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【京都幕間旅情】大覚寺-観桜,興福寺の塔頭による兼帯は後嵯峨法皇の落飾により門跡寺院となり院政の地へ

2024-04-10 20:00:03 | 写真
■日本政治史と大覚寺
 さくら綺麗と素通りするにはここ大覚寺は惜しい歴史を秘めていまして思い馳せつつ情景を思い起こすのもまた愉しい。

 嵯峨天皇の嵯峨院、ここに空海が五覚院を造営したのがここ大覚寺の始まりということですが、それを以て離宮の扁額に大覚寺と記した訳ではありません、なにしろ嵯峨天皇も出家したわけではありませんから。するとここが今に繋がる大覚寺になるのは。

 淳和天皇皇后正子内親王、この方は嵯峨天皇が崩御しお隠れになったのち数十年後に実子で仁明天皇廃太子である恒寂入道親王を開山とする寺院造営を思い立ち、既に使われる事の無かった嵯峨院を寺院とすることとしました、時は貞観18年こと西暦876年で。

 興福寺塔頭という扱いであり、考えれば空海さんの神護寺はこの直ぐ近くの高雄山に鎮座しているのですから、興福寺という南都の影響というのも少し不思議に感じるものではあるのですが、兼帯というかたちで、真言宗への牽制ではないと思いたい、続いた。

 門跡寺院、さて興福寺の塔頭による兼帯というか牽制というかという状況が大きく変わりましたのはそれからまた数百年の後、後嵯峨上皇の法皇宣下という転換期を待たねばなりません。また嵯峨院跡地だから後嵯峨法皇の落飾、という安直ではないと信じたい。

 後嵯峨法皇の落飾は文永5年こと西暦1268年、文永年間といえば鎌倉幕府執権が北条時宗、元寇の日中激突が間近に迫っている時代ではあるのですが、ここに法皇の院を置いたことにより当地は門跡寺院となりまして、院政の舞台となる嵯峨御所となります。

 亀山天皇の法皇宣下とともに当地にて院政を取り仕切る大覚寺統という正統性が確立されるのはこののちでして、同時に後深草天皇が法皇宣下しますと持明院統という二つの院政の流れが自然形成され、二つの正統性は交互に権力を譲位する系譜となりますが。

 両統迭立という二つの流れでも、それは先ず院政からして権力二重構造ですので対立の萌芽となり、結果的に南北朝時代というに品が二つに分断されるが国家は二つに分断しないというよくわからない治世上の危機につながるのは、まあもうすこしあとのはなし。

 南北朝の時代まで話題が進みましたが、元中9年こと西暦1392年に南北朝の対立が解消され、実権を握った北朝に持ち去られた三種の神器が南朝より変換される場となったのも大覚寺でして、こう考えますと日本史、政治史における特異な位置づけが垣間見える。

 室町幕府開府とともに南北朝時代の始まりは、正当性を幕府が有して統治しながらも国家の正統性は朝廷にあるという、日本型の統治機構にあって足利尊氏が心を痛めた大きな転換点でもあったのですが、南北朝の対立解消により大覚寺はまた重要性を持つ。

 足利義満の実子義昭を門跡に、さすが日本国王を自称するだけあって実子を迎えれば門跡寺院という考えもなかなか飛んだ発送、発想ではなく最早発送、なのですけれども幕府の庇護と財政支援を受けることとなりまして、その間発災した火災からも復興します。

 応仁の乱では、やはりといいますかまあそうなるな的な結果ですべての建物が灰燼に帰しますが、安井門跡蓮華光院門跡の支援とともに細々と復興をはじめ廃寺を免れまして、時間はかかりましたが江戸時代の寛永年間にはほぼ現在の姿まで復興したという。

 宮廷文化華やかな、と安易な言葉を使いたくはないのですが、大沢池の向こうに見えます大覚寺は、そう時には観月の舟遊びなど平安朝の頃から嗜んだ当地ですので、なにかこう挙げています歴史の深さが満開の桜花の先に際立って、みえるようなのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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