山の頂から

やさしい風

「子易地蔵」

2008-02-12 16:29:10 | Weblog
 太平山の紫陽花坂の途中《神橋・水屋》のすぐ近くに≪子易地蔵≫が在る。
春日の局が世継誕生を祈願した地蔵様と言われ、無事に将軍家に世継ぎが誕生し
た為に様々な御神宝が太平山神社に奉納されたといわれている。

 娘の結婚を半年後に控え、美奈子は何か気にかかることが思い出せないでいた。
夕食後の洗い物をしながら親指の皸に洗剤が滲み、思わず「イタッ!」と声をあげ
その時、その気がかりなことを突然思い出しのだ。 「そうよ!お礼参りよ」
夫の裕は炬燵でのんきにテレビを視ながら、ヘラヘラ笑っている。
「ちょっと、行かなくちゃ~~」美奈子はスリッパのまま居間に駆け込んだ。
裕は、その石臼のような巨体を僅かに捻り「何処へでも、どうぞ!」と答えた。
「何言うてんのよ、太平山へよ!」妻はもどかしそうに口をとがらせる。

 裕の実家は野木町で農家を営んでいる。彼は男ばかり4人兄弟の末っ子。
土地もそこそこにあったので裕夫婦が家を建てる時に、実家の近くの土地を
父親が分与したくれた。もう三十年近く前の話である。
美奈子は乗り気ではなかったが土地を買う金までは工面できなかった。
が、長男が跡を取っているので少しは気が楽ではあった。
結婚して10年間、二人の間に子供が出来なかった。「嫁して三年子無きは去れ」と
ずいぶんと昔には言われたが、11年目になった頃には流石に美奈子も尻がモゾモゾした。
勿論、病院に二人で通ったが思うような結果は得られなかった。
 そんなある日、裕の伯母にあたる女が太平山には《子易地蔵》という霊験あらたかな
地蔵様があるから行ってみるがいいと言った。
医者にかかってまでいるのに、そんなことは馬鹿げていると裕は言ったが
美奈子はいいといわれる事は何でもやってみようという気になっていた。
 そして、春先の暖かな日曜日に太平山神社に詣でたのだ。
社務所で説明を受け、その地蔵様があるところまで長い石段を下りてみた。
両側には鬱蒼とした木立が迫るようにあった。
どことなく気が集中しているようなその場所の小さな祠に地蔵様はおわした。
足場が悪いため少し手前ではあったが、すがるような気持ちで祈った。

 そうして半年後に美奈子は身籠ったのだから不思議と言えば不思議であった。
生まれたのは女の子であった。 美貴と名付けた。実際に美しい子であった。
音大を出て中学校の教員になった。 同じ教員との恋愛の末プロポーズされた。
美奈子たちにとって夢のような時間が駆け足で過ぎた感じがした。
 なんの力を持って美貴が生まれたかは知れないが、生まれた子に授乳しながら
この子がお嫁に行くと決まった時には、あの地蔵様にお礼に行こうと思ったのだ。
その思いは、ず~っと胸の奥深くにあって気がかりなこととして意識の闇に埋もれていた。
妻から言われ裕もそのことを神妙に聞いた。
「よしっ、次の大安日に行くぞ!」そう答えて風呂場に立った。