神居尻山地区の道民の森を後にして、道道11号線を南下して月形の旧樺戸集治監を見学。ここは吉村昭著の小説「赤い人」を以前読んでいたことや、北海道大学正門のストリートにタイルで「新撰組」の旗印を何度か見ており、通路わきに「永倉新八」が演武場で当時の北大で武道をおしえていたということで興味があったことで「永倉新八著の「新撰組顛末記」を手に入れた。その本の表紙帯に『松前から小樽へ移り、樺戸集治監の剣術師範になった』と書かれていたので、その地を旅の目的の一つに入れた。
吉村昭の「赤い人」は明治14年東京の小菅集治監から朱色の衣服を着たいわゆる囚人が船に乗せられてどこに行くかなど告げられずに北海道石狩川を遡行したというものである。彼らは脱走出来ないように鉄丸をつけられたり、鉄の鎖で繋がれている。北海道に集治監を作るために命令されたのが月形潔という人であり、月形の開拓にもつながり彼の名前が町名になったということで彼の銅像が建てられている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/02/d1247dba231cce35831e8e1633889b09.jpg)
赤い人と永倉新八の本
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/b5/73ee07bae94e688ed50574f490946e9a.jpg)
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旧集治監の入り口の石段は囚人が通るので足につけられた鉄丸で石の階段がすり減っていったとのこと。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/34/abd41983348989eb309887a0da7676a3.jpg)
館内は当時の集治監のミニチュアがあり、収容部屋が残されている。
館内は撮影できないので・・・パンフレットより
ジオラマと「囚人が拓いた北海道の大地」と囚人の姿(赤い人)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/a4/a38dfadeb74b9b3b1bdbd0c4a1a15743.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4a/ec/ccd9d3a34847d925ac12335afec826a6.jpg)
近代的な建物の方も見学。「月形樺戸博物館本館」である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/10/57506a34a9da293c79a893fe48edb6fd.jpg)
樺戸集治監の建設調査の様子や朱色の囚人服を着た人たちが開拓に携わっている様子が展示されている。
印象に残ったのは
「囚人が拓いた北海道の大地」という見出しのパネルである。そこには
『ここに来たら二度と帰れないと恐れられた北の監獄。
開拓を先駆ける基幹工事を行ったのはここから逃げられない境遇の囚人たち。極寒の原始林を拓く工事は罪を犯した者に課せられたとはいえあまりにも過酷で非人道的であった。囚人たちは多くの犠牲を払ってこの難工事を完遂した。一直線の道路を通り過ぎると貴一面の田畑を眺めるとき、囚人たちにも思いをはせてほしい。あまり知られていないだからこそ伝えたい。もう一つの北海道の開拓史がここにある。』と・・・。
新撰組の永倉新八についても「修武館」という大きな看板や彼の本がガラスケース内に収まっている。
博物館の帰り際、職員の方から「博物館の玄関の鐘は当時のもの・・・鳴らして下さい。人の心に響くんです・・・」当時の囚人もあの鐘の鳴る音をどんな思いで聞いたのでしょう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/85/baf8a35fa9633c4fde5da66c548b89a9.jpg)
因みに北海道大学の正門にある永倉新八来訪の地
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/7f/f6d43157b27cfe1dfa967564cbe58422.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/73/7b/612a59b1f276b4995c7d4261b5b47660.jpg)
これは平成14年に北区役所が設置したもので、「北区歴史と文化の八十八選」の一つ「新撰組隊士永倉新八来訪の地」旧幕臣・新撰組副隊長助勤・永倉新八(天保10年=1839=4月11日生まれ)は徳川幕府崩壊後は杉村義衛と改名して大正年間まで生きた。
有名な京都池田屋戦のときは幕府から感状をうけるなど抜群の働きをした。土方歳三・沖田総司と並ぶ剣客。晩年は北大剣道場などで剣道の型を指南。
各地を歴訪するなど悠々自適の生活を送った。
『武士の節は尽くしても厭くまでも貫現竹の心一筋』の歌をのこし大正4年1月5日小樽の自宅でなくなっている。
北大の前を通った時に何故ここに新撰組が・・・関係あるのかと思っていたが、私のなぞは解けたよう・・・
吉村昭の「赤い人」は明治14年東京の小菅集治監から朱色の衣服を着たいわゆる囚人が船に乗せられてどこに行くかなど告げられずに北海道石狩川を遡行したというものである。彼らは脱走出来ないように鉄丸をつけられたり、鉄の鎖で繋がれている。北海道に集治監を作るために命令されたのが月形潔という人であり、月形の開拓にもつながり彼の名前が町名になったということで彼の銅像が建てられている。
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赤い人と永倉新八の本
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旧集治監の入り口の石段は囚人が通るので足につけられた鉄丸で石の階段がすり減っていったとのこと。
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館内は当時の集治監のミニチュアがあり、収容部屋が残されている。
館内は撮影できないので・・・パンフレットより
ジオラマと「囚人が拓いた北海道の大地」と囚人の姿(赤い人)
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近代的な建物の方も見学。「月形樺戸博物館本館」である。
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樺戸集治監の建設調査の様子や朱色の囚人服を着た人たちが開拓に携わっている様子が展示されている。
印象に残ったのは
「囚人が拓いた北海道の大地」という見出しのパネルである。そこには
『ここに来たら二度と帰れないと恐れられた北の監獄。
開拓を先駆ける基幹工事を行ったのはここから逃げられない境遇の囚人たち。極寒の原始林を拓く工事は罪を犯した者に課せられたとはいえあまりにも過酷で非人道的であった。囚人たちは多くの犠牲を払ってこの難工事を完遂した。一直線の道路を通り過ぎると貴一面の田畑を眺めるとき、囚人たちにも思いをはせてほしい。あまり知られていないだからこそ伝えたい。もう一つの北海道の開拓史がここにある。』と・・・。
新撰組の永倉新八についても「修武館」という大きな看板や彼の本がガラスケース内に収まっている。
博物館の帰り際、職員の方から「博物館の玄関の鐘は当時のもの・・・鳴らして下さい。人の心に響くんです・・・」当時の囚人もあの鐘の鳴る音をどんな思いで聞いたのでしょう。
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因みに北海道大学の正門にある永倉新八来訪の地
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これは平成14年に北区役所が設置したもので、「北区歴史と文化の八十八選」の一つ「新撰組隊士永倉新八来訪の地」旧幕臣・新撰組副隊長助勤・永倉新八(天保10年=1839=4月11日生まれ)は徳川幕府崩壊後は杉村義衛と改名して大正年間まで生きた。
有名な京都池田屋戦のときは幕府から感状をうけるなど抜群の働きをした。土方歳三・沖田総司と並ぶ剣客。晩年は北大剣道場などで剣道の型を指南。
各地を歴訪するなど悠々自適の生活を送った。
『武士の節は尽くしても厭くまでも貫現竹の心一筋』の歌をのこし大正4年1月5日小樽の自宅でなくなっている。
北大の前を通った時に何故ここに新撰組が・・・関係あるのかと思っていたが、私のなぞは解けたよう・・・
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