釈摩訶衍論の不二摩訶衍・性徳円満海、金剛三昧経の仏菩提薩般若海、親鸞聖人の一如宝海。
これら海論における焦点は、この「海」の性質が、もしも、悟り、法身、真如、般若、般若波羅蜜多、阿耨多羅三藐三菩提であるとするのであれば、そこから迷い苦しむ衆生が生じるということはありえないものとなります。
迷い→悟りへの過程はあっても、悟り→迷いへの過程はありえないもので、「海」を悟り、法身、真如、般若、般若波羅蜜多、阿耨多羅三藐三菩提として、全てがそこを元に生じるものだとするならば、悟りから無明(による迷い苦しむ衆生)が生じるということになってしまいます。これはありえないことです。
ですから、性徳円満海、仏菩提薩般若海、一如宝海も、仏の法身の世界であると考えるならば、そこから無明(による迷い苦しむ衆生)が生じることはもちろんないのであります。
それよりも、仏の色身、報身、応身、または方便法身など、仏の智慧と慈悲のはたらきを有するものであるならば生じることになります。まさか迷い苦しむ衆生がそこから生じる余地など微塵もないのであります。
もちろん、仏も衆生も、もとの生じる根源は同じところからにはなります。宇宙誕生のビッグバンのように、この世に物質、現象を生み出した大元のようなものです。
特に物質、現象を生み出す根源は、中立、無記なものとして展開していくものとなります。ただ、ビッグバンも無から発生したものではなく、その前の因縁もあるため、ビッグバンがその根源とは言い得ないのではありますが。まあ、無始なるところからということなのであります。
いずれにしても、性徳円満海、仏菩提薩般若海、一如宝海も、想定されてあるのは、仏の法身であり、その無始なる根源というものではないと考えるのであります。
では、一体、仏性とか、如来蔵とか、阿摩羅識とかは何であるのかということが本覚思想においても問題となるのですが、これは、仏にも衆生にも有してある、つまり、有情なる者、有情だった者(仏)であれば皆、有している「知る力」の根源のことで、いわゆる密教でいうところの「心の光明」のこととなります。これは、もちろん中立、無記な力であります。
そして、有情は皆、悟るための知る力である、この心の光明を有してはいるものの、その知る力を正しく育てて悟りへと至れるかどうかは、いずれにしてもそれぞれの業次第になるということなのであります。
仏性、如来蔵、阿摩羅識とは、この「心の光明」のことなのであります。
これら海論における焦点は、この「海」の性質が、もしも、悟り、法身、真如、般若、般若波羅蜜多、阿耨多羅三藐三菩提であるとするのであれば、そこから迷い苦しむ衆生が生じるということはありえないものとなります。
迷い→悟りへの過程はあっても、悟り→迷いへの過程はありえないもので、「海」を悟り、法身、真如、般若、般若波羅蜜多、阿耨多羅三藐三菩提として、全てがそこを元に生じるものだとするならば、悟りから無明(による迷い苦しむ衆生)が生じるということになってしまいます。これはありえないことです。
ですから、性徳円満海、仏菩提薩般若海、一如宝海も、仏の法身の世界であると考えるならば、そこから無明(による迷い苦しむ衆生)が生じることはもちろんないのであります。
それよりも、仏の色身、報身、応身、または方便法身など、仏の智慧と慈悲のはたらきを有するものであるならば生じることになります。まさか迷い苦しむ衆生がそこから生じる余地など微塵もないのであります。
もちろん、仏も衆生も、もとの生じる根源は同じところからにはなります。宇宙誕生のビッグバンのように、この世に物質、現象を生み出した大元のようなものです。
特に物質、現象を生み出す根源は、中立、無記なものとして展開していくものとなります。ただ、ビッグバンも無から発生したものではなく、その前の因縁もあるため、ビッグバンがその根源とは言い得ないのではありますが。まあ、無始なるところからということなのであります。
いずれにしても、性徳円満海、仏菩提薩般若海、一如宝海も、想定されてあるのは、仏の法身であり、その無始なる根源というものではないと考えるのであります。
では、一体、仏性とか、如来蔵とか、阿摩羅識とかは何であるのかということが本覚思想においても問題となるのですが、これは、仏にも衆生にも有してある、つまり、有情なる者、有情だった者(仏)であれば皆、有している「知る力」の根源のことで、いわゆる密教でいうところの「心の光明」のこととなります。これは、もちろん中立、無記な力であります。
そして、有情は皆、悟るための知る力である、この心の光明を有してはいるものの、その知る力を正しく育てて悟りへと至れるかどうかは、いずれにしてもそれぞれの業次第になるということなのであります。
仏性、如来蔵、阿摩羅識とは、この「心の光明」のことなのであります。