気紛れ貴婦人願望バーバの徒然草~カムイミンタラに憧れ、悠々自適人になりたい

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新ひだか町真歌 松浦武四郎の記念碑 2013年10月15日

2013-10-21 20:11:50 | 旅行
真歌の丘には2012年6月にアイヌ民族資料館やシャクシャインの像を訪ねていたが、その後、同じエリアに松浦武四郎の記念碑が建立されたことを知った。何れ来たいと思っていたので、1年を過ぎて実現した。
松浦武四郎はアイヌの人たちにはいろいろな思いを持っていた。
また、彼の著書「東蝦夷日誌」にはシャクシャイン城址についても触れている。西蝦夷日誌の四編シツナイ領によると
『東にウエンナイ(小川)サツ(小川、人家あり)ルウトラシ(小川)上にチャシコツ(城址)、此處錫者允(しゃくしゃいん)の居城なりしと・・・』と記載がある。
その記念碑石碑台座には
『新ひだか町と松浦武四郎』と題して
『松浦武四郎は今の三重県松阪市に生まれ、幕末にアイヌ民族と深い交わりを保ちながら六度にわたって蝦夷地を踏査した。武四郎はこの静内地方に三度訪れて詳細な記録を残した。
 弘化二年(一八四五)に海岸沿いに歩き、地形、産物、歴史を記録。捫別川、三石川、鳧舞川(けりまい)を遡って、すべてのコタンを訪れ、その地に住むアイヌ民族の名を後世に伝えるとともに「心情の率直で、淳朴なことはたとえようがない。世の方々にアイヌ民族の美しい心を知っていただきたい」と絶賛した。
 アイヌ民族に導かれて蝦夷地内陸部深く奥まで踏査した松浦武四郎は百五十冊を超える調査記録には、随所にアイヌ民族が台地で育んだ生活の知恵と文化が記され、残された地図には九八〇〇ものアイヌ語地名が収められている。
 明治二年(一八六九)、蝦夷地を改称するにあたり、松浦武四郎はその名を「北加伊道」と撰定した。これは「ここはアイヌ民族が暮らす台地」という思いを込めたものである。・・・(中略)新ひだか町のアイヌ民族と松浦武四郎の民族を超えた交流と共になしえた業績を讃え、ここアイヌ民族の聖地、真歌の丘に記念碑を建立する。  二〇一二年五月十二日  』と刻まれている。
アイヌ民族資料館                           記念碑
  
同じ丘にあるシャクシャインの像                    シャクシャイン城址
  
国指定史跡「シベチャリチャシ跡群」
チャシは、アイヌの砦、あるいは儀式の場所と云われ、アイヌ文化を研究する上で重要な遺跡です。
「寛文9(1669)年の「シャクシャインの戦い」の拠点として知られています。」と書かれている。

この後、三石の温泉旅館蔵三へお世話になった。丁度テレビ局が旅館を取材しているところであった。
また、旅館のエリアが海浜公園と隣接しており、その所に函館に銅像のある高田屋嘉平衛の石碑があると調べていたので、探したが、公園内には見つからず、旅館の駐車場の端に移っていた。三石の昆布で大きな財をなした彼の拠点であったのだろう。
       
暗くて読みにくいが、この碑は「北方航路の開拓者であり、北方交易の先駆者として三石場所の産物の流通に多大な貢献をされた嘉兵衛の偉業を偲び、本町に在住する高田家子孫によって建立された・・・と書かれている。元は三石小学校前にあったそうですが、翁の故郷淡路島を望むこの地に移し、後世にその偉業を伝えんとするもの・・・。

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