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ご訪問いただきありがとうございます。安政の探検家松浦武四郎足跡を訪ね、音楽と自然、いにしえのロマンを愛する旅人です。

松浦武四郎の足跡旅 有珠善光寺 「東蝦夷日誌」の資料  2013年9月3日

2013-09-05 18:29:33 | 旅行
松浦武四郎著「東蝦夷日誌・貮編」には宇須〔臼、有珠〕の記録がある。有珠の善光寺についても書き記しているので、松浦武四郎の足跡として石碑か木柱などが善光寺にないものかと何度か来たことがあった。
 前回(2012年)にも寺院にはどなたもおられない様子だったので、境内を歩いたが、松浦武四郎の足跡は探せなかった・・・。
しかし、今回は、境内を歩き回っていたら、1台の車が寺院の横側に着き、ご婦人が降りられたので、「お寺の方ですか?」と、お尋ねしたら住職さんの奥様であった。ここに来た理由を話すと「東蝦夷日誌にある絵が最近展示しました。」とお話されたのですが、展示を見るには予約が必要であった。突然の訪問でしたが、道南から来たことを話すと、ご親切なご配慮をいただき、住職さんを呼んでくださり、ご案内していただいた。(松浦武四郎フアンとしても感謝です。)
東蝦夷日誌にある有珠や善光寺についての記録
ウス(臼、有珠)(會所一棟、制札、雑蔵、馬や、旅宿所、板くら五)と云て場所の惣名となれり。東西北地とも如ㇾ此よき灣を皆ウシヨロと稱る處多し。・・・ならびて灣も北岸に(會所より二丁五十間)イタヲノト(大岩岬)夷家有其上に門有。大臼山道場院善光寺(浄土宗。本尊、臼坐三尊彌陀如来、金佛。津軽今別本覚寺五世 貞典上人作。・・・(略)・・・蝦夷地念仏の初め(注釈)ある時は大なる数珠にて夷民に百萬返(遍)をくらしめし等も、其法筵に連なる者五百人餘、是此地にて念仏の始め也。』とアイヌへの布教の様子をスケッチと記録を残している。
念仏上人 子引歌にはアイヌ語を添えている。たとえば・・・「これや人々」には「タバアン○ウタレ」、「おしえを聞よ」には「エバシム コヌカ」というように、『また、土人に片仮名を教え給ひし由。』と記載している。
また東蝦夷日誌には洞爺湖のことについて
『湖中に三つの島あり。是に小堂有て、円空鉈作りの佛を安置す。 うすおくのいん小島 江州伊吹山平等岩儈内 寛文六年七月廿六日 始山登 圓空(花押)』とある。
 住職さんに案内していただいた展示室(宝仏殿)
  
東蝦夷日誌の中にある百萬遍の数珠とアイヌへの布教のスケッチ

この写真は残念ながら、ピントが合わず・・・スケッチの左側に松浦武四郎の東蝦夷日誌の記録が残っているが・・・
展示された松浦武四郎のこと
「アイヌ民族への布教」と題して念仏上人の子引歌の板木にアイヌ語をカタカナで添えていたものである・・・、また、松浦武四郎は「東蝦夷日誌」に念珠を用いて参加するアイヌ民族の様子を記されている他、僧が「鉦鼓」を用いて叩いている様子も描かれている。」と説明があった。
東蝦夷日誌の中の絵

百萬遍の数珠箱と数珠とお札
      
善光寺本堂(茅葺で歴史を感じる本堂です)


鐘楼

史跡指定の石碑

 「この寺院は徳川幕府が蝦夷地における和人に定着慰撫を図り宗門等を併せて蝦夷地教化及び法務活動をお子あぬために文化元年~二年に建立された官寺であり蝦夷三漢字の第一の寺でsる。慶長以前に存在したといわれる寺名を引きつぎ、本尊を安置した境内。建物もよく、江戸時代の面影を今日に伝えており、江戸後期に特有な歴史的役割を果たした寺として重要なものであることから、史跡に指定されたものである。」と刻まれている。この後、私たちは登別温泉に向かった。ホテルのロビーでウエルカムをしてくれた鬼さん

 
 

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