『世界』別冊を読む。青木理の「このままジャーナリズムを死滅させないために」と石崎学の「絶望以上の希望を、この街からつくりだす!」は、現在の日本の表現の自由が、どういう状態にあるかを示している。
昨年8月30日、国会周辺は無数の人によって埋め尽くされた、そのなかにはボクもいたが、青木もいた。かくも多くの人々が国会周辺に集まったという事実は、当然にも「事件」である。だからこれは報じなければならない。『朝日』、『毎日』、『東京』は大きく載せた。しかし、政権と蜜月状態にある『読売』、『産経』は、おそろしく意図的な報じ方をした。とりわけ『読売』は、数日前に行われた参戦法賛成のグループの500人程度の集会とひとくくりで報じた。
そこで青木はこう書く。
政権寄りの経営陣や社論の意向が末端にまでいきわたっている様は、それこそ読売や産経が常日頃声高に批判する独裁国家の国営メディアと変わりない。
そして安倍政権が、新聞やテレビに対して、陰に陽に圧力をかけている姿を挙げ、
政権が考える「公益及び公の秩序」に反する言論・表現の自由に制限をかけても「当然」なのだという発想が、(安倍政権や自民党の)すべての発言、振る舞いの背後を串刺しのように貫いている。そこに一切の矛盾はない。私たちはいま、そんな政権を戴き、これと対峙しなければいけない状況に追い込まれている。
と記す。
次に石崎の文が続く。そこには川崎市で行われたヘイトデモとそれにこうする人々の動きが書かれてる。
言論の自由だといって、ヘイトデモを許し、なんと在日の集住地区にもそのデモを入らせようとしたのだ。差別に国家権力が加担しているのだ。
なるほど、となると、このヘイトデモは、「公益及び公の秩序」には反しないのである。
安倍政権や自民党の考える「公益及び公の秩序」の実態が、そこにあらわになる。
ボクらは、彼らが考える「公益および公の秩序」を暴露する必要がある。こ
の二つの文は、期せずしてそれをあらわにしている。
昨年8月30日、国会周辺は無数の人によって埋め尽くされた、そのなかにはボクもいたが、青木もいた。かくも多くの人々が国会周辺に集まったという事実は、当然にも「事件」である。だからこれは報じなければならない。『朝日』、『毎日』、『東京』は大きく載せた。しかし、政権と蜜月状態にある『読売』、『産経』は、おそろしく意図的な報じ方をした。とりわけ『読売』は、数日前に行われた参戦法賛成のグループの500人程度の集会とひとくくりで報じた。
そこで青木はこう書く。
政権寄りの経営陣や社論の意向が末端にまでいきわたっている様は、それこそ読売や産経が常日頃声高に批判する独裁国家の国営メディアと変わりない。
そして安倍政権が、新聞やテレビに対して、陰に陽に圧力をかけている姿を挙げ、
政権が考える「公益及び公の秩序」に反する言論・表現の自由に制限をかけても「当然」なのだという発想が、(安倍政権や自民党の)すべての発言、振る舞いの背後を串刺しのように貫いている。そこに一切の矛盾はない。私たちはいま、そんな政権を戴き、これと対峙しなければいけない状況に追い込まれている。
と記す。
次に石崎の文が続く。そこには川崎市で行われたヘイトデモとそれにこうする人々の動きが書かれてる。
言論の自由だといって、ヘイトデモを許し、なんと在日の集住地区にもそのデモを入らせようとしたのだ。差別に国家権力が加担しているのだ。
なるほど、となると、このヘイトデモは、「公益及び公の秩序」には反しないのである。
安倍政権や自民党の考える「公益及び公の秩序」の実態が、そこにあらわになる。
ボクらは、彼らが考える「公益および公の秩序」を暴露する必要がある。こ
の二つの文は、期せずしてそれをあらわにしている。