ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

塩竈湾:千賀の浦/昭和22年・・33年そして今

2008年12月29日 21時12分11秒 | 仙台・宮城今昔物語
塩竈マリンゲートの横から湾内を眺めた



築港には倉庫が並ぶ・・・



撮影場所には、こんな建物がありましたね。
観光汽船や湾内の島々から学校に通っていた友人もいました。
浦戸寒風沢や浦戸桂島そして野々島・・・彼らは、最終の船に間に合わなければ自宅に帰れません。 それを理由に帰らないで遊んでいた奴も・・・苗字は、内海さんとか多いですね。
寒風沢(さぶさわ)には、伝説のお地蔵さんがいます。
なかなか行けずにいました。来春にでも
昭和33年


昭和22年

アメリカ兵がボートを見ています。 
対岸のクレーンは、造船所のようです。






もう一度現在の様子・・・塩釜市場です。



アップ!



それでは、塩釜仲卸市場に行ってみます。

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32 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
お晩です (あーさん)
2008-12-29 22:32:46
いつも思うんですが、よくこんな古い写真がgetできますね?
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あーさんへ (ひー)
2008-12-29 22:43:27
これは、なつかしい仙台という本で、当時の米兵さんが撮ったものですが、意外と仙台の昔の写真は、地元の新聞社が出版したりしてます。
または、ちょっとしたパンフから見つけたり、それなりに、努力してます。
色んな資料が溜まって来て整理しなとわからなくなりそうです。
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昭和22年 (維真尽(^^))
2008-12-29 23:59:45
まだ~もちろん生まれてないですが
なまなましい写真ですね

まだ~アメリカでよかった (^_-)-☆
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うわっ! (みっちゃん)
2008-12-30 00:09:15
戦車だ!! ∑( ̄□ ̄;)
日本が2つにならなくてヨカッタ・・・
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この風景泣けます・・ (酔漢です )
2008-12-30 00:43:05
観光桟橋からひー様が写真を撮った位置が、一番最初にハゼの穴釣をしたところです。
母は当時の「東北ドック」に努めておりまして今のマッドハウス代表丸山正雄さんのお母様と一緒だったところです。市場の展望台は、父に連れられて良く行きました。レストランがあったのですよ。カレーライスが美味しかったのを覚えております。
「ソ連貨物船が来た」で語りました築港の倉庫が写っております。
このあたりでも「悪さ?」をしていた酔漢でございました。
次回は仲卸市場ですね。
得意分野です!(っていいのかなぁ・・)
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こんばんわ♪ (浅羽由紀)
2008-12-30 01:32:58
時代を感じる写真をありがとうございます。兵隊さんや戦車が写っている写真はなんだかドキっとしました。うまく言葉にできないのですが。
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ここは俺っちの学区じゃ~ (クロンシュタット)
2008-12-30 06:20:00
東北造船の左隣りが友人の家の造船所です。主に漁船を造っていました。
市場は開設当時「東洋一」を謳っていました。我ら小学生は、「じゃあ東洋二ってどごなのっしゃ」と考え込んでしまいました。父親が定年退職後の第二の職場として、展望台の途中のフロアに勤めておりました。かなりの確率で、酔漢さん一家と接近遭遇しておりました。

マリンゲートが出来たときに、日本一の生産量を誇る塩竃の練り製品において、AとYとTが三大事業所でした。私の仲人(生涯たった一度の仲人をして下さいました)のTさんも廃業してしまいました。Yの兄弟経営者も亡くなったと聞いております。Aだけは元気のようですが、社長は三小の友人でした。

酔漢さん丹治さん。岸壁を走行するのはM4シャーマンでは?ティーゲルとかは詳しいんですが・・・
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海は良いですね。 (ミモザ)
2008-12-30 07:34:12
お早う御座います~♪
昔の写真が次~登場しますので・・・
知らない場所であっても、懐かしく見ています。
塩竃マリーンゲートには3年くらい行ってない
ので、海を見にいきたくなりました。
次回も楽しみにしています。
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我が家の近く (丹治)
2008-12-30 11:46:29
観光桟橋の辺りは、実に我が家の近くです。マリンゲートのとこは魚市場でしたよね。小学校低学年の頃までは建物が残っていたような気がします。魚市場の操車場は、入れ換え用の設備が転車台でもポイントでもなく、スライド式だったのを覚えています。

魚市場が対岸に行ってしまって、あそこは暫く漁船の繋留岸壁になってましたね。繋いである漁船には、よく遊びに行ったものです。今でこそ語学教師をやってますが、子供の頃の夢は海兵に入って駆逐艦乗りになるか(「防大に進んで護衛艦に」というよりはどうしても・・・)、商船大に入って外国航路の一等航海士になることでした。

チリ地震津波の前の遊覧船の発着所の写真は初めて見ました。手前に米兵が写ってる港の写真、牽き舟が黒煙濛々という所に時代が感じられますね。

そう、当時の塩竈は港に鉄道が通っていたんですよね。子供の頃はよく親父にせがんで汽車や船を実に連れて行ってもらいました。何を隠しませう。小生、片仮名の読み方は車輌の記号で、漢字の読み方は船の名前で覚えたのです。

酔漢さんにメールをもらってパソコンを開きましたが、ワム貨車の奥に写ってるのは、間違いありません。M4シャーマンです。ありゃりゃ、もっと手前の黒いコートにオリーブ色のスカートの御婦人、右手を高々とかざしてます。まさか、アレやってる訳じゃないでしょうが・・・

東北ドックですが、一万トンクラスの造船能力があるんですよね。小学校の頃、船の進水をみたことがあります。もちろん対岸から。武蔵の進水じゃないけど、あの時はこちら側の岸壁の空気抜きの穴が一つ残らず噴水になりましたよ。

Mein lieber Kronstadt!ドックの隣の造船所というのは、もしかして山○さんの所ですか?

ひーさんのブログには、酔漢さんに教えてもらってお邪魔するようになりました。もう四十年以上も塩竈に住んでて、知らないことがいっぱいあるんだということに気づかされました。

ひーさん、これからもよろしくお願いします。

皆さん、佳いお年をお迎えください!!!



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維真尽さんへ (ひー)
2008-12-30 14:56:39
それは、ソ連じゃなくて良かったということですよね。
確かにそうですね。話によると、白河の関を基点に日本を南北に分けようと言う話もあったそうですよ。
すると今頃は、東北と北海道は、北側の共産国になっていたでしょう。
怖い話です。
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