昭和・私の記憶

途切れることのない吾想い 吾昭和の記憶を物語る
 

昭和45年 (1970年) 4月8日 ・ 2 「 天六ガス爆発事故 」

2021年06月09日 05時31分21秒 | 4 力みちてり 1970年~

昭和45年(1970年) 4月8日(水) 午後5時45分
「 ドーン 」
「 なんの音や 」
「 火事や!!」


昭和45年 (1970年) 4月8日 ・ 1 「 大阪市立都島工業高等学校建築科・65期生 」 の 続き

夕刻 五時頃、偶々外に居た。
この日、午前中に始業式を終えて帰宅した。
夕方になって、近所の
友ガキ・宮下と会い 互いの高校の情報交換をしていたのである。
彼は 大阪市立桜ノ宮高校へ入学した。
ここには多くの同窓生が入学していた。
斯の 「 青い鳥 」 然り、斯の 「 カーディガン 」 然り、私には興味津々だったのである。
    
ちょうどその時。
西の空に煙が上がっているのが見えた。
「 どこやろ? 」
「 長柄のほうやで 」
共に
煙の方向へ走った。
毛馬橋まで来ると、煙の上がっている位置が確認できたのである。
大した煙の様に見えなかった。
民家の火事程度と感じたのである。
「 天六の方やな 」
「 遠いなぁ 」
そう言って、それ以上進まなかった。
毛馬橋を渡らなかったのである。

ところが
夕食時、テレビのニュースを見て驚いた。
天六の地下鉄谷町線工事現場でガス爆発事故が起こったと報じていた。
大事故だったのである。
一度爆発が起こり。
それを見に集まった人人が、二度目の大爆発に巻き込まれたと 、・・・
そう報じていたのである。
大勢の死傷者が出たと報じている。 大惨事である。
私は、
「 見に行かんで良かった 」
「 あのまま、行っていたら、死んでたかもしれん
共にテレビを見ていた家族に、興奮してそう語った。

所謂
天六ガス爆発事故
私の高校生初日
始業式の日に起こったのである

翌日( 9日 ) 朝礼に於いて、
都島第二工業高校 ( 定時制 ) の生徒一人が事故に巻き込まれたと、校長が告げた。
当時は、天六駅から都島工業高校まで通学路として徒歩で通う生徒や教師が大勢いたのである

天六
天神橋筋六丁目の略称で、大阪人はテンロクとそう呼ぶ
昔は、阪神電鉄の路面電車や阪急電鉄千里線の始発駅
 大阪市営路面電車の停車駅もある交通の要所でもあった
斯の有名な、日本一長いアーケード附き商店街・天神橋筋商店街もここから始まる

周りには映画館等が有る、私が居住する地から最も近い繁華街であった

 

 
特に想い出深きは是
阪急電鉄千里線・天神橋駅

「♪ 走れ狼少年ケン ♪」・・・と、

昭和39年(1964年)小学4年生の秋、遠足での帰り
改札口を出て階段を降りながら、クラスの皆と唄ったこと
阪急・天神橋駅での想い出・・である

昭和44年(1969年)12月6日
地下鉄堺筋線(天神橋筋六丁目-動物園前)が開通した際
阪急千里線は大阪万博・EXPO'70の開催を機に、地下鉄堺筋線と相互乗り入れとなり
地上にあった阪急天神橋駅は無くなり、駅舎も改装され昔の面影は無くなって仕舞った

今や、改装された建物も無くなった
これも、時代の流れ
仕方なきこと・・なれど、想へば懐かしい

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バラ色の時 3 「 一寸した油断から魔が差す 」

2021年06月08日 15時45分37秒 | 4 力みちてり 1970年~


高校の課外授業として 「 万博会場 」 へ
造形の授業で必要だと説得して 購入した 
「 コダックインスタマチック カメラ 」 ・・で撮影


バラ色の時 2 「 線路の路肩に見付けた つくし 」 の 続き

一寸した油断から 

昭和45年 ( 1970年 ) 3月31日の事である。
友ガキ・坂尾、彼の最後の日が終った。

阪急上新庄駅の階段を上り、プラットホームへ。
階段を上った処で ( 進行方向の 前車輌 ) 電車を待っていた。
労働を終えた安堵感からなのか
一寸した油断からなのか
「 魔が差した 」 と、謂うのであろうか
私は
「 落ちろ・・・」
と、言って、友がき・坂尾の背を押した。
勿論の事、冗談である。
が ・・
友ガキ・坂尾、プラットホームから線路に落ちてしまったのである。
普段、プラットホームと線路の高さは見ている。
だから、直ぐに上がって来れるものと想っていた。
彼もそう想ったにちがいない。
・・・・ホームに入って来る電車に気付くまでは。
なんと
電車が、もうそこまで、来ていたのだ。
先頭車輌が、まさにプラットホームに入ろうとしているではないか。
私は慌てた。
友ガキ・坂尾は、もっと、慌てた。
プラットホームに手を遣り、上がろうとしたが、線路に踏みこんだ足を滑らせてしまった。
尻餅を着いてしまったのである。
「 ヤッター!」・・の声。
「 向うのホームから、上がれ!」 私は必至に叫んだ。
しかし、彼の耳には届かない。
元のこちらのホームに帰る事しか頭にないのだ。
それは、本能なのだ。
「 あ・・・ 」
と、ホームに居た他の乗客が声を上げる。
友ガキ・坂尾、持っていたカバンを、放り上げる。
そして、やっとのことで、ホームへ よじ登ったのである。
「 よかった・・」
皆の安堵の声。
電車はホームの直前で止まって居た。
吾々の場所から、50~60mくらい離れていたかと思う。

駅員に連れられて、駅事務所へ。
電車を停めたのである。
全て私が悪い。
叱られる
それだけでは済まされまい・・そう思った。
然し
肩すかし、
なんと、お咎めは なかったのだ。

然も、何故か
叱られたのは、坂尾の方だった。
それは、彼が私より、年長だったから。
吾々は、大学ノートに住所と名前を書かされ、直ぐに放免されたのである。
そして
何も無かったかのように ( 少なくとも、私だけは )
吾々は、普段どおり次の電車に乗って帰ったのである。

後で想うこと
あの時、ホームに入ってきたのが、
この駅で停車する普通電車だったので
事無く済んで、良かったものの
もし、それが
駅を通過するだけの車輌、急行か特急だったら、
生涯、取り返しのつかない事に成るところであった。

これは、「 運が良かった 」 だけのことでは済まされない。
危険の方が大きかったのである。

私の代わりに叱られた友ガキ・坂尾
「 滑って転んだのは、腰が抜けたから ・・」
彼にしたら、まさに
踏んだり蹴ったりの想いであったろうに

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茶目っけ

2021年06月03日 04時36分19秒 | 4 力みちてり 1970年~


額中絵画
中学校の教室正面、黒板の中央上に掛かっていた
そして此は、中学二年の時
額のガラスに写った 「 青い鳥 」 を見ていた時の絵画である
こういう、絵画の選定を
誰が、どういう基準で以て決めたのかは
分からないが、芸術とは、こういう事なのであらう

幼き頃から
野球をしているか、絵を画いているか 」 の、何れかであった私
小学生の時には、大阪へ転校してから2回、展覧会に入選した
当然、図画の通信簿は、5 の私
中学生に成っても、偶にではあるが、絵を画いていたのである
絵画に興味はあった
昭和44年(1969年)中学三年生
中学校に、西洋美術絵画本を販売に来ることがあって
1枚50円のサンプル版を、3枚選んで購入したのである
其の内・1枚が是
  ギュスターヴ・クールベ 作

「模写しやう」
早速、画いた絵が是 


模写
昭和45年(1970年) 高校一年生
芸術の授業で夏休の課題として、「海の絵を画く」 が、出題された
巷では、西郷輝彦の「真夏のあらし」が流行っていた夏休み
級友の平野、水阪、友がき・舟木、平野の中学の同窓・平山、西川 とで
小豆島のキャンプ場・グリーンランドへ泳ぎに行った
二泊三日のキャンプ・・・初めての経験であった
・・・リンク→バラ色の時 4 「 小豆島グリーンランド キャンプ場 」 

 
水着や飯盒・フライパンは持って行ったけれども
絵の具など、誰が持って行くものか
そこで
私は、 を もう一度、模写して提出したのである
しかし、案じた如く
「 実際観た海を画くことが、課題である 」
「 この絵、知っとるぞ、模写はは駄目だ 」
東京芸大出身の教師に、そう云われた
「 そうか、やっぱり ばれたか 」
「 さすが、芸大の先生やな・・この絵、判ったか 」 と、ばれた事が嬉しかった私であった
「 模写はいけませんか?」
「 駄目だ 」 と、採点は75点
「 駄目出しで、及第点なら・・・まぁ、いいか 」

面白い 面々
昭和45年(1970年 )当時、魅力的な人物が多かった。
教師も生徒も、中々面白かった。
共に、胸襟を開いてこその事である。

芸術の授業で 「 建物を画く 」 が、宿題された。
私は、偶々手にした雑誌の中に、
当時最先端であった、「 カーテンウォール 」 のファサードを持ったオフィスビルの写真を見つけた。
芸術の事業での、
建築パース ( 透視図 ) は 「 的外れ 」 ・・・とは、想ったが、
私はどうしても、画きたくなったのである。
そして、
う存分、パースを画いたのである。
期日、提出すると、
教壇に立ったまま、その場での採点された。
70
点 と。
「 やっぱり、芸術性が無かったかなぁ・・、まあ、こんなもんかな 」
・・・
と、少々不満ではあったものの
渋々納得したのである。


「 花田、その絵 貸して呉れ 」 ・・・と、吉田。
「 なんやお前、宿題しとらへんのんか?」
「 それに、大丈夫か、おい 」
「 大丈夫、大丈夫・・・心配せんでええから 」
頃合いを見て、
自分の宿題として持って行ったのである。
茶目っ気 を、出したのである。

果たして、
「 花田、75点 貰うたぞ 」
「 旨くいったなぁ・・」
「 でも、なんでやねん 」
「 なんで、俺の点より、お前の方がええねん 」
「 この絵、さっき 70点やったんやぞー 」
「 アハハ・・先生、ちゃんと見とらへんのや 」

教卓前の縦列を、手際よく こなしている教師の姿があった


「 それ(その方法)、ええな ・・」
「 花田、その絵、俺にも貸して呉れ 」 ・・・と、宮田。
調子に乗って、
さっさと、持って行ったのである。

「 何ぼ何でも、それは無理やろ 」
「 ばれたら豪いことに成るぞ 」     ( えらいこと )
・・・と、想いつつ
その成行如何んを、湧く湧くする想いで以て
吉田と共に、待っていたのである。

「 あかんかったわー 」
・・・と、宮田。
笑いながら帰って来た。

「 何ん ぼ、俺でも、1枚の絵で、3人に点は、やれんぞ 」
・・・やて、

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面白い 面々

2021年06月02日 20時18分24秒 | 4 力みちてり 1970年~

昭和45年 ( 1970年 ) 高校一年生
大阪万博開催中で日本中が活気に満ちて
もう、バラ色の瞬間 (とき) であった。

「 材料 」の授業中、
担当教師・黒川先生から
万博景気で如何に建設業界が儲かったか、
・・・と謂う、
伝説的エピソードを、聞かされた。

「 ここの勘定、私が持ちます 」
「 そう云って、
孔に通した紐でくくった一万円札の束を出すんや、
それを高々と持ち上げて、皆に見せると、
皆が、それはもう ・・ヤンヤヤンヤの拍手大喝采 や 」
パース なんて、こんなちっちゃなもん ( ハガキサイズ ) で 5千円 」
「 君等が画いているサイズで 2万円から4万円するんやで 」
「 そんなんやったんやで 」
・・・と、万博で
如何に景気が盛り上がったかを
面白、可笑しく、話すのである。
「 へぇー 」
「 そんなに、儲かるのんか 」
吾々の初任給 せいぜい2 ~3万円 頃のこと
私は、頗る景気の良い話に すっかり関心した。
然し、それもさるもの、
授業中こんな雑談ばかりする教師も存る
「 面白い、さすが高校、中学とは違う 」
・・・
そう、感心したのである。


大阪マーチャンダイズマートビル ( OMMビル )
昭和44年 ( 1969年 ) 竣工
大川・天満橋、傍に建築された 22階建のオフィスビル
大阪に於ける、高層ビルの魁であった
とにかく、吾々の大阪は、明るかったのである

  
  建築パース    office ファサード とインテリア                           精密描写のサンプル

「造形 」 の授業では
「 建築パース 」 や 「 精密描写 」 等を、学んだ。
私にとっては、未曾有の世界で、
それが亦 嬉しかった。
それは、
目標である設計士に繋がる。
・・・そんな気がした。

和室の透視図
宿題として着色したものである。
教師より指摘された部分が、私のオリジナリティ
16歳の個性 なのであらう。
「 これが、2万円か 」
・・・と、眼がくらんだ私
とにかく、こういうものを画くのが、好きな私であった。
そして
こういうものを画いている自分が、誇らしくもあった。

  斯のパース ( 室内透視図 ) ・・・見る人が見ると、基本的に間違っているところが 2 箇所もある
  これを 「 チョンボ 」 ・・・と、謂う


茶目っ気
「 花田、俺の分も、画いて呉れへんか 」
・・・
と、級友・吉田五郎
「 ええよ 」
「 で、どんなふうに画くねん 」
「 なんでもええわ、お前に任せるから 」
「 ほんまやなぁ、俺に任せるんやな 」
「 よっしゃ、でも、どうなってもしらんからな 」
「 分かってる 」

安請負い したものの
唯、頼まれて画くだけでは、物足りない、
・・・と
気分は、すっかり 遊び心 の中
「 驚ろかせてやろう 」 ・・・と
床ノ間の掛軸に、
「 五郎 」 という 書 を入れた。

「 ドヤッ 中々シャレてるやろう 」
・・・と、私は
茶目っ気 を、出した。
面白い奴 と、只それだけを 謂わしめんが為に。
尤も、これは、普段、真面目 故のこと


吉田五郎 
彼はハンドボール部キャプテン
インターハイに出場したスポーツマンで、
而も 学業の成績も良かった。
所謂、ワルでも、不真面目な奴、でも無い、
正真正銘真面目な生徒である。
その、長身で甘いマスクは
学校内の女子生徒 ( ほん僅かであるが ) に、
人気絶大であった。
・・・リンク→スター 誕生 と  茶目っけ

「 俺の名前を入れたんかぁ・・・」
そうは言ったが、
まんざらでもなさそうであった。

果たして、反応は如何
提出した吉田に、担任の木全先生
名古屋 訛りで以て
「 五郎 はおかしいぞ、掛軸に 自分の名前は無いぞ 」
「 書 を 書くなら、書くで、相応しいものを書くんだ 」
「 しかも もっと上手に書かないと駄目だ、これは下手だ 」
「 書 に成ってない 」
・・・
と、もう散々

私の、ほん些細な遊び心 は、
一寸した物語 へと、発展してしまったのである。
「・・・閉口した 」 ・・・と、吉田

堅物・木全先生
彼の生真面目は、
吾々の思惑を凌駕した。
それが亦、
面白いと想う、私である
 

コメント

卒業設計 ・ 「 工業高等学校 」

2021年05月02日 14時23分58秒 | 4 力みちてり 1970年~

「 池下先生 なんか、
この成績で、何で、設計事務所へ行きたいといっているのか、

と、言っているが、大丈夫だ、心配するな、行かせてやる 」
   ・・・リンク→人は、こうして人生を選択する


卒業設計

私の 『 設計事務所入り 』 の希望を推して呉れた 担任 ・木全先生。
「 卒業設計で、頑張った 」
これが、説得の決め手になった。 ・・・と、謂う。
さて
『 卒業設計 』 ・・・とは、如何なるものか。
 
                                        白丸が私が選定した敷地位置
課題
広島市内全域を再開発事業地として、
各自、設計する建築物を下記から選定し、
「 会館ホール 」 、「 共同住宅 」 、 「 学校 」 、「 図書館 」 「 等々 」
それらの建築物の用途に応じた敷地を任意に選定し設計を行うこと。

昭和47年 (1972年 ) 高校三年生の新学期、
卒業設計の課題が発表された。
これから一年、斯の設計課題に取組むのである。
私は、学校建築、而も 工業高校を選択した。
その理由は
エリート連中が会館ホールを選択していることは知っていた。
建築的にも、造形的にも、面白いからである。
さもあらん。
確かに魅力的である。
併し私は、
そんなことより、何よりも
広大な敷地に自由奔放、想うが儘、設計をしたかったのだ。
そしてもう一つ、
『 都島工業高等学校 』 への母校愛からだ。
卒業記念に、
これほど相応しいものが他にあるものか。
・・・そう想ったのである。


広島市基町高層アパート群 ・・斯の地を校地に選定
 
第一次案
私は建築科に在籍。
建築科の諸室については熟知しても、
他科 ( 電気科、機械科、土木科 ) は、はてな 如何がなものか。
高校一年生 ( 昭和45年 ) の文化祭で、其々の科を見学したことが有る。
然しそれは、設計目的で見学したものではない。
文化祭・・祭り・・として特殊なものを見たのだ

その時の、電気科で雷の放電実験。
球体から飛出る ⚡ イナズマ 「 パーン 」・・という音。 ・・・此を、眼の前で観たのである。
「 電気科ではこんな実験までするのか 」 ・・・と、感動した。
然し、建築物の設計となると、観るべきところが異なってくる。
器を造る為に、その室で具体的に何が行われるかを把握する必要があるのだ。
そこで、目をつけたのが他科に在籍するクラブのチームメイト。
電気科に 「 美映 」 と謂う一期下の後輩が存た。
彼に平面図 ( 間取りプラン ) を提示しながら、
所要諸室の詳細について尋ねると、意外と真面目に応えて呉れる。
だから、私も真剣に聞いた。
想わず 「 ハイ 口調 」 で、返辞していたことに気付いた私。
互いに顔を合わせ苦笑した。
 
第二次案
イメージと違った 第一次案を、思い切って大修整した。
そして 二次案として纏めた。
この案で以て 最終案に進むことにしたのである。
一学期末のことである。


夏休み
軟式野球部員の私は
高校最後、夏の大会に向けて
日々、練習に精を出した。
・・・リンク→ひまわりの小径
 
バックの建物 1階左端が職員室
練習中、グランド ( 運動場 ) を横切り、
建築科職員室に入る同級生・石田の姿を認めた。
「 あいつ、何してるんやろ 」
夏休みである。 用なぞあるものか。
「 職員室に所蔵されている、建築の図書を閲覧しに通っている 」
・・・と、そう云うのだ。
当時としては未だ珍しい複写 ( コピー ) して持ち帰るんだと云う。
さすがに 学年トップ ( 全校トップ ) の秀才。 ・・・リンク→マルチ
卒業設計に取組む その姿勢たるや、『 天晴 』 。
『 すごいヤツ 』 ・・・と、もう感嘆符。
唯唯 感心させられたのである。

卒業設計 ・建築概要

・・・すべての線と文字 ・・ 私の手描きによるもの
建築概要

学校建築計画の基本となる条件は あらゆる生徒にとって個人のもつ能力を発揮し、
その個性や能力を十分に伸ばすことのできる教育環境と施設をつくることであり
この条件が満たされることにより、はじめて能力に応じた教育をうける機会が等しく与えられることである。
学校の建築計画はこうした教育空間を建築的にいかに構成するかであり、
計画条件を学習と生活の側面から考えることによってなされるべきであろう。
学校の基盤は学校教育法におかれ、
その具体的内容はいわゆる学習指導要領によって与えられているが、
その教育的要求は変動していくものであり、
又 具体的運営はそれぞれの地方性を生かして学習活動が展開される。
学校施設はこのようなカラキュラムの多様な□況と変化に応じられるよう、
拡張と融通性をもったものとすべきである。
ところで現在までの学校の設計は歴史的背景の下で習慣化しており
受動的で画一的な教育方法と質朴で駆実を盲した学校建築という、
常識化した考え方の上に行財政的規制の中で定型化を余儀なくされている。
従来の学校建築のほとんどは次から次へと、ただ単純に教室を並べていく手段をとり、
建築的機能が低かったが、学校建築はただ過渡的な状態として満足させるだけのものではなく、
すべての施設は現在も、又、将来も満足させる融通性をもたせて計画しなければならない。
これは教育方法がますます多様化される方向にあることからも広範なカラキュラムに対する融通性や、
学校運営方式の変化に対する適応性が必要である。
そのため拡張性のあるブロックプランや空間の多目的使用可能にするような平面計画によって
これからの要求に対応させていかなくてはならない。
施設の標準化も製品化して量産によるコストダウンで質の向上が図れる部分に徹底させ、
むしろ全体の企画、配置計画、平面計画には
自由度をもつ多くのパターンを用意して標準化をしていかねばならない。
それでこそはじめて教科内容や教育計画を規制しない施設づくりが可能となるのである。
いずれにせよ、学校は施設の全ての部分に至るまで生徒の生活に関係する教育の場であり、
さまざまな学習活動は校舎のすみずみまで展開されるのである。
これに対応してあらゆる施設は全て学習施設として考えなければならず、
又、それらの施設が全て生徒たちの生活につながりをもったものでなければならない。
ことに成長していく生徒の生活を考えるとき
室内環境の良し悪しは重要で特に大気汚染や騒音公害の問題は切実である。
自然条件を十分利用するとともに、
地域性を配慮し各要素を総合的にデザインに個性のあるプランニングにより
豊かな教育環境とせねばならない。
このように学校建築の設計は教育空間のもつ機能と施設の基本的性格を理解し、
必要な施設の要素と機能を教育計画の立場から建築的要求へと引き出し、
又、地域社会の要求と現場教師の具体的な教育計画にのっとって
教育と建築の両面からアプローチしていかねばならない。
それでこそ学校建築が創造的な、又、地域社会とも結びついた施設となりうるのである。

・・・ 文字もデザイン ・・オリジナル
工業高校
この学校は 電気 機械 建築 土木の4科で構成された全日制の工業高校とする。
位置
基町地区中央公園北
都市の中心に近い位置にあり 交通の便がいい。
緑地帯と隣接して自然環境も比較的よい。
運営方式
特別教室型 ( UV型 )
普通教科は各自ホームルームで行うことを原則として
特別教科専門教科の実習実験は特別教室、教科教室や各科実習実験室で行う。
落ちついた学習ができる利点をもつこの型を学校の運営方式として用いた。
各自のホームルーム教室が与えられているため
ホームルーム活動及び生徒の持物の本拠が決定している利点もある一方
特別教室を必要なだけ設けると普通教室の利用率が低下するので施設の程度を上げるほど
不経済性が問題となってくる欠点もあるが、この問題を解決するために学校規模を大きくした。
生徒スウとクラススウ
生徒数960人 ( 一部女子含む )
クラス数24クラス
一科の一学年の生徒数80名
一クラス40名で一学年2クラス
校地ノコウ成
校地には校舎敷地運動用地、実験実習地などで構成され
それぞれの用地を十分に活用できるように、できるだけ効率のよいものとするように計画した。
教室とつながるテラス・バルコニー・中庭などの屋外空間を確保し、
校舎まわりを充実できるように敷地の規模・運動場・校舎の形などの関連性を考えて計画した。
運動場を南側にとると教室に落着きが保たれないとされるので 北側にとって
校舎敷地のむだなスペースも有効に使用した。
又、地域人口の予測とこれに対応できる校地が可能になったので
校舎を校地のすみから建てることをせず 最大規模を見通し全体計画に基づいた有機的な構成を行った。
各メンセキ
敷地面積  200 × 300 = 60000 ㎡
建築面積  16500 ㎡
延床面積
諸室の面積  (  ) 内は個数
定教室 ( 24 )  8 × 10 = 80 ㎡
物理教室と研究室  10 × 15 + 10 × 7 = 220 ㎡
美術教室と研究室  220 ㎡
社会教室と研究室  220 ㎡
化学教室と研究室  220 ㎡
各科研究室 ( 4 )  10 × 7 = 70 ㎡
校長室と応接室  6 ×12 = 72 ㎡
事務室  74 ㎡
会議室 ( 2 )  210 + 135 = 345 ㎡
図書館  30 ×15 = 450 ㎡
講堂  30 ×30 + 190 = 1090 ㎡
体育館  32 × 46 = 1472 ㎡
柔道場と剣道場  30 × 18 = 540 ㎡
運動ショウ
運動場としては教科の体育学校行事、生徒活動などに必要な広さを加えて
さらに屋内運動場 ( 体育館 ) の 構成面積との兼ね合いの上でスペースを計画し
全体に対する割合を 1/2 とした。
トラックの他 各種競技用のスペースを確保し
クラブ活動のうち一部のクラブのために大きな面積が専有されないように各コートスペースを計画したが
野球部やサッカー・ラグビーなどのコートはどうしても兼用しなければならなくなった。
トラック部分の大きさはトラック1周300mとし直線コース 150 m とした。
地イキ社会との関連
運動場・プール・体育館・図書館・会議室・講堂などはその地域の運動会・講演会などに利用され、
地域の人々の文化的交流の場として役割をなす。
講堂は会館建築の小ホール風に設計したため、
ここで音楽ショー、各種の劇など 色々な使用法が可能である。
ガイヨウ
運動スペース
ゆとりあるスケールの大きさを実現
学習スペース
落ちついた学習環境をつくる
管理スペース
校門から近接させる
といったブロックプランをたてて計画にあたった。

従来の学校建築はとかく単調になりがちで同じように廊下に面した教室群と単調な運動場から
できている場合が多かったが 好ましい空間にするため全体計画だけではなく
教室内のふん囲気、階段、廊下に対しての細かい配慮、
屋外の樹木、休息場、ベンチの配置などをきめ細かく行い、
校舎敷地と屋外運動場との関係は従来 校舎が南側に向けられて敷地の北側から建てられ、
このため学校規模の増大に伴い 凹型 又は 回型へと配置されるのが普通であったが
この型は運動場はまとまって広くとれるという利点はあるが
教室の日照通風などの環境条件の不平等ゃ運動場から教室への騒音・ほこり などの障害も大きく、
校舎のまわりの環境が貧弱になりがちなこと、校舎の周囲にも使えない部分の面積が以外に大きいこと、
増築に伴って運動場の面積が減少するなど欠点があるので 敷地全体を校舎敷地と、運動場とを分けるように計画し、
校舎廻りは豊かな環境をつくって安定した運動場面積を確保した。

校門から校庭まで1筋の通路で平面を大きく2つに分断して
下方を体育館・その他・学習スペース ( 電気科・機械科 ) 管理スペース
上方を学習スペース ( 土木・建築 ) 文化スペース ( 講堂 ) とした。
この通路がこの学校全体の中枢をなし、ある部分からある部分へ行くためにはかならずここを通らなければならない。
この学校を玄関から入ると major exterior space があり 下方に Lobby space がある。
ここが平面計画の第一段階となり管理スペースへと広がって行く。
major exterior space を通ると平面計画の第二段階である major Lobby space があり
ここから下方の tight space を
通り 機械科の学習スペースへと広がっていく。
又 上方には major Lobby space があり 食堂、講堂、図書館などの文化スペースへと広がっていく。
第二段階をさらにすすむと軸の中心となる、major interior space があり
ここから下方にいくと電気科学習スペースがあり、上方へ行くと土木科学習スペースがある。
この空間を平面計画の第三段階とし 次の第四段階へと進む。
平面計画の最終段階である major exterior space にくると 下方に運動スペース 上方に建築科学習スペースにつながる。
このように四つの大きな空間からそれぞれ、
上下の小さい空間に入っていくと緊張感が生じ生徒等にとって学習しやすい環境をつくり
逆に授業を終え、小さな空間から大きな空間へと出ると緊張感をほぐす。
このような効果をねらってのものである。
又 単位空間である1クラスの教室が共用スペースを介して学年空間を構成し、
それが集まって建築スペース・土木スペース・・・・を構成し、
それに体育館 講堂 管理スペース・特別教室群が有機的に集まって全体の空間まで広がって行くのである。
そして校舎空間と運動空間とがよくまとまることによってはじめて学校全体の空間が
その機能を充分に発揮することができるのである。
これを生徒側から見ていくと 1人の生徒はまず自分のクラスに属し 次にそれぞれの科に属し
全体にはこの学校の1生徒であるわけである。

卒業設計 ・平面図

卒業設計
『 工業高校 』 を、設計した。  ・・・この設計内容の評価は語るまい。
夏休み
夏の大会も負けて、その時点で引退。
愈々、卒業設計に集中する。
クーラーも、扇風機もない 西窓だけある 暑い部屋。
風も無い暑い夜は、温度計は30度以下になることは無かった。
午前中の涼しい時間帯を択んで作図した。
汗をかかないためだ。
座卓テーブルに製図版をおいた。
製図版には、
A1 ( 894 × 594 mm ) ケント紙に鉛筆で下描きした図面を張り付けている。
そして、下描きを上からなぞって、墨入れ ( インキング ) を行うのである。
道具は、T定規、三角定規を使って、カラスくち と 付ペン。
 カラス くち  付けペン
  当時実際使用したもの                          類似イメー

細い線は 付ペンを使った。
にじまぬように、付ペンの定規に当らない半分にのみインクを乗せて 一本一本 線を引いた。
断面図の地盤部分は 圧巻である。
「 よくもまあ 書いたものよ 」
・・・と、 この努力 並大抵 ではない。
こういうこと、好きだから出来る 業 である。

卒業設計 ・立面図/断面図


・・・細い線 ・・一本一本を付けペンでインキングしたもの
これぞ
吾 卒業設計
である


而今
此を観ても、よくぞやったと、そう想う。
斯の線一本一本に魂を注ぎ込んだのである。

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人は、こうして人生を選択する

2021年05月01日 20時14分20秒 | 4 力みちてり 1970年~

昭和47年 ( 1972年 ) 9月
来春の卒業、就職に向け進路を決める時期だ。
進路は概ね三つ。
設計事務所へ。施行会社へ。官公庁へ、及び 大学へ進学。
一途に一直線。 ( 当然のことながら )
私は、設計事務所入りを希望した。
併し、学校では
『 設計事務所入りは、成績優秀の者 』 ・・・と、されていた。
其れが 先達が築いて来た伝統、ステータスだったのである。
併し、私は成績が良くなかった。
それにも拘らず、
成績の良くない私が名乗り出たのである。
当然の事ながら
「 この成績で設計事務所入りを希望するか ? 」
・・・と、職員会議で問題になった。
『 以ての外 』 ・・・だと謂うのである。
其れは、学校のメンツに関わることでもあったのだ。
 成績表
就職を決める時期の二学期の成績は殊に悪い

 

卒業設計案を囲んで ・・・中央、私。木全先生。
誰の作品を開いているのであらう・・・・か

「 池下先生 ( 1A 2A 3A、の担任 ) なんか、
 「 この成績で、何で、設計事務所へ行きたいといっているのか 」
 と、言っているが、大丈夫だ、心配するな、行かせてやる 」
・・・と、誰もが反対する中、
高校三年間 ( 1B 2B 3B ) を 通しての担任 ・木全先生が、
私の希望を推して呉れたのである。

中央メガネが大土  右端が池下先生

大学進学 希望だった大土は、
「 やっぱり、設計の仕事をしたい 」
・・・と、翻意して設計事務所入りを申出た。
併し、彼のその願いは叶わなかった。
「 駄目だ 」 と、聞き入れて貰えなかったのである。

「 花田の場合、卒業設計で、頑張ったから、・・・」
級友・大土に、担任はそう言ったそうだ。
こうして彼は、初期の路に戻った。
そして、定時制大学に進学し、大阪府庁の役人に成ったのである。
若し、
この時 設計事務所入りを果たしていたら、
彼の後の人生は大に違っていたのに・・・
・・・リンク→プロローグ ・ 遥かなる想い

私の 『 設計事務所入り 』 の希望を推して呉れた 担任 ・木全先生。
卒業設計 で、頑張った 」
これが、説得の決め手になった。
設計すること が好きで、唯々その一念で頑張った。
そんな一生懸命が 先生を動かしたのである。
結果は後からついて来る。
斯くして
「 設計事務所へ行きたい 」
・・・という、私の希望は叶えられたのである。
私の親父は、
私の 工務店入りを望んでいたそうな
直接、私には言わなかったけれど、
倅の 現場監督の姿 が見たかったのである。
「 設計事務所では、ウダツがあがらん 」 ・・・と、心配していたそうだ。

 
1971年のニクソンショック         1972年 日本列島改造論
前年の昭和46年 ( 1971年 )  一期先輩達は、ニクソンショックの煽りで就職に苦労した。
ところが 年が代り、田中角栄首相誕生で、景気は一転した。
世は 「 日本列島改造 」 ブームに湧いたのである。
おかげ様を以て、
吾々は、一人当たり 5社 も 就職先を選べたのである。
巡り合せ良きは、吾の持つ運・・と、将来に希望を抱かせた。

学校が私に紹介したのは、京橋に在る従業員数40人の設計事務所。
初任給3万円、下請を主な業務とする事務所だと謂う。
私は下請と謂うのが気に入らなかった。
希望は、個人色の強いアトリエ事務所であった。
私は、建築家の下で仕事をしたかったのだ。
断ると
次に紹介されたのが、赤崎建築事務所であった。
10人程のアトリエ事務所で、初任給は4万円と謂う。
而も、入社試験は面接のみであるとのこと、
其は、なにもかも希望通りであった。 ( 願ったり、叶ったり )
茲に私は、「 事務所入り 」 を、決めたのである。

人は、こうして人生を選択する


応募に添付した写真
学校は
求人先を紹介して呉れる。
其の後は、自分で行うのだ。

面接の日取りを決めなければならない。
「 電話すること 」 ・・・その事自体 、緊張で一杯だったのに
相手の顔も見ないで 電話で以て要件を伝えること、
これまで経験のないことであった。 ( 我家に電話が入ったのはこの年 ( 昭和47年 )12月のこと )

思い切って 事務所に電話を入れ要件を済ませた。
たかが、電話一本、たいそうな・・・と、笑うなよ。
これでも、必死だったのだから。
ところでこの時
応対してくれた若い女性の声が柔らかで、きれいで、しかも話方が優しくて、
「 どんなに、いい女の人なのであらう 」
・・・
と、淡い心を 懐いてしまった。


昭和47年 ( 1972年 )
9月28日(木)、面接の日

事務所は西区立売堀に所在した。 (  ・・イタチボリ ・・・タチウリボリ に非ず )
地下鉄四橋線本町駅から四ツ橋筋を南に歩いて5分の処である。
地下鉄駅の一番南側の改札を出ると、すぐ右にある階段を上って四ツ橋筋に出た。
出ると すぐに、目を魅く きれいな事務所ビルを見つけた。
御影石の外壁に大きなガラス窓のつき出た、エレガントなファサード。
「 このビル、カッコイイナァ 」
・・・想わず、そう呟いた。

事務所に着くと、若い女性が応対してくれた。
「 この人が、電話の女の人か 」 ・・・イメージどおりの人であった。

所長室に通された。
「 アッ !」
さっき私の目を魅いた建物のパースが飾られていたのである。
偶々の偶然か。 否、必然か。
何か知らん、運命的なものを感じた。

一人緊張の中
面接に現れたは、番頭・横山さん。
( ・・ 所長の赤崎先生は出張とのこと )
挨拶を済ませ。
先ず私から、
学校から渡された内申書 ( 推薦理由、人物評価、成績 ) の入った封筒を手渡した。
次に横山さんから、
今回の求人についての説明が為された。
それは、
『 無垢な新人を採用して、事務所独自のカラーに育成する 』
との、事務所の経営方針に則り、新卒者を採用する。
来春の新規採用者は二名。
赤崎先生の母校である大阪大学から、一名。 ( ・・美濃さん )
横山さんの母校である都島工業高校から、一名。 ( ・・私 )
・・・と謂うことであった。
茲で、番頭・横山さんが私の12年先輩だということも知った。

斯の幸運、人生に於ける 巡り合せというもの。
私は、この流れに乗ったのだ。

面接と 緊張したものの、
持参したパースなどを披露した外は、
別段 これといったものは無かった。
「 志望動機を述べる 」 ・・ことも無かったのである。
『 都工・建築卒 』 ということだけで充分だったのである。

斯くして、緊張して赴いた面接もあっけなく終わった。

帰宅途中、
「 顔見せ・・・だけで良かったんや 」
・・・そう想うと、嬉しくなった。
ところが、
頂いた名刺を机の上に置き忘れて帰ったのに気がついた。
「 ワチャー 」

 採用通知書
月が変わって10月初旬
事務所から
採用通知が届いて就職が決まった。

「 設計士に成る 」
10歳 ・小四の決意。
「 一級建築士になって、設計の仕事をする 」
と、15歳 ・中三の表明。
此が、『 吾 目標也 』 と、一直線。
よくぞここまで来た。
復々 「 バラ色の人生が来る 」 ・・・と、そう想ったのである。

私が、設計事務所入りを決めたとき
親父は己の希望を、腹に飲み込んだ。

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ひまわりの小径のレコード と 奇特なヤツ

2021年04月29日 20時09分07秒 | 4 力みちてり 1970年~

昭和48年 ( 1973年 ) 2月
就職も既に決まり、卒業設計も終え、   
高校生としての卒業  ( 27日が卒業式 ) を待つ身は、
凛とした張りつめた空気はもはや無く
何かしらん、自由な解放感の中にいた。
そんな中
吾々の専らの関心事は、ステレオでレコードを聴く ことであった。
私は、チェリッシュ 「 ひまわりの小径 」、
さらに、中学二年生の想い出 「 青い鳥 」 を、「 涙の季節 」 を、聴きたかった。
然し私は、レコードプレーヤーなぞ持ってやしない。
だから、就職したら、最初の給料を貰ったら、直ちにステレオを買おう
そして想う存分レコードを聴こう・・・そう、決めていたのである。
然し、そうは謂っても
想いは募るばかり、やはり待ちきれなかった。
 
リンク→凄いやつ  リンク→青 い 鳥 リンク→古いお寺に ただひとり 

下辻ゃ水阪は、1年 2年時の同級で 3年時はA組 
私は3年間続けてB組、担任は3年間
木全先生 
本ブログに登場する者のみ記名

奇特なヤツ
「 買ったレコードを一番に聞かせる 」 ・・・が、条件で、
級友・中根が買って来て呉れると言う。
そこで私は
「 ひまわりの小径 」、「 古いお寺にただひとり 」、「 だから私は北国へ 」、
そして、「 青い鳥 」 の順位で、彼にシングルレコードを3枚、托したのである。
愈々明日は、myレコードが持てる。
・・・と、沸く沸く浮き浮き
果して翌日、
級友・中根は約束通りレコードを 3枚買って持って来た。
然し、3枚の中には肝心の 「 青い鳥 」、「 ひまわりの小径 」 が無い。
探しても無かったから、
替わりに チェリッシュの新曲 若草の髪かざり 」 にしたと言うのだ。
「 聞いてみたら、これが一番良かった 」
・・・と、級友・中根が言う。

任したのだから、是非もない。
   myレコード
斯くして、
念願の myレコード を手にした私
その日に早速、級友・下辻のステレオで斯の曲を堪能したのである。
チェリッシュなぞ何の感心も持たない級友・下辻
それよりも
「 是、ええやろ、気に入ってるんや 」 と

♪ 道のむこうへ出かけよう
今がとおり過ぎて行く前に

愛と風の様に・・・♪
当時、TVコマーシャルで流行っていた、
ケンとメリーのスカイラインのテーマ曲
BUZZの新曲・愛と風のように
を、披露したのである。

やはり、無いもんは欲しいもの
青い鳥 と ひまわりの小径 が欲しい・・と、想いが更に募った私
「 タイガースの 青い鳥 持ってる奴おらんか 」
教室で
皆にそう声を掛けると
「 持ってるぞ 」
・・・と、
級友・平井が反応した。

「 赫々云々 」 ・・これまでの経緯を説明すると
「 よっしゃ 」 と、一言。
棚から牡丹餅 か 天から授かりし幸運か
呉れると言う。
更に、明日持って来て呉れると言うのだ。
奇特な奴である。
 
「 青い鳥 」
斯くして私は手に入れた。

私と級友・平井との顛末を眺めていた級友・木南
現役時は硬式野球部のエースで甲子園を目標とした強者である。   (ツワモノ)
その彼が意外にも、チェリッシュの ひまわりの小径 を持っていると言う。
そして、青い鳥 と交換しようと言い出したのだ。
断然 「 ひまわりの小径 」 が欲しい。
なれど

「 青い鳥 」 は、級友・平井から貰ったばかりのもの、
而も未だ一度も聴いちゃいないのだ。
それを、易々と交換なぞできるものか。
そのことは、級友・平井に対して済まぬこと。
出来ぬことである。 ・・・
と、頭では分かっていても、
でも、どうしても欲しいという気持ちが勝るのだ。

私は困った。
挙句私は、
斯様な場合は 正直が一番 ・・・と
「 交換してもええか 」
・・・と、
級友・平井に素直に問うた。
すると

意外にも彼の返答は
「 青い鳥はお前にやったもの、お前のものであるから、
お前の好きなようにしたらええ 」 ・・・と
彼のその詞に
私はシビレタのである。

今も尚
私の手許に存する 
「 チェリッシュの ひまわりの小径 」

斯のような経緯で以て手にしたものなのである。

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メンチ切ったやろ

2021年04月29日 05時08分44秒 | 4 力みちてり 1970年~


男一匹ガキ大将

本宮ひろ志 作 
昭和43年(1968年)~昭和48年(1973年)
週刊少年ジャンプ連載
主人公の戸川万吉少年が、ケンカに勝利して
 
全国の総番長になる物語である。

「 ケンカに勝つ 」
・・・は、豪快にして豪傑と、
男児ならば誰しもが抱く憧れであり
圧倒的な力で以て全国を制覇してゆく物語に
吾々少年は、胸を躍らせたのである。
「 天下を取る 」
・・・は、男のロマンである。 ・・・から


「メンチ 切ったやろ」
昭和47年 ( 1972年 ) 高校三年生、晩秋頃の事
いつもなら
大川端を徒歩で帰宅する私であるが、
此の日は偶々、級友の藤山と共にバスで帰ることになった。
吾々は、都島本通りのバス停で守口車庫前行きのバスを待っていた。
 藤山  ( ・・・リンク→ 「 チャ・チャ・チャ・チャ 」 )
暫らくすると、バスがやってきた。
私は何気なくバスの窓に眼を遣ると、
前方の座席に帽子を深く被った他校の男子高校生を認たのである。
只それだけのことであった。
のに・・・
その男子高校生
こちらに向って、何やら云っているではないか
そして顎をしゃくっている。              (アゴヲシャクッテイル)
おいおい、あいつ からんでくる気やぞ 」
「 相手にすんなよ 」 ・・・と、藤山。

バスが停止した。
一番前にあるバスの入口から乗込もうとすると、
驚いたことに
その男子生徒、降りて来たのである。
突っ張ってはいるものの、
如何せ小柄なるかな ・・・威圧感が全く無い
襟章を見ると、他校生なるが下級生
下級生のくせに、私にケンカを売る為に、わざわざ 下車したのである。

相当 頭に血が登っている。
「 なんや、こいつ 」
私は、緊張もせず、
只シラケたる心持で以て彼を迎えたのである。

「 メンチ 切ったやろ ! ! 」
「 メンチ ? 」
「 メンチ て、何や 」
「 眼付けたやろ、云うてんねん ! ! 」    (ガンツケタヤロ)
「 なんやそれ 」
「 ヤメトケ、ヤメトケ 」
相手になるな 」 ・・・と、藤山。
勝手に向うから、火の粉が飛んできたのである。
これをとんだ災難と謂うのであらう

「 後で、赤川鉄橋へ来い 」
「 さしで勝負したら ! 」
「 サシ て、何や 」
「 一対一 謂う事や 」
「 そうか、そう謂うことか 」
「 判った、判った 」

私には、端から戦意も無く
恐怖もなかったのだから、喧嘩にもならない。
彼が独り気を吐いたまでのこと。
己の男気を見せたかったのであらう。
「 赤川鉄橋で待っとるからな 」
・・・と、恰好をつけると、
それで満足したのであらう
次のバスが来たところで 帰って行ったのである。

「 なんや、あいつ 」
一体全体、此の出来事は何だったのであらうか
「 単に からみたかっただけなんや 」
・・・と
藤山と共に苦笑して、
吾々は 彼の次のバスで帰ったのである。

勿論、赤川鉄橋には行く由もない。

私にからんできたあいつ
単に、「 ワル 」 に、憬れたのであらう。
メンチを切る、眼を付ける、差しで勝負
・・・と、
任侠映画擬きの台詞、
彼等の定番である。

此を、どうして好んで使うのか
私には、不思議に想えてならないけれど
彼等にとっては、
きっと  男のロマン を感じる台詞なのであらう。



バンカラと検索すると出た画像

バンカラ
あいつが 「 ワル 」 に憧れたる志向、分らぬでもない
私も、戸川万吉に「 男のロマン 」 を感じる人種なのである。

そして、「 バンカラ 」 が好きである。
「 男は、豪快にして豪傑なれ 」
・・を、よしとする。
然し私は
「 バンカラ 」 を、豪放と勘違いしなかった。
単なる野蛮、粗暴は、
単なる 「 ワル 」 ・・・バンカラ とは呼べない。


バンカラ は
反逆精神とエリート意識を象徴するもの
男は豪快にして豪傑なれ

それが男のロマン

此が、私が憧れとするところなのである

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凄いやつ

2021年04月28日 20時08分19秒 | 4 力みちてり 1970年~

「 わしら、チョンコウ や 」
それが、
脅し文句であった。

昭和45年 ( 1970年 ) 3月 赤軍派による
日航機よど号ハイジャック事件
当時の私は、
朝鮮についての認識はこれを知っている程度でしか無かった

「 チョンコウ 」
・・・朝鮮高校のワル・・と、
電車通学する同級生から、その存在を聞かされていた。
「 今、一番ワルイ奴ら 」
・・・と、それが吾々の共通の認識だった。
しかし、自宅から徒歩で通学していた私
それは 「 噂話 」 程度でしかなかったのである。
自分には、「 縁遠いもの 」 と、そう想っていた。

昭和47年 ( 1972年 ) の秋頃
私は、右手にカバンを持ち、
左手には製図した図面を丸めて、
それをビニール包に納めたものを持って
下校中であった。
家で図面の残りを製図しようと、
まだ
西日が横から射す頃校門を出たのである。

善源寺町一丁目に差しかかった時、
前方左側の木造アパートから、大柄の3人組が出て来た。
そして、こっちの方に向かって来る。
夕暮前で、人通りも多い
まして、毎日往復している路でもある。
慣れ故の、安堵感からか、危険など微塵も感じなかった。
だから私は、普通にすれ違うもの と、たかをくくっていた。
ところが3人組、
私の意に反し、正面に立ち塞がったではないか。
昨年の11月12日
親友水阪 共々、
ヤンキーにカツアゲされた直ぐ手前の、同じ道路上である。
・・・リンク→パトカー に乗って帰宅する

ちょうど 交差点の中央であった。

「 わしら、チョンコウ や 」

と、脅しをかけてきた。
私は、「 またか 」 と、想ったが
前回と同じく、恐怖感は起きない
私の右前方 ・彼等の左後方 5、6メートルに金物工場があった。
そして其処に、複数の作業員を認めたのである。
私は その作業員に向かって、
「 カツアゲされている、助けて下さい 」
・・・そう、言った。
大柄の3人組
何も言わずに、私の後方へ歩いて行ったのである。

「 友達同志で喋っとるんや ・・想うとった 」 ・・・と、作業員。
「 わしら、チョンコウ や 」 の脅し
3人組が便乗して使った、 「 脅し文句 」 に過ぎなかったのかも知れない。
いずれにしても
帰り路での、チョットしたドラマは、事無きに終わったのである。

通学路 家 ・・・学校  徒歩で 20分程だったか? 

凄いやつ

同級生
 松井
柔道三段、
高校柔道では大阪市に於いて 五本の指に入る程・剛の者である。
彼も通学途中、「 チョンコウ 」 に絡まれたと謂う。
そして、殴られた と謂う。

「 お前みたいな、強い奴が、なんで殴られたんや?」
「 相手、そんなに強かったんか?」
「 そやない、殴らせてやったんや 」
「 なんでまた?」
「 あいつらに、俺は絶対負けへん 」
「 けど、俺があいつらをやっつけてみい、あいつら絶対 誰かに仕返しをする 」
「 他の都工生が、もっとひどい目に遭うやろ、だから我慢したんや 」
「 フーン・・・」

「 凄いやつ やなあ 」

真に強い者 は、幼稚な喧嘩などしない
彼の 堂々たる余裕に
感心し、感動した 私であった。

因果応報
普通の人生をおくっている者が
事故や事件に遭遇する機会、ざらにあるものでは無い。
「 パトカーに乗って帰宅する 」 ・・・の、体験も、
「 わしらチョンコウや 」 ・・・も、
私の生涯に於いて、稀有な体験である。
しかし、遭遇するは、自分にそれなりの原因がある様で
是を 因果 と、謂うの哉
上手く表現できないが
生き方 に於ける ひずみ や ズレ
普段、意識すらしない、これらが蓄積された時
事故や事件に遭遇するタイミングを造りだすのであらう。
それは
起こるべくして、起こったのである。
・・・そう想う。


昭和47年 ( 1972年 ) 5月13日 
千日デパートの大火災  ( 午後 10時半頃出火 )

深夜に放映されし大惨事の此のニュースを私は見逃した。
「 凄かった 」
・・・と、翌朝、親父に聞かされた。
学校でも この話題で持ちきりで、
吉田五郎も
「 おーっ、見とった 見とった  」
・・・と、興奮の面持ちで語った。

コメント

パトカー に乗って帰宅する

2021年04月28日 05時07分47秒 | 4 力みちてり 1970年~

昭和46年1971年) 高校二年生の秋
秋の一日遠足は、
大阪府河内長野へ行くことになった。
誰が言い出したか 「 一日遠足は、私服で行こう 」・・・と、その意見に皆は盛り上がった。
私は、困った。
参考書を買う 」 という理由なら金を出して呉れた親父も、
「 着るものが欲しい 」 と、言うと、
「学生服がある!」 ・・・が、定番だった。
だから遠くへ出かける時は、いつも学生服を着たのである。
( 尤も、「 学生服を着る 」 ということ、苦にも していなかったけれど )
クラスで、
「 なんだかんだ 」 と、意見が出たが、
担任 ・木全先生の意見もあって、結局、学生服で行くことになった。

私は、内心、ホッ としたのである。

「 チャン、チャン、チャ・チャ・チャ、チャ・チャ・チャ・チャ 」
入学以来、学校の外へ出かける度に、
これ ( 建築科学生歌の手拍子 ) をやった。
「 何処へ行っても、これ をヤル、昔から変らない 」
・・・と、担任教師が呟いた。

カツアゲ
昭和46年 ( 1971年 ) 11月12日(金) 午後5時30分
私は、同級生水阪 と共に、
心をときめかせて
学校の外 5分の所にある善源寺楠公園 ( 私の通学路 ) の電話BOXへ向かった。
学校の玄関にも公衆電話はある。
それにも拘らず、ワザワザ、出かけていったのである。

↓ 隅切部分が事件の位置 ・・イメージは1974年


公園の電話BOXの向いには交番がある。( 巡査は常駐しない )
そして、交番の直ぐ側の交差点にさしかかった時である。
チョット、金貸して呉へんか
背後から、ヤンキー3人に、囲まれた。
「 エッ?」   

「 これから、京都へ行くんや、・・、金貸して呉へんか 」
「 これだけ(10円)しか、無い・・」
丁度、電話を掛けるために手にしていた、10円玉を見せた。
徒歩で通学していた私、普段から現金に エン が無い。

この時未だ、状況を認識していない。
「 時計でも、ええんヤ 」
・・ここで、初めて 事を認識した。
「 時計、持って無い 」 ・・・と、腕をみせる。

「 ホナッ、お前 」
隣に居た同級生水阪に、矛先が周った。
「 お金、持ってません 」
「 時計、しとるやろ 」
「 困ります 」
奪おうとはしない。手を出さないのだ。
大声も出さない、静かに威圧していく。
横に居る私は、危機感を感じない、緊張もしなかった。
呑気な訳ではない。
主犯の男、なかなか、長けているのだ。  (タケテイル)
他の二人は、無言のままである。
背の高い一人と目が合った、その男は 「 ニヤッ 」 と、笑った。

ケガ、しとないやろ
とうとう
同級生水阪、時計を外した。
手渡すと、
3人、足早に去って行ったのである。

「 カツアゲ された 」 

交番で
吾々二人は、学校に帰り、建築科長上野先生に、申告した。

「 男児二人して、ナサケナイ 」
・・・という顔をされ、本当になさけなかった。
伴われ交番へ ・・ ( 交番は学校の直ぐ隣、通用門の横にある )
交番には巡査が、三人居た。
状況を説明すると、
★★星の巡査、直ぐに質屋を当たる手配をした。
近くの質屋に腕時計を持った3人が来た、・・・という情報が入った。
運転免許証を提示した事ことからバレタ のだ。
犯人の身元が判った。
前科があった。
3人の顔も把握した。

さすが、警察である。

★★星の巡査、逮捕すべく、颯爽と出かけて行った。

交番で待っている間、
★星の若い巡査が、
さっき説明したことを繰り返して聞いては ( 警察 ) 手帳にメモしている。
この巡査、
さっき、★★星の巡査に説明していた時、横で聞いていたはずなのに・・・
「 メモを取る、必要があるのか 」
・・・と、思われることまで書き込んでいた。

入れ替わり、★★星の年配の巡査 ( 鼻の頭が赤い )、
又、同じ様に同じ質問をする。 これにはマイッタ。

しばらくすると、
「 主犯格の男を捕まえた 」
・・・と言って、★★星の巡査が帰って来た。
他の二人は分らない。
都島警察署に連行したと言う。
同級生水阪は、
犯人の確認と、調書を執るため都島警察へ向かった。

私は、
手伝って欲しいと言われ、
パトカーに乗って出かけることに成った。
犯人逮捕に一役、雇われたのである。 (カワレタ)
「 背の高い男 」を、捕まえに行くと言う。
交番からパトカーに乗って、都島橋を渡り、天六 ( 天神橋筋六丁目 ) 方向へ
国分寺か長柄西かに、さしかかった。
「 右折禁止ヤナ 」
「 緊急時のランプ点灯さしたら、大丈夫ヤ、行ける 」
・・・巡査が会話している。

パトカーは、きずかれない様にと、
「 背の高い男 」 の家がある道路の曲がり角で停まった。
「 犯人の家に着いたら、[ 友達です ] 言うて、呼び出して呉れ、出てきた所を捕まえるから 」
名前も教えて貰った。
その時の私は、事の重大差を認識していない。
・・・危険の中に居たのだ。
私は、巡査に、言われるままに従った。

玄関のある立派な家だった。
「こんばんは・・・○○サン、居ますか 」
家の人が出てきた。 姉の様だった。
暗くなって、学生服を着た高校生が訪ねてきたのである。
雰囲気を察したみたいだ。
帰ってない 」 と、言う。
私は巡査に報告した。
居ない と判ると、ひきあげだと言う。
姉に何事かも告げずに・・・

私が、パトカーの後部座席に座ると、
窓外に、さっきの姉の顔があった。
姉が、けげんそうな顔をして、覗き込んでいたのである。

警察署で
都島警察署に着くと、
同級生水阪、
刑事と被害届の調書を作成中だった。
「・・・ケガ、しとないやろ・と言われた時、ブルブルと身震いするほど、恐ろしかった・・・」 
刑事が読み上げている。
そんなに、大げさに書かなくてもいいのに
亦、大きな声で・・・
捕まったのは、主犯の一人だけで、他の二人はどうなったかは知らない。
こちら側から腕時計を手渡している為、「 恐喝罪 」 に当り、
無理やり奪い取る 「 強盗罪 」 には当たらない。 だから、罪は軽いと言っていた。

私は、手続きの残る同級生水阪より先に、帰宅することになった。

私は、
パトカー に乗って、帰宅したのである。

心ときめかせて、電話するはずだったのに
事が起こらなかったら、楽しかったはずなのに
わざわざ、学校の外へ行って電話をかけようとした
これを、「 チョットした気の緩み 」 ・・・と、謂うのであらう
然し それが因で、その結果、                                ソレガモトデ
事件に巻き込まれる事になってしまった
「 運が悪かった 」 ・・・と、笑いごとでは済まされまい
原因は己にあるのだから

ところで 私が、捕り物劇をしていた頃、
連絡を受けた地元 ・大東町の交番の巡査が、私の家に、帰りが遅くなる旨を報告に着た。
「 警察にいるから 」 ・・・と、聞かされた母は
「 うちの息子は、警察に捕まるような、悪い事をする子では無い 」
・・・
と、言切った。
「 いやいや、その反対で、された方だ 」 と、巡査・・・・

昭和46年(1971年 ドルショックの年
一期先輩達は就職難であった。

 

 TVドラマ 「 俺は男だ!」
タイトルからしたら、
もう一つ物足りなかったが
主演の森田健作に、私が似ているからと
家族全員(5人)で観ていた。

「 心ときめかせて 」
何に そう 「 心をときめかせて 」 ・・・たのかは、
気が向いたら、語ることにしやう。

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力 満ちてり 「 古き伝統 輝く歴史 」

2021年04月09日 05時54分53秒 | 4 力みちてり 1970年~

昭和45年 ( 1970年 ) 4月8日 ( 水 ) の 天六ガス爆発事故。
死者79名、重軽症者420名、家屋の全半焼26戸、爆風を受けての損壊326戸・・・・
こんな大事故が起きること、誰も予測出来るものか。
まさに 大惨事であった。
・・・リンク→昭和45年 (1970年) 4月8日 ・ 2 「 天六ガス爆発事故 」

弁当 食うのヤメーッ !
翌日の9日 (木)
新米の高校一年生、最初の昼食の時間であった。  
入学したばかり、
未だ 友達はいない、40名は黙々と弁当を食べていた。
突然 
上級生40名が、教室になだれこんできたのである。
教室の前と後ろ、机と机の通路に上級生が立ち並ぶ。
「 何が起こったのか。何が起こるのだらうか 」
吾々は、状況を認識できずに、唖然として見上げている。
実に見事なタイミングである。

教壇前に立った リーダー格が怒鳴った。
「 弁当、やめーッ 」
機先を制された吾々は、慌てて弁当を片付けた。
「 今から、校歌を教えてやる!先に唄うからよく聞いとけッ!」
そう云って、
上級生全員で大声を出して唄いだした。

♪ ヨドノカワモニハナカゲウツリテユウユウ
タルナガレメグレルアタリ
ソノナモユカシキワガミヤコジマフルキデントウカガヤクレキシ
ミヨワガボコウノスガタヲ ♪

窓も開いていない密閉された鉄筋コンクリート造の教室。
そんなところで、40名が、有りっ丈の声を出して唄っている。
それはもう、やたら大声で怒鳴っている。 ( ・・・としか、聞えなかった )
そんなもん、何を唄っているのか分るものか。
上級生、歌い終わった。
リーダー格、
「 分かったかァ!! 」
「 分かりません!」 ・・・反骨な奴が居た。 ( ・・・リンク→反骨な奴のレジスタンス  )
「 何ッ!! ! 」
「 生徒手帳、出せッ!! 」
( 上級生が ) もういっぺん唄うから、伴に唱へと云う。
そんなもん、
即座に覚えれるものか。
それでも吾々は、一生懸命唄った。
「 声が小さい ! ! 」
リーダー格が、発破をかける。

始業式後の突端の事であった。
度肝を抜かれた。 それはもう、ビックリ したのである。
上級生としては、さぞかし シテヤッタリ であったろう。
これは、毎年恒例であり、伝統であった。
吾々も亦、次の年 同じ事を行ったのである。

自己紹介
新入生は自己紹介を行う恒例の行事があると謂う。
それは、
応援団、三年生、二年生、一年生と ロの字に並び、
中央に立つ応援団長まで唯一人進み寄り、
出身中学校名と姓名を名乗る。
「 声が小さいと殴られるぞ 」
・・・と、クラブの先輩が脅す。

昭和45年度は4月28日( 火 ) 仁川 ( 兵庫県宝塚市 ) で、行われた。

私は、前日の4月27日(月)、
わざわざ赤川鉄橋を渡り、 
淀川右岸 ( 淀川区側 )で大声を上げる練習を行って、その日に備えたのである。
ただ・・・殴られまいと

ヨドガワチュウガッコウ シュッシン ハナダユキノリ !
良しッ!!

これも亦、伝統の行事であった。
「 高校とは 斯くなるものか 」
私は一連のこうした 風 が、
嬉しくて、誇らしくて堪まらなかった。
他の高校にいった 小・中の同窓・安宅に、 ( 『 お喋り 』・・・リンク→びっくりしたなぁもう !! )
斯くも自慢げに、話して聞かせたのである。

力 満ちてり  
意気は湧けり  
剣とりて 皆 勇みたて
おお選手達
意気は湧けり  戦い抜け  
ああ俺等の選手達よ

これぞ建築の意気
栄えをばゆずらぬ 俺の胸
めぐり来たるこの時
鐘は鳴る 意気は鳴る
かざせ栄冠の盾を
起てよ 勇み立て
これぞ 建築の意気
俺の誠 空とぶ雲となる

声が出なくなるまで、大きな声を出す。
一丸と成ることに、意義がある。
 

 都工祭・体育祭 昭和47年 ( 1972年 )

校歌

一 淀の川面に 花影うつりて   悠々たる流れ めぐれるあたり
  その名もゆかしき わが都島  古き伝統 輝く歴史
  みよ わが 母校の姿を
二 秋空高く 青雲しのぎて   そびゆる金城 吾等仰ぎつ
   雨にも風にも たゆまずうまず まことを究め 素子をつらぬく
   みよ わが 学徒の精神を
三 いしづえかたく 浪速に開けし 工業の道 うけつぐ吾等
   理想は高く つとめは重し   若き力に 技術を鍛えん
   みよ わが 使命の栄光を

建築科応援歌
  ←クリック


昭和50年 ( 1975年 ) 1月15 日 撮影

古き伝統 輝く歴史
唄わば
吾生涯で最も輝いた学徒の時代
・・の、記憶が蘇える
 

コメント (2)

昭和45年 (1970年) 4月8日 ・ 1 「 大阪市立都島工業高等学校建築科・65期生 」

2021年04月08日 18時38分38秒 | 4 力みちてり 1970年~

昭和45年 (1970年 ) 4月1日 ( 水 )
大阪市立都島工業高校・建築科に入学した
意気揚々、高校生になった自分が誇らしかった。
4月8日 ( 水 ) は、始業式。
私は新品の自転車に乗って 颯爽と登校した。

大阪市立都島工業高等学校  ( 通称 都工 みやこー )
建築科 一学年80名 全学年240名  襟章 A
土木科 一学年80名 全学年240名  襟章 C
電気科 一学年80名 全学年240名  襟章 E
機械科 一学年80名 全学年240名  襟章 M
機会電気科 一学年40名 全学年120名  襟章 ?
工業化学科 一学年120名 全学年360名  襟章 ?
6科 総勢1440名
科と科の交流は無く、6校の単科校が一つの学園を構成したようなものであった。
( 昭和45年には 他に産業科という40名の 特殊なクラスが一つあったが、
  正規のものか否かは不明。  一年で廃止になった )
大阪市立都島第二工業高等学校 と謂う 『 定時制 』 を併設していた。 ( これ以上のことは、分からない )
 ←クリック
校旗と校章
大阪市の市章 『 澪標 』 、
五つの 澪標 みおつくし で、大阪市花 『 梅 』 をデザインしたもの。
 『 都島工業学校 』 当時、大阪市の代表校として、
昭和4年6月にありて、昭和天皇の御臨幸という 名誉を賜った。
戦後になっても、
学力は高く 「 北野高校 」 か 「 都工 」 と謂われた。
此れらが、 『 天下の都工 』  と 称号された いわれ だと謂う。
時代の申し子・・・だったのである。
 臨幸記念
校歌

淀の川面に花影うつりて
悠々たる流れめぐれるあたり
その名もゆかしきわが都島
古き伝統輝く歴史
みよわが母校の姿を

秋空高く青雲しのぎて
そびゆる金城吾等仰ぎつ
雨にも風にもたゆまずうまず
まことを究め素子をつらぬく
みよわが学徒の精神を

いしづえかたく浪速に開けし
工業の道うけつぐ吾等
理想は高くつとめは重し
若き力に技術を鍛えん
みよわが使命の栄光を


建築科の襟章のデザインは Ⓐ
昭和45年度入学の者は 地が青色で白抜き文字、3年間同一を着けた。
一学級 40名が 一単位。 学級名はA組、B組、と称した。

私は、
建築科1年B組  席次29番

始業式が終わると、
吾々は 本館3階の西端にある教室に入った。
廊下側から順次、
名前の 「 あいうえお順 」  ( 席順を席次 ) に席に着いた。
茜、安藤、生田、勇、石倉、石黒、井上、〇崎、梅村、大土、
1      1、2     1、2    1、2   1、2     1        1、3      1         1         1、3
音田、梶、河村、北谷、呉津、小坂、小林、下辻、杉本、○○
1、3   1、2  1、2、3   1、3     1         1、3       1、2    1、2    1、3     1
○○、高田、寺内、中島、中前、西尾、西岡、西村、花田、平野、
  1、     1、2、3    1        1      1、2、3  1、2、3   1、3      1         ☆        1、3     
藤田、松井、松尾、水阪、宮田、宮崎、森本、山下、山田、吉田、
1、2    1、2、3      1       1、2    1、2、3    1        1         1、2       1      1、2、3
○○・・・は、中途退学した者 名前の記憶が無い  ・・・リンク→受験番号一番の男 と 人生航路
〇崎・・・は、怪我で長期休校の為 留年した 名前の記憶が無い


自己紹介
先ず、
担任の木全先生
が、口を開いた。

「 君等はもう、高校生だ、中学生と違う 大人扱いをするぞ 」
と、
担任・木全先生の訓示は、
「 高校生とは、斯くなるものか 」
と、吾々を感激させるものであった。

次は、吾々
中央の教壇に立ち、一人づつ自己紹介を行った。
茜、大土、北谷が印象に残った。
席次一番の男・茜
大柄。 もの静か。真面目な秀才。・・・第一印象である。
担任・木全先生の発案で、席順一番の茜を級長 ( 学級委員 ) として、クラスの世話役とした。
北谷は中学の時 「 組長をやっていた 」 と自己紹介した。 
皆が 「 組長 」 ・・・と、どよめくと 彼はすかさず、
「 組長 」 とは学級委員のことだと云い、彼の学校ではそう称していたと云った。
彼一流のパフォーマンス だったのである。
  
  茜                北谷
画像は卒業アルバムから。
入学時は北谷の他は坊主頭であった。

  
   大土             西村

大土が教壇に立った時、私の前の席に坐っていた西村が、
「 明日、ちゃんとクラブへ来いよ 」 と、偉そうな口振りで声をかけた。
彼等は4月1日の入学式の時、既に硬式野球部で顔を会わせていたのである。
私が始業式迄の間、親父の仕事の手伝いをしていた時、
彼等は野球部を訪れていて部の練習を観ていたのだ。
 
平野              安藤
受験番号一番の男・平野。
斯の入学試験の時、 殊更、私の目を惹いた、黒縁のメガネの男・大土。
「 こいつ、口の周りにカビ・・生えてる 」・・・無精ひげの男・安藤。
・・・リンク→受験番号一番の男 と 人生航路
彼等は共に同じクラスに成った。
茲に、生涯の友となる者が一堂に会したのだ。
えにしとは不思議なものである。

そして、明日から愈々 高校生としての本番がスタートするのである。 ・・・と、そう想った。

昭和45年 (1970年) 4月8日 ・ 2 「 天六ガス爆発事故 」 に、続く

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「 チャン、チャン、チャ・チャ・チャ、チャ・チャ・チャ・チャ 」

2021年04月07日 17時19分29秒 | 4 力みちてり 1970年~

昭和45年 ( 1970年 )、高校1年生
課外授業として、吾々総勢80名は中之島公園に集合した
目的の一は、
小堀住建のプレファブ住宅を見学することにあった。
 集合位置
我々のOBには立身出世し、建築家や工務店の社長に成上った人物が大勢いた。
「 さすが、天下の都工 」 ・・・と、これも亦 誇りの一であった。
小堀住建の社長もその一人だった。

さらに、案内役の社員、彼も亦、吾わが 都工の OB だと云う。
ところが 斯の先輩、何を如何想ったか 妙な事を云い出したのである。
「 知っているとおり、小堀住建の社長は君等の先輩である。
会社を起して社長に成った。 所謂 『 立身出世 』。 成功した。
然し、君等はそんなことを考えてはならない、今や そんな時代ではない 」 ・・と、そう云ったのである。
「 君等は若い、希望を持って頑張るように 」 が、普通であらう。
それを、「 時代が違う、そして分を知れ 」 ・・・と、そう云うのだ。 
先輩だからこそ謂える アドバイスの つもりなのであらう。 ・・・が然し。
先輩の折角のアドバイスなれど、
「 夢くらい懐いてもよからうに。 而も、何も今、此場で以てする訓示でもなからうに 」
・・・と、そう想った。

  イメージ画像は昭和49年 ( 1974年 ) 8月
次の目的地は、靭ウツボ 公園の科学技術センター。
センターでは、
前年 ( 昭和44年 ) 完成したホテルプラザの着工から竣工までのドキュメント映画を観賞する。
スーパーゼネコン・大成建設のプレゼント である。

靭公園までは、徒歩で20分程度。
吾々は小グループに分かれて向かった。

私は、初めて中之島を歩いた。
見るもの全てが新鮮だった。
大阪市の中心とあって、
街並みも、建築物も、亦 そこを歩く人も、皆 スマートに見えた。

道すがら、目に入る女性が 誰も美人に見えた。
吾々はそんな彼女らに、もう 興味津々。

「 さすが中之島、女性も美人ばかりやな 」
・・・と、彼女らに目を配りながら歩いたのである。
肥後橋まで もうすぐ。
 白が小林 
・・・と
同級生・小林
「 オーッ 」
傍のサラリーマンと顔を見合わせ
「 いいもん見せてもろたな 」
「 ハイッ 」
サラリーマン共々声が弾んでいる。


ベンチに腰掛けた ミニスカートの女性。
彼女が 足を組み替えるその瞬間に偶々通り合わせたのだ。
そして・・・・
その次は語るまい。

級友・小林
「 今日の俺は、ついとる 」
何という幸運を授かったのかと、

もう、幸せいっぱい胸一杯 の表情で語った。


「 チャン、チャン、チャ・チャ・チャ、チャ・チャ・チャ・チャ 」
建築科学生歌の締めの手拍子である。
「 何処へ行っても、コレをヤル、昔から変らない 」
と、担任教師・木全 が呟いた。 

リンク→パトカー に乗って帰宅する

建築科学生歌
一、

神代の古き森かげを  白馬に銀の鞍おいて
久遠の理想を辿りゆく  勇士が夢のあで姿
ああ桃源の夢の夜に  思い果さん時ぞ待つ
二、
ああ我如何に腰間の  剣は鳴るを忍ぶとも
神のみわざか千里ゆく  駒たてがみを打ち振い
天に嘶くさま見ては  若き血潮ぞ湧きかえる        ( いななく )

 ←クリック して拡大
『 建築科学生歌 』 を合唱する 建築科科の全生徒
応援団 ( 三年生 )
副団 ・寺内・・・安藤・・・団長 ・藤山・・・中前・・・宮田

昭和47年 ( 1972年 ) の都工際・体育祭
中央で指揮するは、建築科・応援団長の藤山。
『 建築家学生歌 』 を合唱した後、
「 チャ・チャ・チャ・チャ 」 ・・・之を遣って締めるのである


映画観賞を終えて、靭公園 ( うつぼこうえん ) で 小休止。
吾々は、テニス・センターコート、空っぽの観覧席で昼食を取った。
観覧席、それはもう、絶好のシチュエーションである。
皆の心中に、自然と茶目ッ気が 湧いた。
そして、促された訳でもなく 『 阿吽 』 。新米応援団・藤山が皆の前に立った。
「 建築科学生歌 !! アインツ ・ツヴァイ ・ドライ ・それ! 」
♪ 神代の古き森かげを  白馬に銀の鞍おいて
久遠の理想を辿りゆく  勇士が夢のあで姿
ああ桃源の夢の夜に  思い果さん時ぞ待つ ♪
そして、
「 チャン、チャン、チャ・チャ・チャ、チャ・チャ・チャ・チャ 」
「 チャン、チャン、チャ・チャ・チャ、チャ・チャ・チャ・チャ 」

吾々が学校の外で行った最初の 「 チャ・チャ・チャ・チャ 」 である。

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人目憚ることなく、ひたすら落語に打ちこむ姿を目の当りにして

2021年04月06日 21時30分13秒 | 4 力みちてり 1970年~

昭和46年 ( 1971年 )
課外授業として、桜橋のサンケイホールで 『 落語 』 を 観賞した。
真打は 『 桂米朝 』 、米朝がメインの落語会だったのである。
弟子の 『 桂小米 』 が、前座を務めた。
米朝 は上方落語を牽引する大看板。大阪人なら、その落語は誰もが知っていたのである。
然し、彼の落語は玄人好み、高校生の吾々にはその値打ちは解らなかった。
果して、生の落語もテレビの印象通り。・・・面白くなかった。

  桂米朝                    桂小米
「 落語とは、面白いもの。 可笑しいもの 」
・・・・これが、吾々の想いであった。そしてそれが、吾々の期待でもあったのだ。
ところが、前座に演じた小米の落語は 吾々の期待を満たして呉れた。
面白かった。可笑しくって大笑いした。
「 笑いたい 」 ・・・と、
そんな期待で以て聴いている吾々を笑わせて呉れたのである。
「 小米は面白い 」・・・と、
吾々は、脳裡に焼きつけたのである。


 類似イメージ
昭和46年 ( 1971
年)、高校2年の秋の事
課外授業で、大阪厚生年金会館の小ホールを見学した。
舞台の袖から舞台裏を回った。 ・・・大道具、小道具と裏方のスペースを観察した。
ステージから観客席を眺めた。 『 檜舞台に立つ 』 ・・・役者、演者の目線を観察した。
そして、ステージから観客席へと回った。
そこで 宮田らグループが ステージに 『 かぶり付き 』 ふざけて見せたのである。
「 オイオイ、此処はストリップ劇場と違うぞ 」
と、堅物 ・担任木全が 咎めた。
「 あいつら、油断したら何仕出かすか解らん 」
さもあらん。

あれが、小米かぁ   
                                                     
(コヨネ)

見学を終えて、吾々は帰校の途に就いた。
四ツ橋筋を、四ツ橋から国鉄大阪駅まで 徒歩で45分はかからうか。

各々、小人数のグループごと、景色を楽しみながら、北へと向かった。
私には、初めて歩く都会の街並みは新鮮であった

イメージは昭和49年8月

今の渡辺橋・当時の面影は無い

中之島は堂島川、渡辺橋にさしかかった時
向うから
「 ・・・・・・・・・・」
なにやら言い持って、歩いて来る、一人の男に気がついた。
しょぼくれた、平凡な小男
ニヤニヤ しながら なにやら、喋っている。
「 ・・・・・・・・・・」
渡辺橋上、吾々は、彼とすれ違った。

「 おい、小米 ヤデ 」
「 あれが、小米 かァ 」

 

桂 小米 ( 後の 桂 枝雀 )
路を歩きながら、落語の稽古をしていたのである。
吾々は、
人目憚ることもなく、ひたすら、落語に打ちこむ
その姿を、目の当たりにしたのである。
吾々は感動の心持ちで、彼の後ろ姿を、見送った。

「 小米 は、なあ 」
「 神戸大学を辞めてまで、落語家になったんやて 」
「 へぇー! 」
17歳の私は、
その 『 生き様 』 に、賛同した。
その 『 潔い覚悟 』 に、共感したのである。
そして、

「 カッコ エエ !! 」 ・・・心の中で、感嘆の声を上げた。

『 小米は面白い 』 ・・・素は茲にある。
そう想ったのである。



面白い落語から大爆笑落語へ
昭和45年(1970年)~50年(1975年)
革命児・笑福亭仁鶴が、我々に落語を知らしめ、落語に耳を傾けさせた。
「 落語も面白いもの 」 ・・・と。
「 落語を聞く 」 ・・を、若者の一つのファッションとしたのである。
然し、それは未だ、粋の範疇、通の領域。
落語の域を超えるまでには行かなかったのだ。
時代は進化する。
昭和48年(1973年)桂小米は桂枝雀を襲名した。
そしてこれを機に、
枝雀がばけた。 大ばけした。
茲に、ヒーロー・桂枝雀 が真打登場 したのである。
彼の落語はこれまでの全ての落語を凌駕した。
それはもう、大爆笑の大爆笑。
落語を聴かせて、且つ、我々を大爆笑させたのである。
これぞ、枝雀落語の真骨頂・・と。

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バラ色の時 2 「 線路の路肩に見付けた つくし 」

2021年04月02日 05時04分11秒 | 4 力みちてり 1970年~

バラ色の時 1 「 今日の酒は格別 」の 続き

昭和45年(1970年)3月14日
大阪万博が開催された。
大阪も、吾々も、明るい将来を展望していた。
私は、高校受験に合格し、まさに 人生バラ色の瞬間(トキ) だった。

私は、親父に乞われ 親父の仕事を手伝っていた。
親父は、3階建のマンションの左官工事を請負っていたのである。
建築現場は淀川区上新庄、
アクセスは、毛馬から阪急電車天六駅まで徒歩20分、
天六 ( 天神橋筋六丁目)  駅から上新庄駅まで普通電車で15分、
阪急上新庄駅から徒歩5分であった。

友ガキ・舟木が、二日で穴割ったばかり。
私ひとりでは力不足、左官の手元はとても覚束ない。
そこで 普段は 「 カッツン 」 と 呼称よぶ、一級上の友ガキ・坂尾に声をかけた。
推ったとおり、彼は二つ返事で受けて呉れた。
更にもう一人、
 宮下
『 近所の子伜 』 仲間である同窓・宮下も誘って、
三人で手元をすることしたのである
宮下は一週間、坂尾は月末の31日までと謂う約束だった。
普段から三人寄ると野球をした仲である。
現場から線路を挟んで向いに、北陽高校のグランドと体育館が在った。
昼間は使用されていない、だからいつも無人であった。
「 昼にあそこで野球しよう 」
昼の休憩時間、気分転換の時間を過ごしたのである。

3年後(1973年)に北陽高校に入学した「岡田」・・元阪神タイガース監督、
このグランドを駆け回ったことであろう
現場の西隣りは、神戸屋パンの工場があって、パンを焼く甘い香りが漂っていた

一日の労働を終えての帰宅途中
線路際の 土手に夕陽が当っている。
労働をしたことの満足感であろう、なんとも爽やかな気分である。
・・と、その時
踏み切の傍、線路の路肩に、 「 つくし 」 を見付けた。

「 こんな処につくしが ・・・」
朝通った時は気付かなかったのに
昨日も
一昨日も
気付かなかったというのに
夕陽の低い横からの光を浴びて輝いている。
吾生涯の想い出たる
「 故郷三ノ瀬での畑一面の つくし 」
の 光景には、とうてい敵わないが 
それに次ぐ、「 つくしの光景 」 に出遭ったのである。
それはもう、幸せな気分であった。

23

 

 

 

 


宮下、約束の一週間が終った。
3月29日( 日 ) 宮下にバイト料を支払った。
その時、月末の31日が約束期日の坂尾の分も支払った。
親父は、「 先に払って終うと ( 30、31日の二日分 ) 来んようになる 」
と、そう言って渋ったが、私が、
「 金貰うと嬉しいから、精を出して働いて呉れる 」
と、そう言って説得した。
30日朝、坂尾と共に天六駅に向かう途中、 ( 関西大学天六学舎、体育館 の前 )
「 今日はしんどいな。 もう、金も貰ってるしな  」 と、坂尾が言う
親父の危惧したとおりだった
「 なるほどな 」 ・・・と、感心したのである。
友ガキ・坂尾の約束の期日は残り二日である。
然し彼は、既にその分の金を手にして ゴールした気分になっていたのである。

此処まで順風満帆で事が進んだ。
いいことづくめ ・・である。

そんなところに 油断が生ずる。
その油断が因果となって、とんだことに発展したのである。

・・・次頁、バラ色の時 3 「 一寸した油断から魔が差す 」  に、続く

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