イカットの島 / バリ島に暮す / 風に吹かれながら

バリ島ウブドの小路は手工芸にあふれています。バリヒンドゥーの信仰に息づく暮らしに触れながら手織りの時を楽しみたい。

絣の道、唐錦の道の謎 続き

2020年02月27日 | 織りの旅
次の日、古書店(名瀬港近く、あまみ庵)で紬の歴史書を
見つけました。
茂野幽考著  大島紬の歴史  南日本出版文化協会

絣以外の織りはあるのか、疑問は解けました。
奄美大島では綾織りの「浮織り」「踏みおとし」と称され、
享保の時代(1716~1735)まで織られていましたが1720年の
薩摩藩による絹の使用禁止命令が出されて織れなくなりました。
大陸文化を積極的にとりいれていた奈良平安朝時代、奄美の島は唐船や遣唐使の通路にあたり、本土と中国との文化の交流が行われていた重要な中継地でした。港は現在の大和村にあって名前の由来はそこから。
「古代唐錦」「錦織」とも称し経錦と緯錦があり、奄美大島に伝わる綾織りは緯錦で五色の絹糸の緯糸を浮織りにして文様を織りだしています。著者は旧家に保存されていると聞き、徳之島に通い続けてやっと昭和39年、徳之島花徳の旧家前田家から唐錦を発見しています。領巾(ひれ)と呼ばれて長さ210センチ、幅39センチ。フランスのゴブラン織、エジプトのコプラ織、ペルシャの錦織なども同じ技法で、隋から唐の時代にかけて大陸から伝わり、奄美の綾織りは本土と関係なく、中国から直接的に伝わったとの著者の説です。

織りの技法はどこから?
かつて学んだブータンの織りは腰機で経浮織り、沖縄県読谷村での織り体験も経浮織りでした。読谷山花織企画展発行の小冊子を読むとほとんどが緯浮織でした。(国吉という人が1659年に中国の福建で浮織の技術を習得したのが始まり・小冊子から)
インドネシアのバリ島のソンケット(シドゥメン村)は腰機で緯浮織りです。緯・経の違いがどのようにして伝わったのかも不思議ですし、伝わったとされる時から技法の変化はなく、そのまま受け継がれてきたのかどうかも不思議です。
バリ島の浮織りソンケットはかつて王族の人たちによって織られていて、イスラム教に押されジャワ島からバリ島へ移住した時にヒンドゥー教と共に渡ってきました。
平織りの絣(イカット、バリ島ではエンディック)はそれ以前から多くの島々で腰機で織られていて、同じく緯絣と経絣があります。古くから住む島々は経絣、6C頃からヒンドゥー教、仏教、12C頃からイスラム文化と共に伝わったのが緯絣との説があります。(以前調べた本では更に古い)確かに腰機の経絣は輪で行う整経なので、そのまま張ったまま括れるので扱い易いと想像出来ます。イカットとは糸を括るという意味も納得です。

亜熱帯の暑い地域で綾織りは厚さがあり、布としては不向きでしょうから絣は南方から、綾織りの錦織(貢ぎ物の織物として)は中国を通って沖縄・奄美諸島に渡ったルートが存在したのでしょう。

アジア各地の織りは単独の開発なのか、あるいは人・物の経済交流によって、いつ、誰によって、どのようにして、何の目的で織りの技法は伝わったのでしょう。興味は尽きません。

ブータンの経浮織り


読谷山花織(ゆんたんざはなうい)の緯浮織り



バリ島シドゥメン村、ソンケットの緯浮織り
正装の帯(スレンダー)


インドネシア諸島のイカット(経絣)


インドネシア、バリ島のエンディック(緯絣)
高機の工房で織られていて自然界のモチーフや幾何学的模様などデザインが豊富です。生活の布地やサロンとしても使われています。






遣唐使の南島路
地図は5世紀ごろを表していますが、ここに南島路を書き込みました。その後、隋により統一、唐へと続きます。


本当に久しぶりの更新となりました。
今は一人となり、本土のヤマトで暮らしています。
奄美大島の旅は亜熱帯の気候や風景、門構えの風習や陰暦による神事などバリ島の暮らしに通じることも多く、懐かしさと発見や驚きもあり有意義なひと時でした。昔の記憶や集めた記録を引っ張り出してレポートしました。