真如、第一義諦、法身、般若なわけがないのであります。
それよりも拙見解のように認識する知のありようの問題と考える方がまだ理解ができるのではないだろうかと思うのであります。
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もちろん、釈論の性徳円満海論が、一切衆生の自利利他功徳の円満するところ、全てのものたちの法性法身と方便法身の円満具足するところと捉えられるならば、まさに親鸞聖人の一如宝海論と同意として考えられなくはないのですが、釈論の意図がそうであれば、不二摩訶衍を再考することで、性徳円満海の意図するところをより明確にできるのかもしれません。
それには、大乗起信論周辺における真如の議論を見直すことが必要となります。
その真如の議論の中で、最も気になるのが、やはり「水と波の喩え」です。
これは大乗起信論周辺域において、「水」=「真如」、「波」=「衆生」という理解がオーソドックスなものとなります。
そして、「水」は、仏の智慧の法身、第一義諦、般若、真如と解されるところとなりますが、以前の拙考の「大乗起信論における二分依他性」の中で、『風が立ち、波が起こると、底が見えなくなるありようが、虚妄分別による汚れた知のありようを示し、風が止み、波も止めば、底が見えるようになるありようが、真如による浄らかなる知のありようを示すということであります。もちろん、波が起ころうが起こるまいが、水は水として何ら元々汚れもなく、浄らかなる本体として、真理を知る真如そのままの知があるとするのであり、それを如来蔵と言うわけなのであります。』としていますが、本来の「水と波の喩え」は、拙解説とは少し違ったもので、波が静まろうが、そうでなくても、「本体」の「水」は「水」である、つまり、「真如」であるとするのであります。(本覚思想)
しかし、これなら、仏の智慧の法身、第一義諦、般若、真如から「波」としての迷い苦しむ衆生が生じていることになり、そんなことがあるはずがないのであります。
つまり、大乗起信論周辺におけるオーソドックスな「水」=「真如」、「波」=「衆生」という本覚思想的な理解からでは、一如宝海、性徳円満海も、そこから仏の方便法身、法性法身だけではなく、迷い苦しむ衆生も生じることになってしまうという、おかしなことになるのであります。
そういった意味でも、まず、大乗起信論周辺域における「真如」とは両者ともに性質が異なるものと考えることができますが、もしも、当然に大乗起信論周辺域の議論から発展した性徳円満海は、迷い苦しむ衆生もそこから生じるものと考えるとすれば、そこで両者の違いは明確になるわけです。
このあたりを精査し直す必要性があるのであります。
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親鸞聖人の一如宝海論は、釈摩訶衍論の性徳円満海と同じだと主張される方の論拠は、一念多念文意における「一実真如の妙理、円満せるがゆへに、大宝海にたとえたまうなり。」と、自利利他功徳の円満を表すもので、釈論の性徳円満海、その名称そのままで、功徳性の円満、法性、方便の二種法身そのもののはたらきの根源とするものと考えられるということである。
なるほど、確かに字義通りに捉えるならば、まさにそのようになるとは思われます。
ただ、それはあくまでも仏の智慧と慈悲の根源としてであって、釈論の不二摩訶衍としての性徳円満海とはやや性質を異にするのではないだろうかというのが、拙見解となります。
問題は、親鸞聖人が、「宝海とまふすは、よろづの衆生をきらはず、さわりなく、へだてず、みちびきたまふを、大海のみづのへだてなきにたとへたまへるなり。」として、仏(阿弥陀如来)の根源どころか、衆生がさわりなく成仏して二種法身を得れるはたらきのあるところ(衆生の自利利他功徳が円満するところでもある)と示しているのであります。
この点で、やはり、釈論の性徳円満海とは根本的に違うと考えるのであります。
もしかすると一如宝海論のヒントは、釈論の性徳円満海にあったのかもしれませんが、、
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親鸞聖人の一如宝海論は、釈摩訶衍論の不二摩訶衍としての性徳円満海論と同じであるという意見を頂いた。
要は、一如宝海と性徳円満海、それらは方便法身を生じさせる基としての法性法身と捉えるのか、それとも、法性法身と方便法身の両方を生じさせる基と捉えるか、そういう議論となります。
ただ、性徳円満海の海は、仏だけではなく、一切全てを生み出す根源的な意味合いで用いられていると思われる節が釈論の雰囲気としてはあるのですよね。つまり、仏の法性法身ではないということです。
いずれにしても、親鸞聖人の場合は、阿弥陀如来(の法性法身)一尊を絶対視するため(あとの諸仏諸仏説も方便法身としての従果降因的な扱いとなる)、この点で既に一如宝海と性徳円満海は同じではないと拙的には思うのであります。
もちろん、性徳円満海のイメージの典拠とされる金剛三昧経の「仏菩提薩般若海」、これは明らかに仏の悟りの根源としての般若、つまり、智慧としての法性法身そのものが想定されるものではあります。
もしくは徳の円満として、功徳性法身、つまり、方便法身とも捉えられなくもないのですが、智慧より功徳が先行重視されることは難しいので、この線も無いかなとは思うのですよね。
不二摩訶衍とは何かということとダイレクトに繋がるのですが、イメージ的には、宇宙のビッグバン諸元的なものでしょうか。
万物の根源的な。
ただ、いずれにしても不二摩訶衍について釈論の説明で出てくる「因縁無」がかなり引っかかるのですよね。
縁起するものに例外が無い、つまり、縁起以外によるものは無いというのが空の思想でもありますから、ビッグバンもやはり因縁によるものなので、そのイメージも違うのかとは思いますが。。
まあ、本当に龍樹が著したものであるならば、「因縁無」(逆説的な意味での説明であったとしても)とはここで書かないと思われますので、釈論の龍樹真作の線はやはり薄いと思われるのではあります。
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では、次に、親鸞聖人の一如宝海論は、大智度論のどこに見出すことができるのかというと、般若経系においてもよく出てくる表現とも重なりますが、それぞれ異なってある個々の雨水は、やがて川に集まり、海に入って一つに溶け込む、そのようなありようのことからヒントを得られた可能性が高くあります。
雨水=衆生、大海=阿弥陀如来の法性法身(自然の浄土)というわけです。
巻92
「菩提名諸法實相,是諸佛所得究竟實相,無有變異。一切法入菩提中,皆寂滅相;如一切水入大海,同為一味」
巻67
「若菩薩於一切法不分別是法、是非法,悉皆是法;如大海水,百川萬流,皆合一味。爾時修般若波羅蜜具足」
巻32
「如水性下流故會歸於海,合為一味;諸法亦如是,一切總相、別相皆歸法性,同為一相,是名法性」
巻35「諸法如,入法性中無有別異;如火各各不同,而滅相無異。譬如眾川萬流,各各異色異味,入於大海,同為一味一名;如是愚癡、智慧,入於般若波羅蜜中,皆同一味、無有差別」
巻59
「至般若波羅蜜中,皆一相無有差別。譬如閻浮提阿那婆達多池,四大河流,一大河有五百小川歸之,俱入大海,則失其本名,合為一味,無有別異。又如樹木,枝葉華果,眾色別異,蔭則無別。」
まだ他にも同様の表現が数か所散見されますが、雨水=衆生、大海=阿弥陀如来の法性法身(自然の浄土)として、阿弥陀如来の法性法身へと一味に溶け込むことによって、法性と方便の二種法身を得れて成仏することになると想定されてあるのであります。
しかし、大智度論では、親鸞聖人の想定されてあるように、ただ、阿弥陀如来の法性法身、自然の浄土へと溶け込むことで悟りへと至れる、成仏できる、二種法身を得れるとするのかとなれば、そうではないのであります。
特に重要となる諸法実相、法性、実際と衆生は異なるのか、異ならないのかという議論では、明確に一ではないとしているのであります。
もちろん、さりとて、二でもないし、一でないのでもなく、二でないのでもないとして四句分別という立場を取り、「畢竟寂滅 無戯論相」としています。
このあたりは中論の内容、仏の認識論と我々凡夫の認識論の違いが、当然に意識されているのであります。
また、大智度論では、自力修行、六波羅蜜等も否定されるものではなく、初発心の菩薩の立場についても、それなりの修養を終えてあるかなり境地の高い菩薩が想定されています。
この初発心は、よく誤解される仏道修行者が最初に発心する発菩提心の意ではなく、菩薩階梯の十地の内の第八地、不動地におけるいよいよ衆生を救わんとしての大慈悲心の発願とするのが、やはり基本的な立場となるのであります。
このように両者の立場には大きな違いがあるわけですが、親鸞聖人は、悟り、成仏は、阿弥陀如来の法性法身へと一味に溶け込むことにより達成されるとして、そのための信心獲得のみにおいて全て事足りるとされたのであります。
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親鸞聖人の一如宝海論の依拠する経典、論書を調べていたところ、これかもというのをやっと見つけることができました。
ヒントは釈摩訶衍論の不二摩訶衍について考究する中にありました。
釈論ではありませんが、やはり同じく龍樹に仮託された論書。
ちなみに十住毘婆沙論ではなく、龍樹に仮託された論書となれば、あともう一つとなる「大智度論」です。
親鸞聖人の還相回向論、従果還因論の根拠、二種法身論の根拠もおそらくそれになるのだろうと思われます。
親鸞聖人は、曇鸞の「論註」や道綽の「安楽集」から二種回向や二種法身の論を引いては来ているものの、その解釈は、曇鸞や道綽とは全く異なるものになっていることに、ずっと違和感がありました。
その謎がやっと解けた感じであります。
それは、まず、大智度論の仏身論が説かれてある有名な箇所になります。
大智度論巻第九
「復次,仏有二種身:一者、法性身,二者、父母生身。是法性身満十方虚空,無量無辺,色像端正,相好荘厳,無量光明,無量音声,聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身,非生死人所得見。常出種種身,種種名号,種種生処,種種方便度衆生;常度一切,無須臾息時。如是法性身仏,能度十方衆生。受諸罪報者,是生身仏;生身仏,次第説法如人法。以有二種仏故,受諸罪無咎。」
この中で重要なのは、「聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身」。
ここになります。
「法を聴く衆生もまた虚空に満ちてあり、この衆生もまた法性身である。」
様々な方便のはたらき(方便法身)により衆生を法性法身と化していくありようが説かれてあり、自らの方便法身と法性法身のありようと共に、教化した衆生もまた法性法身であるとして同一同体(同化)させていくと解釈することのできるここが要となります。
そして、大智度論で説かれる「法性説」が、そのまま「一如宝海論」へと繋がってくるところとなります。
それはまた別に考察することにしますが、その「法性説」の親鸞聖人の解釈は、やはり本覚思想的な枠内で留まってしまったために、最後は一気に自力修行無用論へと傾斜することになってしまいました。
そして、「八十華厳」の下記の「発心」を「信心」とすり替える論理により、一如宝海成仏論を展開していくことになったのだと思われるのであります。
「以是発心。即得仏故。応知此人即与三世諸仏同等。即与三世諸仏如来境界平等。即与三世諸仏如来功徳平等。得如来一身無量身究竟平等真実智慧。纔発心時。即為十方一切諸仏。所共称嘆。」
要は、阿弥陀如来の法性法身からの方便法身のはたらきとなる報身阿弥陀仏、応身釈迦仏の教え、名号をいただくことになる衆生も、法性身そのものになるということで、そのためには、一応は輪廻(生死)からは離れての一如宝海への往生の必要性が説かれることになり、その往生に「信心」を必要としたのであります。
その「信心」を「八十華厳」の「発心」と同じようなものと解釈した上で、それ以外は雑修、雑行、雑善としたのであります。
まあ、八十華厳よりも、大品般若経・往生品の方がその意図としてはより近いのかもしれません。
下記の初発意を信心として、ということです。
「有菩薩摩訶薩 初発意時 即得阿耨多羅三藐三菩提 転法輪 与無量阿僧祇衆生 作益厚 已入無余涅槃」
こちらの方が法性と方便の二種法身を同時に得られるものとして捉えやすいですし、還相回向の説明としてもすっきりとしやすくなります。
また、大智度論においては、色々な三昧についても説明がなされる中で、首楞厳三昧は、初発心の菩薩による方便法身三昧であるとして、その菩薩は、ナント、法身も既に備わってあるものと説明されているのであります。
初発心の菩薩にです。
この初発心を信心と置き換えれば、そのまま、「信心の獲得」=「方便法身と法性法身の二種法身の獲得」と言えることに。更に還相回向のあり方についても説明がつくことになるのであります。
お念仏で極楽浄土へ行くものだと思っていました、との方が、門徒さんでも意外に多い。
それは教学的には間違いになりますが、ただ、方便的に用いる場合はあるでしょう。
昨日にも述べたように、極楽浄土は、自力聖道門の行者の往生先の一つであり、往生の目的は、阿弥陀如来との見仏、授記になります。
しかし、通仏教的には如来の報身仏との見仏、授記は、菩薩の第八地以上の境地が必要となります。
第八地に至っていない行者でも極楽浄土に往生できるかどうかは、ある程度の功徳行を前提として、阿弥陀如来の本願力を頂くことにより可となる可能性はあると言えますが、それより極楽浄土でも阿弥陀如来の化身化土上に赴ける可能性の方が極めて高く、そちらで仏道修行を進めることになり、更に境地を上げることで、やがて報身仏との見仏、授記に段階として至れると考える方が妥当であると思われるのであります。
このことは、以前にも述べてあります。
また、極楽浄土にも、その広大な中には娑婆と同様に六道もあると考えておかないといけないでしょう。要は、極楽浄土にも地獄はあるということです。
娑婆との違いとしては、見仏と授記が可能となる如来の在世と、阿弥陀如来の本願力が娑婆よりも強くはたらいてある世界であるため、仏縁に与れる、阿弥陀如来の(応身を含めた)教化に与れる可能性は極めて高く、また、報土における多くの菩薩や聖者方による導きも期待できるため、仏道のスピードは娑婆よりも早く進めることができるであろうとは思われるのであります。
ですから、極楽浄土は、浄土門の宗派はもちろんながら、日本でも、天台、臨済、昔の曹洞と、あと、チベット仏教や中国仏教、台湾仏教、韓国仏教でも、在家の葬送における引導先として、最も多いのであります。
しかし、いずれにしても無条件に往生できるものではなく、一定の要件、善根、功徳が必要となるのであります。
葬送の儀軌によりそれをある程度カバーすることにはなりますが、故人の集積してある功徳が足りない場合には、遺族、縁故者によって、功徳を補助する追善供養がやはり欠かせないものになると考えておかないといけないでしょう。
話を戻して、浄土真宗における葬送先、往生先は、上記のような極楽浄土ではないということであります。
目指すべき葬送先、往生先は、阿弥陀如来の法性法身のある「自然の浄土」、「一如宝海」となるのであります。
この点をしっかりと理解していないと、自力聖道門との相違がどこにあるのかが分からなくなってしまうおそれがあるため、非常に注意が必要となるのであります。
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「極楽浄土と自然の浄土について」
「自然の浄土」とは、「一如宝海」とほぼ同意になると思われるのだが、もちろん、阿弥陀如来の報身報土である「極楽浄土」を示すものではない。
極楽浄土は、正確には、阿弥陀如来の方便法身の浄土と言えるところになる。
では、一如宝海は、阿弥陀如来の法性法身の浄土であるのか、となれば、限りなく近いのだが、厳密にはイコールではない。
この「厳密にはイコールではない」が実は極めて重要なのである。
また、娑婆世界は、浄土か穢土かとなれば、阿弥陀如来の方便法身、真実功徳円満の「名号」が届いてある世界として、極楽浄土と同じく、阿弥陀如来の方便法身の浄土と考えることになるのである。
もちろん、教義的には、娑婆世界から極楽浄土を経由するまでもなく、自然の浄土、一如宝海への往生が求められるところであり、そのためには、信心獲得、信心決定が一大事となるのだが、親鸞聖人の二種法身論、二種回向論を正確に理解していないと、自然の浄土への往生の理解は、かなり難しいものとなります。
つまり、まだ、あそこを極楽浄土としていたのであれば、経由地への往生として、自力的な要素をある程度、敢行推奨するのも、正直なところ百歩譲って認められる余地があったのではあります。拙的には。
しかし、「自然の浄土」と表記してしまった以上は、もはや後半は蛇足どころか、完全に教義的にはアウトとなってしまったのであります。
まあ、これはあくまでも教学論としての投稿ですので、どれのどこがとはもちろん申しませんが、、
また、かなり前の拙論にても述べたように、極楽浄土は、自力聖道行者においても往生先の一つであり、自力他力の両方が混ざってある行者においても往生先の一つとなるが、絶対他力行者の往生先とはやはり違うことになるのであります。
阿弥陀経にあるように基本的に善根少ない者は、極楽浄土に往生できません。
つまり、一定の功徳行が前提であり、それはもちろん自力聖道行となるのであります。
ゆえに、極楽浄土への往生を説くのであれば、道徳、善行、功徳行を勧めても全くもって何ら矛盾はないのであり、また、通仏教的な悟りへと向けた見仏と授記に向けて、ごくごくそれは当たり前のことになります。
問題は、自然の浄土、一如宝海への往生についてであります。
こちらへの往生を説くのであれば、残念ながら絶対他力へと向けて、一切の自力的な要素は微塵も認められる余地はなくなるのであり、もちろん、見仏、授記も必要にはならないため、他浄土への往生も不必要となります。
自然の浄土、一如宝海への往生へと向けて説かれたのが、親鸞聖人の教えの要諦であり、もちろん難儀至極ではあるものの、教義的にはこちらを優位優先して説き示して、教化していくことを目指さなければならないのであります。
ですから、あれを草稿した者は、明らかに「自然の浄土」とは何かを全く理解していないと言えるということでも問題なのであります。
あれは何かはもちろん言いませんし、これはあくまでも教学論としてのことになりますので、ご寛恕下さい。
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親鸞聖人の特殊と言える二種法身、二種回向の理論的根拠は、大智度論にあることを先に述べていますが、最後に釈摩訶衍論の性徳円満海と親鸞聖人の一如宝海論の比較検討について扱っていた中で、西本願寺さんの新領解文についての見解を聞かれたことから、しばらくそちらのことが主になってしまっていました。
大乗起信論は本覚思想を扱い、その派生としての釈摩訶衍論は、大智度論と同様に龍樹造と仮託されたものではありましたが、親鸞聖人は全く重きを置かれませんでした。もちろん、天台自体が釈論を教学から外したため、当然となります。
問題は、一如宝海は阿弥陀如来の法身であるのか、それ以外のものであるのか、というところであります。
特に一如宝海は、衆生が二種法身を得る、つまり、成仏するところとなります。
その成仏の根拠はもちろん阿弥陀如来の法身のはたらき、いわゆる本願のはたらきとなるのですが、このように考えると、一如宝海への往生にて阿弥陀如来の法身と自分の法身、他のたくさんの衆生の法身も共にあるような、いわゆる混在した状態となります。そこから還相として各自の方便法身のありようが示現することにもなるのですが、果たしてそのような事態が可能かどうかを考えなければならないということになります。
一如宝海論の理論的根拠は大智度論に見出だせるのは確実ではありますが、もう少し突き詰めなければならないと考えています。
本覚思想ならば、当然に大乗起信論、釈摩訶衍論からすぐに見出だせたであろうと思うのですが、そうではないため、複雑さが増すのであります。
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釈摩訶衍論の不二摩訶衍・性徳円満海、金剛三昧経の仏菩提薩般若海、親鸞聖人の一如宝海。
これら海論における焦点は、この「海」の性質が、もしも、悟り、法身、真如、般若、般若波羅蜜多、阿耨多羅三藐三菩提であるとするのであれば、そこから迷い苦しむ衆生が生じるということはありえないものとなります。
迷い→悟りへの過程はあっても、悟り→迷いへの過程はありえないもので、「海」を悟り、法身、真如、般若、般若波羅蜜多、阿耨多羅三藐三菩提として、全てがそこを元に生じるものだとするならば、悟りから無明(による迷い苦しむ衆生)が生じるということになってしまいます。これはありえないことです。
ですから、性徳円満海、仏菩提薩般若海、一如宝海も、仏の法身の世界であると考えるならば、そこから無明(による迷い苦しむ衆生)が生じることはもちろんないのであります。
それよりも、仏の色身、報身、応身、または方便法身など、仏の智慧と慈悲のはたらきを有するものであるならば生じることになります。まさか迷い苦しむ衆生がそこから生じる余地など微塵もないのであります。
もちろん、仏も衆生も、もとの生じる根源は同じところからにはなります。宇宙誕生のビッグバンのように、この世に物質、現象を生み出した大元のようなものです。
特に物質、現象を生み出す根源は、中立、無記なものとして展開していくものとなります。ただ、ビッグバンも無から発生したものではなく、その前の因縁もあるため、ビッグバンがその根源とは言い得ないのではありますが。まあ、無始なるところからということなのであります。
いずれにしても、性徳円満海、仏菩提薩般若海、一如宝海も、想定されてあるのは、仏の法身であり、その無始なる根源というものではないと考えるのであります。
では、一体、仏性とか、如来蔵とか、阿摩羅識とかは何であるのかということが本覚思想においても問題となるのですが、これは、仏にも衆生にも有してある、つまり、有情なる者、有情だった者(仏)であれば皆、有している「知る力」の根源のことで、いわゆる密教でいうところの「心の光明」のこととなります。これは、もちろん中立、無記な力であります。
そして、有情は皆、悟るための知る力である、この心の光明を有してはいるものの、その知る力を正しく育てて悟りへと至れるかどうかは、いずれにしてもそれぞれの業次第になるということなのであります。
仏性、如来蔵、阿摩羅識とは、この「心の光明」のことなのであります。
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釈摩訶衍論における不二摩訶衍の説明で出てくる「因縁無」は、般若経、大智度論や宝性論、涅槃経などに出てくる悟り、解脱、涅槃、第一義諦は「因縁無」と説かれてあることと同じ事態を示すのではないかと思われるかもしれません。
実は相当前の拙論では、一切が空ならば、各個物は実体としてあるわけではないため、そもそも各個物がいったい何であるのかなど、元から分かりようがなく、つまり、どうやっても分別して区切りようもないし、示しようもない、当然に、因、縁、果も実体としてあるわけでないため、何が因、何が縁、何が果さえも示しようがないため、「因縁無」であると言えるとしていたわけです。
要は、空=勝義諦、縁起=世俗諦という図式の理解においては、確かに勝義諦では「因縁無」として、般若経、大智度論、宝性論や涅槃経のように説明されるわけですが、真なるところは、空と縁起は切り離せるものではなく、表裏一体、相即関係、不一不異であって、「空=勝義諦、縁起=世俗諦」という単純な図式での理解は間違いとなるのであります。
このことを明らかとして、正したのがツォンカパ大師であります。
また、覚者による認識のありようからは、「因縁無」として表現できることがあるとしても、私たち凡夫において、そうではないということになります。このあたりのことも覚者における離戯論の議論から、両者の認識のあり方の相違を理解することが必要となるのであります。
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では、大乗起信論における「水と波の喩え」における「風」は何の喩えとなるのか?
「風」を衆生と解釈する場合もありますが、風はあくまでも波を起こす原因となるものであり、それが無明、虚妄分別、煩悩障、所知障で、その風による波の状態にあるのが、衆生であって、もう少し詳しく述べるのであれば、その衆生の心のありようを表すものと考えると分かりやすくなります。
風が止み、波が収まれば、それで元々の真如、第一義諦、法身、般若そのままの揺らぎのない水の状態になるということであり、皆、衆生は元々、悟りの状態にある、悟りの状態を有しているものとして、大乗起信論は本覚思想として位置付けられるものとなるのであります。
しかし、そんな風が吹いたぐらいで、つまり、無明や虚妄分別によって簡単に揺らぎ惑わされるものが、真如、第一義諦、法身、般若なわけがないのであります。
それよりも拙見解のように認識する知のありようの問題と考える方がまだ理解ができるのではないだろうかと思うのであります。
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もちろん、釈論の性徳円満海論が、一切衆生の自利利他功徳の円満するところ、全てのものたちの法性法身と方便法身の円満具足するところと捉えられるならば、まさに親鸞聖人の一如宝海論と同意として考えられなくはないのですが、釈論の意図がそうであれば、不二摩訶衍を再考することで、性徳円満海の意図するところをより明確にできるのかもしれません。
それには、大乗起信論周辺における真如の議論を見直すことが必要となります。
その真如の議論の中で、最も気になるのが、やはり「水と波の喩え」です。
これは大乗起信論周辺域において、「水」=「真如」、「波」=「衆生」という理解がオーソドックスなものとなります。
そして、「水」は、仏の智慧の法身、第一義諦、般若、真如と解されるところとなりますが、以前の拙考の「大乗起信論における二分依他性」の中で、『風が立ち、波が起こると、底が見えなくなるありようが、虚妄分別による汚れた知のありようを示し、風が止み、波も止めば、底が見えるようになるありようが、真如による浄らかなる知のありようを示すということであります。もちろん、波が起ころうが起こるまいが、水は水として何ら元々汚れもなく、浄らかなる本体として、真理を知る真如そのままの知があるとするのであり、それを如来蔵と言うわけなのであります。』としていますが、本来の「水と波の喩え」は、拙解説とは少し違ったもので、波が静まろうが、そうでなくても、「本体」の「水」は「水」である、つまり、「真如」であるとするのであります。(本覚思想)
しかし、これなら、仏の智慧の法身、第一義諦、般若、真如から「波」としての迷い苦しむ衆生が生じていることになり、そんなことがあるはずがないのであります。
つまり、大乗起信論周辺におけるオーソドックスな「水」=「真如」、「波」=「衆生」という本覚思想的な理解からでは、一如宝海、性徳円満海も、そこから仏の方便法身、法性法身だけではなく、迷い苦しむ衆生も生じることになってしまうという、おかしなことになるのであります。
そういった意味でも、まず、大乗起信論周辺域における「真如」とは両者ともに性質が異なるものと考えることができますが、もしも、当然に大乗起信論周辺域の議論から発展した性徳円満海は、迷い苦しむ衆生もそこから生じるものと考えるとすれば、そこで両者の違いは明確になるわけです。
このあたりを精査し直す必要性があるのであります。
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親鸞聖人の一如宝海論は、釈摩訶衍論の性徳円満海と同じだと主張される方の論拠は、一念多念文意における「一実真如の妙理、円満せるがゆへに、大宝海にたとえたまうなり。」と、自利利他功徳の円満を表すもので、釈論の性徳円満海、その名称そのままで、功徳性の円満、法性、方便の二種法身そのもののはたらきの根源とするものと考えられるということである。
なるほど、確かに字義通りに捉えるならば、まさにそのようになるとは思われます。
ただ、それはあくまでも仏の智慧と慈悲の根源としてであって、釈論の不二摩訶衍としての性徳円満海とはやや性質を異にするのではないだろうかというのが、拙見解となります。
問題は、親鸞聖人が、「宝海とまふすは、よろづの衆生をきらはず、さわりなく、へだてず、みちびきたまふを、大海のみづのへだてなきにたとへたまへるなり。」として、仏(阿弥陀如来)の根源どころか、衆生がさわりなく成仏して二種法身を得れるはたらきのあるところ(衆生の自利利他功徳が円満するところでもある)と示しているのであります。
この点で、やはり、釈論の性徳円満海とは根本的に違うと考えるのであります。
もしかすると一如宝海論のヒントは、釈論の性徳円満海にあったのかもしれませんが、、
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親鸞聖人の一如宝海論は、釈摩訶衍論の不二摩訶衍としての性徳円満海論と同じであるという意見を頂いた。
要は、一如宝海と性徳円満海、それらは方便法身を生じさせる基としての法性法身と捉えるのか、それとも、法性法身と方便法身の両方を生じさせる基と捉えるか、そういう議論となります。
ただ、性徳円満海の海は、仏だけではなく、一切全てを生み出す根源的な意味合いで用いられていると思われる節が釈論の雰囲気としてはあるのですよね。つまり、仏の法性法身ではないということです。
いずれにしても、親鸞聖人の場合は、阿弥陀如来(の法性法身)一尊を絶対視するため(あとの諸仏諸仏説も方便法身としての従果降因的な扱いとなる)、この点で既に一如宝海と性徳円満海は同じではないと拙的には思うのであります。
もちろん、性徳円満海のイメージの典拠とされる金剛三昧経の「仏菩提薩般若海」、これは明らかに仏の悟りの根源としての般若、つまり、智慧としての法性法身そのものが想定されるものではあります。
もしくは徳の円満として、功徳性法身、つまり、方便法身とも捉えられなくもないのですが、智慧より功徳が先行重視されることは難しいので、この線も無いかなとは思うのですよね。
不二摩訶衍とは何かということとダイレクトに繋がるのですが、イメージ的には、宇宙のビッグバン諸元的なものでしょうか。
万物の根源的な。
ただ、いずれにしても不二摩訶衍について釈論の説明で出てくる「因縁無」がかなり引っかかるのですよね。
縁起するものに例外が無い、つまり、縁起以外によるものは無いというのが空の思想でもありますから、ビッグバンもやはり因縁によるものなので、そのイメージも違うのかとは思いますが。。
まあ、本当に龍樹が著したものであるならば、「因縁無」(逆説的な意味での説明であったとしても)とはここで書かないと思われますので、釈論の龍樹真作の線はやはり薄いと思われるのではあります。
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では、次に、親鸞聖人の一如宝海論は、大智度論のどこに見出すことができるのかというと、般若経系においてもよく出てくる表現とも重なりますが、それぞれ異なってある個々の雨水は、やがて川に集まり、海に入って一つに溶け込む、そのようなありようのことからヒントを得られた可能性が高くあります。
雨水=衆生、大海=阿弥陀如来の法性法身(自然の浄土)というわけです。
巻92
「菩提名諸法實相,是諸佛所得究竟實相,無有變異。一切法入菩提中,皆寂滅相;如一切水入大海,同為一味」
巻67
「若菩薩於一切法不分別是法、是非法,悉皆是法;如大海水,百川萬流,皆合一味。爾時修般若波羅蜜具足」
巻32
「如水性下流故會歸於海,合為一味;諸法亦如是,一切總相、別相皆歸法性,同為一相,是名法性」
巻35「諸法如,入法性中無有別異;如火各各不同,而滅相無異。譬如眾川萬流,各各異色異味,入於大海,同為一味一名;如是愚癡、智慧,入於般若波羅蜜中,皆同一味、無有差別」
巻59
「至般若波羅蜜中,皆一相無有差別。譬如閻浮提阿那婆達多池,四大河流,一大河有五百小川歸之,俱入大海,則失其本名,合為一味,無有別異。又如樹木,枝葉華果,眾色別異,蔭則無別。」
まだ他にも同様の表現が数か所散見されますが、雨水=衆生、大海=阿弥陀如来の法性法身(自然の浄土)として、阿弥陀如来の法性法身へと一味に溶け込むことによって、法性と方便の二種法身を得れて成仏することになると想定されてあるのであります。
しかし、大智度論では、親鸞聖人の想定されてあるように、ただ、阿弥陀如来の法性法身、自然の浄土へと溶け込むことで悟りへと至れる、成仏できる、二種法身を得れるとするのかとなれば、そうではないのであります。
特に重要となる諸法実相、法性、実際と衆生は異なるのか、異ならないのかという議論では、明確に一ではないとしているのであります。
もちろん、さりとて、二でもないし、一でないのでもなく、二でないのでもないとして四句分別という立場を取り、「畢竟寂滅 無戯論相」としています。
このあたりは中論の内容、仏の認識論と我々凡夫の認識論の違いが、当然に意識されているのであります。
また、大智度論では、自力修行、六波羅蜜等も否定されるものではなく、初発心の菩薩の立場についても、それなりの修養を終えてあるかなり境地の高い菩薩が想定されています。
この初発心は、よく誤解される仏道修行者が最初に発心する発菩提心の意ではなく、菩薩階梯の十地の内の第八地、不動地におけるいよいよ衆生を救わんとしての大慈悲心の発願とするのが、やはり基本的な立場となるのであります。
このように両者の立場には大きな違いがあるわけですが、親鸞聖人は、悟り、成仏は、阿弥陀如来の法性法身へと一味に溶け込むことにより達成されるとして、そのための信心獲得のみにおいて全て事足りるとされたのであります。
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親鸞聖人の一如宝海論の依拠する経典、論書を調べていたところ、これかもというのをやっと見つけることができました。
ヒントは釈摩訶衍論の不二摩訶衍について考究する中にありました。
釈論ではありませんが、やはり同じく龍樹に仮託された論書。
ちなみに十住毘婆沙論ではなく、龍樹に仮託された論書となれば、あともう一つとなる「大智度論」です。
親鸞聖人の還相回向論、従果還因論の根拠、二種法身論の根拠もおそらくそれになるのだろうと思われます。
親鸞聖人は、曇鸞の「論註」や道綽の「安楽集」から二種回向や二種法身の論を引いては来ているものの、その解釈は、曇鸞や道綽とは全く異なるものになっていることに、ずっと違和感がありました。
その謎がやっと解けた感じであります。
それは、まず、大智度論の仏身論が説かれてある有名な箇所になります。
大智度論巻第九
「復次,仏有二種身:一者、法性身,二者、父母生身。是法性身満十方虚空,無量無辺,色像端正,相好荘厳,無量光明,無量音声,聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身,非生死人所得見。常出種種身,種種名号,種種生処,種種方便度衆生;常度一切,無須臾息時。如是法性身仏,能度十方衆生。受諸罪報者,是生身仏;生身仏,次第説法如人法。以有二種仏故,受諸罪無咎。」
この中で重要なのは、「聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身」。
ここになります。
「法を聴く衆生もまた虚空に満ちてあり、この衆生もまた法性身である。」
様々な方便のはたらき(方便法身)により衆生を法性法身と化していくありようが説かれてあり、自らの方便法身と法性法身のありようと共に、教化した衆生もまた法性法身であるとして同一同体(同化)させていくと解釈することのできるここが要となります。
そして、大智度論で説かれる「法性説」が、そのまま「一如宝海論」へと繋がってくるところとなります。
それはまた別に考察することにしますが、その「法性説」の親鸞聖人の解釈は、やはり本覚思想的な枠内で留まってしまったために、最後は一気に自力修行無用論へと傾斜することになってしまいました。
そして、「八十華厳」の下記の「発心」を「信心」とすり替える論理により、一如宝海成仏論を展開していくことになったのだと思われるのであります。
「以是発心。即得仏故。応知此人即与三世諸仏同等。即与三世諸仏如来境界平等。即与三世諸仏如来功徳平等。得如来一身無量身究竟平等真実智慧。纔発心時。即為十方一切諸仏。所共称嘆。」
要は、阿弥陀如来の法性法身からの方便法身のはたらきとなる報身阿弥陀仏、応身釈迦仏の教え、名号をいただくことになる衆生も、法性身そのものになるということで、そのためには、一応は輪廻(生死)からは離れての一如宝海への往生の必要性が説かれることになり、その往生に「信心」を必要としたのであります。
その「信心」を「八十華厳」の「発心」と同じようなものと解釈した上で、それ以外は雑修、雑行、雑善としたのであります。
まあ、八十華厳よりも、大品般若経・往生品の方がその意図としてはより近いのかもしれません。
下記の初発意を信心として、ということです。
「有菩薩摩訶薩 初発意時 即得阿耨多羅三藐三菩提 転法輪 与無量阿僧祇衆生 作益厚 已入無余涅槃」
こちらの方が法性と方便の二種法身を同時に得られるものとして捉えやすいですし、還相回向の説明としてもすっきりとしやすくなります。
また、大智度論においては、色々な三昧についても説明がなされる中で、首楞厳三昧は、初発心の菩薩による方便法身三昧であるとして、その菩薩は、ナント、法身も既に備わってあるものと説明されているのであります。
初発心の菩薩にです。
この初発心を信心と置き換えれば、そのまま、「信心の獲得」=「方便法身と法性法身の二種法身の獲得」と言えることに。更に還相回向のあり方についても説明がつくことになるのであります。