元来、煩悩障と、所知障、つまり、無明の習気をも断じてある仏陀は、離戯論のみをご覧になられてあります(戯論寂滅)。
要は、空性の現量了解となります。
この際における世俗のありようは、もちろん縁起的あり方としてそのままなのではあるが、ただ、仏陀の如実智としては、空性の面のみが智に映えられてあるのであります。
まさに虚空のような空性のみしか仏智には映えておられないのであり、この時、世俗のありよう、世俗の顕現の一切は仏陀においては完全に消滅しています。
この悟りによる仏智の空性の認識状態における世俗の顕現の一切の消滅してあるありようを、私たちが勘違いして、世俗も空性であるから悟りだとするのが、煩悩即菩提とか、生死即涅槃という誤った概念となってしまっているのであります。
そもそもこの言葉自体が間違っているのであります。誤解を生む以前に、一切使わないようにした方が良いでしょう。
確かに仏陀の如実智には、世俗は映えてこないとしても、だからといって、世俗は世俗のまま、迷い苦しむ凡夫のありようも、それは縁起的な因果のあり方で、もちろんそのままなのであります。
業を浄化して、無明とその習気を断じない限り、凡夫はそのまま何も変わらずに迷い苦しみ続けていくのであります。
それでは、仏陀はどのようにして世俗のありよう、迷い苦しむ凡夫のありようをご覧になられるのか、ご覧になられなければ、もちろん、世俗の衆生を救済、方便のしようがないのであります。
では、どうご覧になられるのか、それは、仏陀のもう一つの智としての如量智にてご覧になられるのであります。
その如量智においても、仏陀には、我々のように汚れる世俗の顕現はもちろん生じてこないのですが、凡夫に顕れてある汚れた顕現の顕れを、凡夫の知のありようをご覧になられることで、「ああ、そういう顕現になってしまっているのね」としてお知りになられるのであります。
要は、凡夫の汚れた知、無明とその習気による知を介して、世俗のありようをご覧になるのであります。
例えると、どう見ても、その空間には、透明で何もないのに、凡夫の知の鏡には、うじゃうじゃと世俗の顕現が一面にびっしりと写っているという感じです。しかし、その凡夫の知の鏡の後ろにも前にも、ただの透明な空間だけが広がっているという感じです。
つまり、仏陀には、何も顕現してこない、ただの空性の広がりがあるだけで、仏智には当然に何も世俗の顕れは顕れてこないのだが、凡夫の汚れた知には、世俗の顕れがありありと顕れてあるので、それを見て、「ああ、凡夫には、そう見えているのだ」ということで、慈悲の面から対機説法、善巧方便をめぐらされることになるのであります。
もちろん、もともとはご自身も悟る前には汚れた知による汚れた顕現があったのでありますから、その仕組みについては十分にご存知なわけであります。私もそのように見えていたよ。ああ、懐かしいなという感じです。
ですから、凡夫の知に映えてある世俗の顕現のありようから、それをお知りになられるということなのであります。
仏陀は「ご覧にならないという仕方でご覧になる」と言われる所以なのであります。
要は、空性の現量了解となります。
この際における世俗のありようは、もちろん縁起的あり方としてそのままなのではあるが、ただ、仏陀の如実智としては、空性の面のみが智に映えられてあるのであります。
まさに虚空のような空性のみしか仏智には映えておられないのであり、この時、世俗のありよう、世俗の顕現の一切は仏陀においては完全に消滅しています。
この悟りによる仏智の空性の認識状態における世俗の顕現の一切の消滅してあるありようを、私たちが勘違いして、世俗も空性であるから悟りだとするのが、煩悩即菩提とか、生死即涅槃という誤った概念となってしまっているのであります。
そもそもこの言葉自体が間違っているのであります。誤解を生む以前に、一切使わないようにした方が良いでしょう。
確かに仏陀の如実智には、世俗は映えてこないとしても、だからといって、世俗は世俗のまま、迷い苦しむ凡夫のありようも、それは縁起的な因果のあり方で、もちろんそのままなのであります。
業を浄化して、無明とその習気を断じない限り、凡夫はそのまま何も変わらずに迷い苦しみ続けていくのであります。
それでは、仏陀はどのようにして世俗のありよう、迷い苦しむ凡夫のありようをご覧になられるのか、ご覧になられなければ、もちろん、世俗の衆生を救済、方便のしようがないのであります。
では、どうご覧になられるのか、それは、仏陀のもう一つの智としての如量智にてご覧になられるのであります。
その如量智においても、仏陀には、我々のように汚れる世俗の顕現はもちろん生じてこないのですが、凡夫に顕れてある汚れた顕現の顕れを、凡夫の知のありようをご覧になられることで、「ああ、そういう顕現になってしまっているのね」としてお知りになられるのであります。
要は、凡夫の汚れた知、無明とその習気による知を介して、世俗のありようをご覧になるのであります。
例えると、どう見ても、その空間には、透明で何もないのに、凡夫の知の鏡には、うじゃうじゃと世俗の顕現が一面にびっしりと写っているという感じです。しかし、その凡夫の知の鏡の後ろにも前にも、ただの透明な空間だけが広がっているという感じです。
つまり、仏陀には、何も顕現してこない、ただの空性の広がりがあるだけで、仏智には当然に何も世俗の顕れは顕れてこないのだが、凡夫の汚れた知には、世俗の顕れがありありと顕れてあるので、それを見て、「ああ、凡夫には、そう見えているのだ」ということで、慈悲の面から対機説法、善巧方便をめぐらされることになるのであります。
もちろん、もともとはご自身も悟る前には汚れた知による汚れた顕現があったのでありますから、その仕組みについては十分にご存知なわけであります。私もそのように見えていたよ。ああ、懐かしいなという感じです。
ですから、凡夫の知に映えてある世俗の顕現のありようから、それをお知りになられるということなのであります。
仏陀は「ご覧にならないという仕方でご覧になる」と言われる所以なのであります。