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【京都幕間旅情】大覚寺-観桜,嵯峨天皇離宮は平安遷都と空海との縁が生んだ壮大寺院はさくら花々に飾られる

2024-04-10 07:00:07 | 写真
■さくら咲く大覚寺
 桜花咲き誇る季節ゆえに一つ嵐山まで歩み伸ばしてみましたがあいにくの曇天の狭間に時折除く陽光に七分咲きの桜花が鮮やかでした。

 大覚寺、右京区嵯峨大沢町に所在します真言宗大覚寺派大本山となっています。ここは、JR山陰線の嵯峨嵐山駅から歩いて十分、いや充分というところにありまして、少々坂道ですのでちょっとした散歩道となっています。神護寺と違って歩ける距離ですが。

 嵐山、そう嵐山です。京都といえばオーバーツーリズムと観光過多、両方とも同じ意味だろうといわれましても二重に強調しなければならないほどに観光客が多すぎることで、嵐電の嵐山駅前は変な話で来意電車内よりも人口密度が凄いことになっている。

 観桜の季節にそう、大覚寺といえば京都を代表する観光地となっているのですから、立錐の余地もなく観光客は大沢池に落ちて広沢池や琵琶湖まで流れ着く、ような覚悟とともに出かけたのですけれども、いやはや、驚いたのは混雑していなかった、という。

 真言宗大覚寺派大本山の寺院、と同時にここは嵯峨天皇の離宮でもありまして離宮から発展した寺院、嵯峨天皇といえば平安遷都間もない混乱期に治世を担った、そしてそれは同時にかの弘法大師空海と同じ時代に混乱の時代をおさめた天皇でもありました。

 嵯峨天皇は桓武天皇から皇位を継承した第五二代天皇、そして桓武天皇といえば平安遷都としてこの京都と京都たらしめた天皇、山城国を京都としました転換点の天皇でもあるのですが、その生涯は軍事と造作という、遷都に北方遠征とを続けた治世でして。

 桓武天皇は藤原京に平城京と長岡京と幾度も遷都を繰り返しつつ、しかし晩年に徳政相論という、若き官僚の藤原緒嗣による建言を受け、遷都をこの平安京の完成と共に永年の王都とする方針を示し、そして蝦夷討伐についても守りの姿勢へ転換を果たします。

 徳政相論はまさに最晩年の転換であり、その直後の崩御とともに皇位を継承した嵯峨天皇はまさに新しい一歩をすべて決めることから始まる訳ですが、しかし剛腕を思わせた桓武天皇ですが、現代に残る書物や研究では東宮をそれは可愛がったとも記録される。

 坂上田村麻呂、蝦夷討伐についても攻勢限界というような消極的な停戦ではなく志波城造営による北辺地域の平定、そしてこの頃の日本農業における牛馬、特に馬の普及から奈良時代の農民徴用徒歩歩兵からある程度の騎馬兵力健軍に成功しての転換でした。

 薬子の変というような出来事は嵯峨天皇の治世初期には世の中を混乱させましたが、先ずは北方脅威の減退、そして平安京という最大規模の遷都事業の完成とともに嵯峨天皇の時代には日本文化が漸く一つの方向性を定め、いまの日本へ繋がる一筋が差す。

 空海とは、そのころに縁を得たという。いや、ここ大覚寺は空海が寺院への一歩を示した場所でして、そう九州や奈良などをかつての壮大建造物の遺構をと調べますと今は石碑のみ、というところが数多ある、離宮や宮殿は役目を終えれば姿を消すのですが。

 嵯峨天皇の時代、薬師の変が勃発しますと、当時唐にて最新の密教を修め帰国した空海に国家鎮護の法要を要請することとなります。保守的なわが国は当時も同様であり、密教の布教には天台宗の最澄による尽力が無ければ洛中に入ることも難しかった、とも。

 鎮護国家大祈祷を行いました空海は嵯峨天皇にその離宮へ五大明王持仏堂の造営を勧め五覚院を造営、こうしてここに離宮から始まる大覚寺の歴史への一歩が刻まれ、その場所がいまは京都へ春の訪れ、桜花の満開という美しい季節を迎えているのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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