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【日曜特集】ひゅうが特別公開-横浜開港一五〇年祭,最新護衛艦横浜初公開(2009.09.06)

2018-12-02 20:09:01 | 海上自衛隊 催事
■DDH181ひゅうが横浜初公開
 今回から横浜開港一五〇年祭ひゅうが横浜初公開の様子を紹介しましょう、本当に巨大だと実感しました。

 ひゅうが初公開、海上自衛隊最大の護衛艦として建造され、ヘリコプター搭載護衛艦はるな、と交替した19000tの護衛艦艦艇広報は横浜港開港150周年記念行事として挙行されました。いずも型の巨大さに昨今押されがちですが、あの日横浜の活況をお伝えしましょう。

 横浜港、1858年の日米修好通商条約にもとづき江戸幕府の首府江戸にもっとも近い国際港湾として開港された横浜港です。もはや十年前の情景ですが、そもそも横浜は浅野造船が世界最初の航空母艦鳳翔を建造した歴史があり、海軍初の追浜飛行場はお隣横須賀に在る。

 太平洋とインド洋から世界に轟かせた帝国海軍航空艦隊の発祥の地でもあります、しかしそのなかでも、ひゅうが、建造当時からの威容には驚かされたもの、間近にみると更にすごい。ひゅうが竣工は同時に、はるな除籍と繋がる事に一抹の寂しさもありましたが、ね。

 DDH181ひゅうが、横浜IHIマリンユナイテッドにて建造され、横須賀基地の第1護衛隊群に配備されました。その偉容は建造中の様子を造船所の対岸にある磯子海づり公園から望見した際にも巨大の一言に尽き、公試は横須賀の高台からも望見することができました。

 DDH141はるな、幸運にもリムパック環太平洋合同演習から帰国のヘリコプター搭載護衛艦はるな、と太平洋での公試へ向かう護衛艦ひゅうが、が横須賀沖に並ぶ様子を撮影できましたが、艦型と規模の違いは著しく、世代交代、という印象を強くもったものでした。

 はるな、ひゅうが、実は聞いてみますとこの二隻が並ぶ情景を撮影したのは、世界でも当方だけ、という話を聞きまして、はるな母港は舞鶴基地、京都府の日本海側、対して護衛艦ひゅうが建造は横浜で配備後の母港は横須賀とともに太平洋に臨む、本州の反対側です。

 はるな除籍の日は、ひゅうが竣工の日、少なくとも洋上で巡り合った瞬間、二隻が並ぶ様子はあのリムパックからの護衛艦はるな帰国と、横浜を公試ひゅうが出航の瞬間だけとのことでしたので、北大路機関榛名研究室と榛名を冠する故、はるな冥利に尽きる、という。

 ひゅうが一般公開、空母型DDHとも誇称され、当方は全通飛行甲板型護衛艦と呼称しています。満載排水量19000t、はるな満載排水量が6800tでしたので、護衛艦の交替、以上のヘリコプター搭載護衛艦世代交代、海上自衛隊にとっての新しい一歩を刻んだ瞬間です。

 はるな型は護衛艦はるな建造が三菱重工長崎造船所でしたが、二番艦ひえい建造は石川島播磨重工東京工場、つまりIHIマリンユナイテッド横浜工場の前身です。ひえい交替となった護衛艦いせ建造も同じ造船所、護衛艦いずも、かが、建造も同じで縁を感じますね。

 横浜港、安政6年即ち1859年に開港しました。横浜開港150周年記念ひゅうが一般公開、という点からもわかる通り、2009年は特別な一年間でした。世界に冠たる国際港としての地位を得た横浜港、しかし1859年の開港当時は突堤二本から開港、歴史を歩み始めました。

 安政年間はいよいよ時代が幕末から明治維新へと転換しつつあった時代、徳川幕府は外洋船の建造を厳しく禁じてきましたので、突堤や港湾整備の技術は非常に限られ、それこそ徒手空拳に近い形で、わずかなオランダ資料をもとに浚渫と突堤建築を進めてゆきました。

 日本の開国、徳川幕府は外圧の影響を受けるとともに鎖国政策の影響が諸外国との文字通り隔世の技術格差や制度格差として現実化していたこともあり、幕府開府の時代には全く想定する必要の無かった外国の侵攻、侵攻とは豊臣秀吉の朝鮮遠征のように自ら行うもの。

 江戸時代と安土桃山時代の日本は強い。当時最新鋭といえた火縄銃、そして弓兵と槍兵とを重ねた三兵戦術は、同様の戦術が欧州、スペインにおいて開発されてより僅かに40年程度の遅れをもって導入された、中世における40年の技術格差は驚くほど僅かなものだ。

 幕末は外国の軍事圧力を受けた時代ですが、安土桃山時代の延長線上に国内政治と世界政治への関心を維持していた我が国、太平の世の眠りを覚まされた、というように最新鋭の軍事装備と戦術を有していた時代には必要がなかった周辺国の脅威をうけてのものでした。

 沼沢、横浜を表現する開港前の地名はまさにここ、人が住むことの出来ない荒れ野というものでした。しかし、幕府は開港に際して膨大な人的資源を惜しむことなく、実際は財政逼迫でしたが、そそぎ込み、かなり短期間で造成成功、欧米諸国からは驚きだったもよう。

 当時横浜イギリス総領事に着任した総領事オールコックの表現を借りるならば、将軍の魔法の杖によって忽然と、創設されたという。ここが選ばれたのは既に横浜村という東海道に近い村落があり、地形調査により水深が大型船舶入港に十分な水準であり、潮流もない。

 こうした条件から出島の建設が可能、という判断を受けてのものでした。武蔵国名主笹井万太郎が落札した突堤建設は、全長109mと幅18mの金属製突堤を二本建設するというもので、一つは旅客用突堤、もう一つを貨物用突堤とするもの。これが横浜港の始りでした。

 横浜港は1864年に早速というべきでしょうかイギリスのPO汽船が横浜ロンドン航路を解説します。驚くべき事というか大政奉還が1867年ですのでその前に日英旅客船航路が開設されていた訳ですね。PO汽船はロンドン上海航路を有し、これを横浜まで延伸したかたち。

 1865年にはフランスのメサジェロマリティム社がマルセイユ横浜航路を、これもマルセイユインドシナ航路を延伸した形ですが開設しまして、定期航路という意味では不定期に大型客船が入港する現在の横浜港以上に我が国の玄関口としての位置づけを有することに。

 1866年には桟橋拡張が行われまして港湾の耐波構造などが強化されました、しかし江戸時代、日本にはまだ外洋船舶は勿論、近海船舶の量産能力がない大政奉還のその年1867年にアメリカのパシフィックメール社がサンフランシスコ香港航路の経由地に横浜を加える。

 国際航路と共にパシフィックメール社は横浜と神戸に長崎の国内線航路を、秋には横浜と函館航路を開設し、しかし日本には沿岸用小型船をのぞき量産できないことから仕方ない事ですが外国企業が国内線を押さえるというかたちでの航路となってしまったわけですね。

 岩崎弥太郎の三菱商船は、この状況下で多数の商船の購入と国産技術の開発に尽力し、この状況は1876年に漸く解消されました。鉄道整備はまだ先の話、最速は船舶、日本の国内航路だけは日本の企業が対応させたい、外貨流出防止と殖産産業の視点からも重要です。

 明治政府は、国際交易の増大に対応するべく横浜港の拡張を大車輪で進めたいところでしたが、しかし、江戸時代より続く経済停滞、その上で戊辰戦争という内戦を戦った後での武器購入費が重くのしかかり、思うような港湾開発、のちの殖産興業も着手できていない。

 最初の大博打に打って出るその元手も捻出できない有様でして苦悩していました。外国の侵略に備える明治維新だったのですから港よりも横須賀軍港が、しかしそもそも軍艦を買うには工業が必要だ、稼ぐ必要が、と。近代日本生みの苦しみの舞台だったわけですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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