稚内市を訪ねたのは、「道北の釣りと旅」のホームページ管理者の福士さんから頂いた情報「猿払村と声問に松浦武四郎の新しい史跡案内版が出来たよ~」ということで道北の旅に出ました。
尊敬する松浦武四郎の著書「戊午東西蝦夷誌目録」秋葉實解読の中に、声問や稚内についての記録があります。
因みに、彼は宗谷地域を3度訪れている。(※ 声問の宿営地碑の記録より)
弘化三年(1846)
安政三年(1856)
安政五年(1858)
声問川・ノシャップ岬について
『六月五日、ソウヤ運上屋を出立てしてコイトイ番屋に到り、是より小舟に棹さし川まゝ上り、シュブントウを廻り、其の水源のあらましを志るす。・・・コイトイ番屋元を六月七日出立して、クシャルプト(※現在の南稚内)え到り、シリクラエンルン、トウベンナイ等を過ぎて、ノシャフ岬を廻り、本道なるルウランにて出会、バッカイ番屋元に到る』と記録し、彼はさらに「現在の根室にも同名有り・・・(納沙布岬のこと)と「北岬日誌と置なれども・・・」とこだわりを現わしている。
稚内では土木遺産になっている「稚内港北防波堤ドーム」を見て、稚内公園に立ち寄り、ノシャップ岬にいった。
夕日が絶景という所であるが、次の予定時間もあり、夕日は諦め、イルカのモニュメントや灯台を写真に収めた。
後日、稚内灯台について調べた。
「野寒布岬」に立つ灯台は、高さは北海道で一番(42.7m)
当初はノシャップ岬の丘陵地に建てられたが、昭和41年、ノシャップ基地の拡張により現在地に移設された。
初点灯は明治33年(1900)12月10日
この灯台は宗谷海峡の航路を守る重要な役割があった。
1900年頃というと、日露戦争が1904年からなので、この戦争を見ていたのではないか・・・と想像しましたが・・・果たして灯台はロシア艦隊を見たか・・・?
稚内声問川の側の松浦武四郎「宿営の地」碑
稚内港北防波堤ドーム
ノシャップ岬
稚内灯台とイルカ
旧稚内灯台は映画「喜びも悲しみも幾年月」のロケ地の一つであった。
尊敬する松浦武四郎の著書「戊午東西蝦夷誌目録」秋葉實解読の中に、声問や稚内についての記録があります。
因みに、彼は宗谷地域を3度訪れている。(※ 声問の宿営地碑の記録より)
弘化三年(1846)
安政三年(1856)
安政五年(1858)
声問川・ノシャップ岬について
『六月五日、ソウヤ運上屋を出立てしてコイトイ番屋に到り、是より小舟に棹さし川まゝ上り、シュブントウを廻り、其の水源のあらましを志るす。・・・コイトイ番屋元を六月七日出立して、クシャルプト(※現在の南稚内)え到り、シリクラエンルン、トウベンナイ等を過ぎて、ノシャフ岬を廻り、本道なるルウランにて出会、バッカイ番屋元に到る』と記録し、彼はさらに「現在の根室にも同名有り・・・(納沙布岬のこと)と「北岬日誌と置なれども・・・」とこだわりを現わしている。
稚内では土木遺産になっている「稚内港北防波堤ドーム」を見て、稚内公園に立ち寄り、ノシャップ岬にいった。
夕日が絶景という所であるが、次の予定時間もあり、夕日は諦め、イルカのモニュメントや灯台を写真に収めた。
後日、稚内灯台について調べた。
「野寒布岬」に立つ灯台は、高さは北海道で一番(42.7m)
当初はノシャップ岬の丘陵地に建てられたが、昭和41年、ノシャップ基地の拡張により現在地に移設された。
初点灯は明治33年(1900)12月10日
この灯台は宗谷海峡の航路を守る重要な役割があった。
1900年頃というと、日露戦争が1904年からなので、この戦争を見ていたのではないか・・・と想像しましたが・・・果たして灯台はロシア艦隊を見たか・・・?
稚内声問川の側の松浦武四郎「宿営の地」碑
稚内港北防波堤ドーム
ノシャップ岬
稚内灯台とイルカ
旧稚内灯台は映画「喜びも悲しみも幾年月」のロケ地の一つであった。
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