■大沢池巡る拝観路と桜
高雄と愛宕の峰々を眺めつつそして大沢池に映るもともとの絶景という情景はこの季節には桜の花々が加わるところでして。
大沢池は唐の洞庭湖を模して嵯峨天皇が造営したものという。平安時代の大工事だスゴイゾニッポン、と思うかもしれませんが当地は緩い傾斜地となっていまして築堤さえしましたならば高雄からの水が静かに溜まり池泉を形成しているという実情はある。
唐の洞庭湖っていうのはこんな感じなのかあ、とわたしも知るまではあんまりほかの池と違わないなあと日中の親和性と文化的共通性を嗜んでいたのですが、よくよく聞きますと名古曽の滝という、ここの水源あたりが平安時代にその意趣で作庭された、と。
華道嵯峨御流といいまして、実はこの大覚寺は生け花発祥の地という歴史があります、なぜ急に生け花の話か、といいますと、先ずこの大沢池に見立てて花を生けたのが生け花の始まり、という一説があるようでして、そうきいて池泉を見渡しますと何か違う。
天神島、庭湖石、菊の島、亀さんが上陸して甲羅干しをのんびり微睡んでいる様子などが見えるのですけれども、まさに二島一石この配置こそが華道嵯峨御流の原点となる構図といわれていまして、時とともに移ろいながら情景を一新させているとのことで。
嵯峨天皇の時代には天神島は地続きであったといい、これも日本列島がヴルム氷河期に大陸と地続きであったことの名残、というわけでは全くなく、実はこの天神島、庭湖石、菊の島、その並ぶ構図は室町時代に再建されたものの一つといい、一新した、と。
菊の島などは嵯峨天皇が菊を植えたという場所で、この菊の島に植えられた菊を一輪差したのが最初の生け花、と。いわばこの大沢池をそのまま嵯峨院に持ち込まれて愛でた、という構図ですね。ただ、この水源となるのは100mほど先の名古曽の滝といい。
名古曽の滝、いや大沢池の水源はせせらぎがいまも、原風景というか実はこうした小さな流れの元で子供の頃はキャンプをしていたものなのですけれども、ごくごく浅い流れが、しかし清冽というのはこの為の言葉なのだろうなあ、大沢池へ流れ込んでいる。
応仁の乱はじめ大覚寺は幾多の戦火とそして失火の大火で、結局現存するものは江戸時代の寛永年間のもので建物が攻勢されているとは前述のとおりですが、この池泉は普通に農業用として活用され、いわばそう役割だ、役割と共に維持され今日に至るのです。
大沢池の築堤は、歴史学的には当時の築堤がそのまま活用されているといい、しかし名古曽の滝からの水際の距離はどうも動いているようなのですから、この堤がどのように維持され、千二百余年の歴史を紡いできたのかはどこまで研究が進んでいるのか。
観桜の際には、さてさてせっかく文字通り池泉回遊式庭園を回遊しているのです、構図を気にするものなのですがひと際、借景をどこの風景に溶け込ませるのか、そう水面と桜花という構図は数多ある故にここは大覚寺、と一見して分かる構図を探すのですね。
満開の季節ですのでもう少しここは混雑しているものだと思っていましたが、実際散策していますと人は、どちらかというと疎らで、なんといいますか、オーバーツーリズムといわれるようなところでも、しかしここまで人のいない場所、2024年にも在るのだ。
拝観、というには少々この大沢池だけでは寺院という印象は薄いのですが、嵯峨天皇の時代からここは嵯峨殿で嵯峨院の一部であるとともにそののちにも大覚寺の一部であることは歴史が示す通りで、この風景を独り占めし、春の到来を改めて実感するのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
高雄と愛宕の峰々を眺めつつそして大沢池に映るもともとの絶景という情景はこの季節には桜の花々が加わるところでして。
大沢池は唐の洞庭湖を模して嵯峨天皇が造営したものという。平安時代の大工事だスゴイゾニッポン、と思うかもしれませんが当地は緩い傾斜地となっていまして築堤さえしましたならば高雄からの水が静かに溜まり池泉を形成しているという実情はある。
唐の洞庭湖っていうのはこんな感じなのかあ、とわたしも知るまではあんまりほかの池と違わないなあと日中の親和性と文化的共通性を嗜んでいたのですが、よくよく聞きますと名古曽の滝という、ここの水源あたりが平安時代にその意趣で作庭された、と。
華道嵯峨御流といいまして、実はこの大覚寺は生け花発祥の地という歴史があります、なぜ急に生け花の話か、といいますと、先ずこの大沢池に見立てて花を生けたのが生け花の始まり、という一説があるようでして、そうきいて池泉を見渡しますと何か違う。
天神島、庭湖石、菊の島、亀さんが上陸して甲羅干しをのんびり微睡んでいる様子などが見えるのですけれども、まさに二島一石この配置こそが華道嵯峨御流の原点となる構図といわれていまして、時とともに移ろいながら情景を一新させているとのことで。
嵯峨天皇の時代には天神島は地続きであったといい、これも日本列島がヴルム氷河期に大陸と地続きであったことの名残、というわけでは全くなく、実はこの天神島、庭湖石、菊の島、その並ぶ構図は室町時代に再建されたものの一つといい、一新した、と。
菊の島などは嵯峨天皇が菊を植えたという場所で、この菊の島に植えられた菊を一輪差したのが最初の生け花、と。いわばこの大沢池をそのまま嵯峨院に持ち込まれて愛でた、という構図ですね。ただ、この水源となるのは100mほど先の名古曽の滝といい。
名古曽の滝、いや大沢池の水源はせせらぎがいまも、原風景というか実はこうした小さな流れの元で子供の頃はキャンプをしていたものなのですけれども、ごくごく浅い流れが、しかし清冽というのはこの為の言葉なのだろうなあ、大沢池へ流れ込んでいる。
応仁の乱はじめ大覚寺は幾多の戦火とそして失火の大火で、結局現存するものは江戸時代の寛永年間のもので建物が攻勢されているとは前述のとおりですが、この池泉は普通に農業用として活用され、いわばそう役割だ、役割と共に維持され今日に至るのです。
大沢池の築堤は、歴史学的には当時の築堤がそのまま活用されているといい、しかし名古曽の滝からの水際の距離はどうも動いているようなのですから、この堤がどのように維持され、千二百余年の歴史を紡いできたのかはどこまで研究が進んでいるのか。
観桜の際には、さてさてせっかく文字通り池泉回遊式庭園を回遊しているのです、構図を気にするものなのですがひと際、借景をどこの風景に溶け込ませるのか、そう水面と桜花という構図は数多ある故にここは大覚寺、と一見して分かる構図を探すのですね。
満開の季節ですのでもう少しここは混雑しているものだと思っていましたが、実際散策していますと人は、どちらかというと疎らで、なんといいますか、オーバーツーリズムといわれるようなところでも、しかしここまで人のいない場所、2024年にも在るのだ。
拝観、というには少々この大沢池だけでは寺院という印象は薄いのですが、嵯峨天皇の時代からここは嵯峨殿で嵯峨院の一部であるとともにそののちにも大覚寺の一部であることは歴史が示す通りで、この風景を独り占めし、春の到来を改めて実感するのです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ まや
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
(本ブログ引用時は記事は出典明示・写真は北大路機関ロゴタイプ維持を求め、その他は無断転載と見做す)
(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)