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京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】平安神宮-桜花,満開の花々と振り返る幕末動乱と戊辰戦争と東京遷都の後の新しいはじまり

2025-04-09 20:24:44 | 写真
■平安神宮と京都
 新しい社殿ゆえにこの平安神宮は京都の歴史においてひとつ重要な地位を担っているといえるのですね。

 平安神宮と京都、平安神宮をニセモノの寺院というかたがいまして、いやいやまず寺院ではなく、と訂正を入れるところから始めるのですが、平安遷都ののちの東京遷都を経て、京都というものを憧憬に留めるための社殿が正しい。

 遷都、明治時代に政治は首都を大阪におくのか江戸におくのかを思慮したとされていますが、どのみち、明治維新ののちに首都を東京や大阪ではなく、このまま京都におくという選択肢はなかったのだなあ、と考えると少し寂しいか。

 幕末動乱、蛤御門の変、京都に首都を置けない背景には孝明天皇の時代、幕末に京都は動乱を超えて戦場となり、特に長州藩邸焼き討ち、歴史では藩邸自爆と書かれることも多いのですが、ここから出た大火災が中心部を灰燼に帰して。

 孝明天皇はその際に御所を出て、民衆と直接対面、対面ではないにしても焼け出された町衆を直接目にすることとなったといい、同時にここまで焼けてしまっては首都として京はもはや、という決断させる要因にはなった、といわれる。

 殿上人と地下人、なにか地下人と表現すると地底人のようでHGウェルズのタイムマシンを思い出させる印象ですが、要するに御所で上に上がることのできない位階の低いひとたちをしめす、こんな差別というか区別というかが昔はあった。

 位階の低い人たち、を誤変換すると、異界の低い人たち、となってしまうのでHGウェルズではなく急に異世界モノじみてくるのですが、それは閑話休題、こういう認識をする常識が日本ではなんとか手の届く時代まで残っていたのだから。

 東京遷都は為されたわけですが、結果、御所をみれば旧ナントカ家跡地、という感じで屋敷も次々と東京セントされてしまいまして、セントしてやろうか的ななんにも残らない京都だけが置き去られ、結果復興も出来なくなってしまい。

 応仁の乱はじめ、京都というのは幾度も戦乱に見舞われてきたのですが、その都度復興を果たしていまして、しかしその例外になろうかというのが、幕末動乱の後遷都により政治中枢から切り離された時代なのかなあ、とかんがえる。

 戊辰戦争など、なにしろ明治政府はそのあと西南戦争で終止符がうたれるまで戦国時代part2的な騒擾に見舞われて、日清戦争もできないほど国内で戦費がかさんだモノですから京都復興に予算など割けないという厳しい状況が続く。

 平安京へて首府をになっている時代ならば、とにかく体裁はどうにかしようと、掘っ立て小屋でもいいから体裁を整えるべく予算がくまれ、それを実行するための人足が居住用の掘っ立て小屋を建てて、復興を無理矢理形づけたはずだが。

 宮城が遷ってしまうと、そういうことになるのか、遅れていた復興を久々に明治天皇が戻られたさい、これは行幸になってしまう構図ですが、朝霧の中に霞んだ復興にも軌道が見えない京都を見まして、その復興を勅令したことにはじまり。

 勧業、要するに見本市を行うことで世界にこの京都を開く場所としましたのが、この平安神宮界隈、岡崎の地でもありまして、そこからはじまった復興がいまの政令指定都市程度にはなる水準となった、始まりの地、なのですね。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
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