日記

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親鸞聖人の一如宝海論と釈摩訶衍論の性徳円満海論について・4

2023年03月04日 | ブログ
では、大乗起信論における「水と波の喩え」における「風」は何の喩えとなるのか?

「風」を衆生と解釈する場合もありますが、風はあくまでも波を起こす原因となるものであり、それが無明、虚妄分別、煩悩障、所知障で、その風による波の状態にあるのが、衆生であって、もう少し詳しく述べるのであれば、その衆生の心のありようを表すものと考えると分かりやすくなります。

風が止み、波が収まれば、それで元々の真如、第一義諦、法身、般若そのままの揺らぎのない水の状態になるということであり、皆、衆生は元々、悟りの状態にある、悟りの状態を有しているものとして、大乗起信論は本覚思想として位置付けられるものとなるのであります。

しかし、そんな風が吹いたぐらいで、つまり、無明や虚妄分別によって簡単に揺らぎ惑わされるものが、真如、第一義諦、法身、般若なわけがないのであります。

それよりも拙見解のように認識する知のありようの問題と考える方がまだ理解ができるのではないだろうかと思うのであります。

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もちろん、釈論の性徳円満海論が、一切衆生の自利利他功徳の円満するところ、全てのものたちの法性法身と方便法身の円満具足するところと捉えられるならば、まさに親鸞聖人の一如宝海論と同意として考えられなくはないのですが、釈論の意図がそうであれば、不二摩訶衍を再考することで、性徳円満海の意図するところをより明確にできるのかもしれません。

それには、大乗起信論周辺における真如の議論を見直すことが必要となります。

その真如の議論の中で、最も気になるのが、やはり「水と波の喩え」です。

これは大乗起信論周辺域において、「水」=「真如」、「波」=「衆生」という理解がオーソドックスなものとなります。

そして、「水」は、仏の智慧の法身、第一義諦、般若、真如と解されるところとなりますが、以前の拙考の「大乗起信論における二分依他性」の中で、『風が立ち、波が起こると、底が見えなくなるありようが、虚妄分別による汚れた知のありようを示し、風が止み、波も止めば、底が見えるようになるありようが、真如による浄らかなる知のありようを示すということであります。もちろん、波が起ころうが起こるまいが、水は水として何ら元々汚れもなく、浄らかなる本体として、真理を知る真如そのままの知があるとするのであり、それを如来蔵と言うわけなのであります。』としていますが、本来の「水と波の喩え」は、拙解説とは少し違ったもので、波が静まろうが、そうでなくても、「本体」の「水」は「水」である、つまり、「真如」であるとするのであります。(本覚思想)

しかし、これなら、仏の智慧の法身、第一義諦、般若、真如から「波」としての迷い苦しむ衆生が生じていることになり、そんなことがあるはずがないのであります。

つまり、大乗起信論周辺におけるオーソドックスな「水」=「真如」、「波」=「衆生」という本覚思想的な理解からでは、一如宝海、性徳円満海も、そこから仏の方便法身、法性法身だけではなく、迷い苦しむ衆生も生じることになってしまうという、おかしなことになるのであります。

そういった意味でも、まず、大乗起信論周辺域における「真如」とは両者ともに性質が異なるものと考えることができますが、もしも、当然に大乗起信論周辺域の議論から発展した性徳円満海は、迷い苦しむ衆生もそこから生じるものと考えるとすれば、そこで両者の違いは明確になるわけです。

このあたりを精査し直す必要性があるのであります。

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親鸞聖人の一如宝海論は、釈摩訶衍論の性徳円満海と同じだと主張される方の論拠は、一念多念文意における「一実真如の妙理、円満せるがゆへに、大宝海にたとえたまうなり。」と、自利利他功徳の円満を表すもので、釈論の性徳円満海、その名称そのままで、功徳性の円満、法性、方便の二種法身そのもののはたらきの根源とするものと考えられるということである。

なるほど、確かに字義通りに捉えるならば、まさにそのようになるとは思われます。

ただ、それはあくまでも仏の智慧と慈悲の根源としてであって、釈論の不二摩訶衍としての性徳円満海とはやや性質を異にするのではないだろうかというのが、拙見解となります。

問題は、親鸞聖人が、「宝海とまふすは、よろづの衆生をきらはず、さわりなく、へだてず、みちびきたまふを、大海のみづのへだてなきにたとへたまへるなり。」として、仏(阿弥陀如来)の根源どころか、衆生がさわりなく成仏して二種法身を得れるはたらきのあるところ(衆生の自利利他功徳が円満するところでもある)と示しているのであります。

この点で、やはり、釈論の性徳円満海とは根本的に違うと考えるのであります。

もしかすると一如宝海論のヒントは、釈論の性徳円満海にあったのかもしれませんが、、

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親鸞聖人の一如宝海論は、釈摩訶衍論の不二摩訶衍としての性徳円満海論と同じであるという意見を頂いた。

要は、一如宝海と性徳円満海、それらは方便法身を生じさせる基としての法性法身と捉えるのか、それとも、法性法身と方便法身の両方を生じさせる基と捉えるか、そういう議論となります。

ただ、性徳円満海の海は、仏だけではなく、一切全てを生み出す根源的な意味合いで用いられていると思われる節が釈論の雰囲気としてはあるのですよね。つまり、仏の法性法身ではないということです。

いずれにしても、親鸞聖人の場合は、阿弥陀如来(の法性法身)一尊を絶対視するため(あとの諸仏諸仏説も方便法身としての従果降因的な扱いとなる)、この点で既に一如宝海と性徳円満海は同じではないと拙的には思うのであります。

もちろん、性徳円満海のイメージの典拠とされる金剛三昧経の「仏菩提薩般若海」、これは明らかに仏の悟りの根源としての般若、つまり、智慧としての法性法身そのものが想定されるものではあります。

もしくは徳の円満として、功徳性法身、つまり、方便法身とも捉えられなくもないのですが、智慧より功徳が先行重視されることは難しいので、この線も無いかなとは思うのですよね。

不二摩訶衍とは何かということとダイレクトに繋がるのですが、イメージ的には、宇宙のビッグバン諸元的なものでしょうか。
万物の根源的な。

ただ、いずれにしても不二摩訶衍について釈論の説明で出てくる「因縁無」がかなり引っかかるのですよね。

縁起するものに例外が無い、つまり、縁起以外によるものは無いというのが空の思想でもありますから、ビッグバンもやはり因縁によるものなので、そのイメージも違うのかとは思いますが。。

まあ、本当に龍樹が著したものであるならば、「因縁無」(逆説的な意味での説明であったとしても)とはここで書かないと思われますので、釈論の龍樹真作の線はやはり薄いと思われるのではあります。

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では、次に、親鸞聖人の一如宝海論は、大智度論のどこに見出すことができるのかというと、般若経系においてもよく出てくる表現とも重なりますが、それぞれ異なってある個々の雨水は、やがて川に集まり、海に入って一つに溶け込む、そのようなありようのことからヒントを得られた可能性が高くあります。

雨水=衆生、大海=阿弥陀如来の法性法身(自然の浄土)というわけです。

巻92
「菩提名諸法實相,是諸佛所得究竟實相,無有變異。一切法入菩提中,皆寂滅相;如一切水入大海,同為一味」

巻67
「若菩薩於一切法不分別是法、是非法,悉皆是法;如大海水,百川萬流,皆合一味。爾時修般若波羅蜜具足」

巻32
「如水性下流故會歸於海,合為一味;諸法亦如是,一切總相、別相皆歸法性,同為一相,是名法性」

巻35「諸法如,入法性中無有別異;如火各各不同,而滅相無異。譬如眾川萬流,各各異色異味,入於大海,同為一味一名;如是愚癡、智慧,入於般若波羅蜜中,皆同一味、無有差別」

巻59
「至般若波羅蜜中,皆一相無有差別。譬如閻浮提阿那婆達多池,四大河流,一大河有五百小川歸之,俱入大海,則失其本名,合為一味,無有別異。又如樹木,枝葉華果,眾色別異,蔭則無別。」

まだ他にも同様の表現が数か所散見されますが、雨水=衆生、大海=阿弥陀如来の法性法身(自然の浄土)として、阿弥陀如来の法性法身へと一味に溶け込むことによって、法性と方便の二種法身を得れて成仏することになると想定されてあるのであります。

しかし、大智度論では、親鸞聖人の想定されてあるように、ただ、阿弥陀如来の法性法身、自然の浄土へと溶け込むことで悟りへと至れる、成仏できる、二種法身を得れるとするのかとなれば、そうではないのであります。

特に重要となる諸法実相、法性、実際と衆生は異なるのか、異ならないのかという議論では、明確に一ではないとしているのであります。

もちろん、さりとて、二でもないし、一でないのでもなく、二でないのでもないとして四句分別という立場を取り、「畢竟寂滅 無戯論相」としています。

このあたりは中論の内容、仏の認識論と我々凡夫の認識論の違いが、当然に意識されているのであります。

また、大智度論では、自力修行、六波羅蜜等も否定されるものではなく、初発心の菩薩の立場についても、それなりの修養を終えてあるかなり境地の高い菩薩が想定されています。

この初発心は、よく誤解される仏道修行者が最初に発心する発菩提心の意ではなく、菩薩階梯の十地の内の第八地、不動地におけるいよいよ衆生を救わんとしての大慈悲心の発願とするのが、やはり基本的な立場となるのであります。

このように両者の立場には大きな違いがあるわけですが、親鸞聖人は、悟り、成仏は、阿弥陀如来の法性法身へと一味に溶け込むことにより達成されるとして、そのための信心獲得のみにおいて全て事足りるとされたのであります。

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親鸞聖人の一如宝海論の依拠する経典、論書を調べていたところ、これかもというのをやっと見つけることができました。

ヒントは釈摩訶衍論の不二摩訶衍について考究する中にありました。

釈論ではありませんが、やはり同じく龍樹に仮託された論書。

ちなみに十住毘婆沙論ではなく、龍樹に仮託された論書となれば、あともう一つとなる「大智度論」です。

親鸞聖人の還相回向論、従果還因論の根拠、二種法身論の根拠もおそらくそれになるのだろうと思われます。

親鸞聖人は、曇鸞の「論註」や道綽の「安楽集」から二種回向や二種法身の論を引いては来ているものの、その解釈は、曇鸞や道綽とは全く異なるものになっていることに、ずっと違和感がありました。

その謎がやっと解けた感じであります。

それは、まず、大智度論の仏身論が説かれてある有名な箇所になります。

大智度論巻第九

「復次,仏有二種身:一者、法性身,二者、父母生身。是法性身満十方虚空,無量無辺,色像端正,相好荘厳,無量光明,無量音声,聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身,非生死人所得見。常出種種身,種種名号,種種生処,種種方便度衆生;常度一切,無須臾息時。如是法性身仏,能度十方衆生。受諸罪報者,是生身仏;生身仏,次第説法如人法。以有二種仏故,受諸罪無咎。」

この中で重要なのは、「聴法衆亦満虚空。此衆亦是法性身」。

ここになります。

「法を聴く衆生もまた虚空に満ちてあり、この衆生もまた法性身である。」

様々な方便のはたらき(方便法身)により衆生を法性法身と化していくありようが説かれてあり、自らの方便法身と法性法身のありようと共に、教化した衆生もまた法性法身であるとして同一同体(同化)させていくと解釈することのできるここが要となります。

そして、大智度論で説かれる「法性説」が、そのまま「一如宝海論」へと繋がってくるところとなります。

それはまた別に考察することにしますが、その「法性説」の親鸞聖人の解釈は、やはり本覚思想的な枠内で留まってしまったために、最後は一気に自力修行無用論へと傾斜することになってしまいました。

そして、「八十華厳」の下記の「発心」を「信心」とすり替える論理により、一如宝海成仏論を展開していくことになったのだと思われるのであります。

「以是発心。即得仏故。応知此人即与三世諸仏同等。即与三世諸仏如来境界平等。即与三世諸仏如来功徳平等。得如来一身無量身究竟平等真実智慧。纔発心時。即為十方一切諸仏。所共称嘆。」

要は、阿弥陀如来の法性法身からの方便法身のはたらきとなる報身阿弥陀仏、応身釈迦仏の教え、名号をいただくことになる衆生も、法性身そのものになるということで、そのためには、一応は輪廻(生死)からは離れての一如宝海への往生の必要性が説かれることになり、その往生に「信心」を必要としたのであります。

その「信心」を「八十華厳」の「発心」と同じようなものと解釈した上で、それ以外は雑修、雑行、雑善としたのであります。

まあ、八十華厳よりも、大品般若経・往生品の方がその意図としてはより近いのかもしれません。

下記の初発意を信心として、ということです。

「有菩薩摩訶薩 初発意時 即得阿耨多羅三藐三菩提 転法輪 与無量阿僧祇衆生 作益厚 已入無余涅槃」

こちらの方が法性と方便の二種法身を同時に得られるものとして捉えやすいですし、還相回向の説明としてもすっきりとしやすくなります。

また、大智度論においては、色々な三昧についても説明がなされる中で、首楞厳三昧は、初発心の菩薩による方便法身三昧であるとして、その菩薩は、ナント、法身も既に備わってあるものと説明されているのであります。

初発心の菩薩にです。

この初発心を信心と置き換えれば、そのまま、「信心の獲得」=「方便法身と法性法身の二種法身の獲得」と言えることに。更に還相回向のあり方についても説明がつくことになるのであります。