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線翔庵日記



おまつり、民謡、三絃、名水、温泉、酒、そして音楽のこと…日々感じたことを綴ります。

おしぼり

2013年11月10日 22時38分12秒 | 食べ物
 信州でも北信濃の郷土食に「おしぼり」がある。辛み大根をおろし、それをさらし等でしぼるのだ。このしぼった大根の汁が「おしぼり」なのだ。その汁に味噌などで味を調え、それを釜揚げ風にしてうどんをいただくものである。

 今日は埴科郡坂城町の「八重」に行った。

 もちろん「おしぼりうどん」を注文。

 こちらのお店はこんな感じ。


 まずおろしのしぼったものを器にあける。この大根は、坂城町中之条でよく知られる「中之条大根」とか「ねずみ大根」と呼ばれる辛い大根だ。


 そして味噌や薬味のねぎなどを入れる。


 そしてうどん。


 おしぼりは最初は冷たい汁なのだが、温かいうどんをつけながら食べる。するとだんだん汁もあたたかくなってくる。そして最初はかなり辛めなのだが、だんだん甘みがましてくるのだ。大根の辛さと味噌の旨みとがマッチして、あっさりといただける。

 また「八重」では、薬味に「クルミ」も添えられていた。何とも上品な感じ。


 おしぼりは釜揚げ等の温かいうどんが定番のようだが、冷やしおしぼりもある。また、お店によってはおそばでもおしぼりで出すところもある。ジアスターゼの含まれる大根おろしの汁は、とてもさっぱりとしている。

 坂城にはわたくしの親類がある。子どもの頃おじゃましたとき、夕食で「おしぼりにするね」と言われ、何が出るのだろ?と思ったことがあった。
 おしぼりを食べる?

 手を拭くおしぼり?などと子ども心に思った


 北信濃では欠くことのできない郷土食だ

浅間温泉~坂本の湯旅館

2013年11月06日 21時14分37秒 | 温泉
 ここへは、もう何年通っているだろう。5年前、松本市に住んでいた頃にはすでに通っていた。浅間温泉~坂本の湯旅館さんだ。

 湯宿であるが、日帰り入浴も受け付けてくれる。再びの松本暮らし2年目となったが、ここのところ足繁く通っている。

 浅間温泉は歴史の古い温泉で、松本の奥座敷でもある。しかし、かつてはそれほど特徴のないお湯だ…程度の認識でしかなかった。
 しかし、この坂本の湯旅館さんに入ってから、認識が変わった。やはり古くからの名湯であるなと感じるようになった。


 こちらの浴槽は木造りだ。その肌心地がいい。そしてお湯のよさは言うまでもない。館内の掲示によると加温・加水をしていない天然温泉であるという。確かに、日によってちょうどいい泉温の日と、ちょっと熱めかな?というときがあるような気がする。

 浅間はやはり名湯である。

 

南相木温泉~滝見の湯

2013年11月04日 22時30分22秒 | 温泉
先日、南佐久郡北相木村栃原の獅子を見に行ったとき、せっかく南佐久まで来たのだから…と、南相木村の温泉へ行ってみることにした。

南相木温泉「滝見の湯」だ。

場所は、南相木村に入ってから川上村に向かう県道2号線をかなり入っていく。小学校や名勝・おみかの滝などを通り過ぎ、かなり奥へ入ったような気がする。

すると川沿いに見えてくる。

平日の4:00。秋でもあり、少し寒いし人はいないだろうな…などと思って入館。いや…意外にお客さんもある!

広々とした館内は、休憩所やお土産売り場などもあって、楽しい空間である。

さて浴室へ。

明るく清潔感の漂う内湯は、大きく仕切られた窓からの眺めがいい。浴槽は適温で、気分がいい。ジャグジーのある箇所もある。

泉質は「単純温泉(低張性弱アルカリ性低温泉)」だそうだ。さっぱりとした感じのお湯だ。

そして露天風呂。

石組みの浴槽で、露天風呂としては大きめだな~と感じた。そして囲いからは「犬ころの滝」や紅葉の山々が見ることができた。川の音が聞こえ、何とも自然いっぱいの温泉施設だ。


駐車場に停まっている車のナンバーを見ると、関東圏が多い印象だ。峠越えに群馬方面からのお客さんであろうか。考えてみると、県内に住んでいても、この地まで行くのは遠いイメージ。むしろ関東から紅葉狩りに楽しみに来る方々も多いのだろうか?などと思いつつ、次はいつ来られるかな?と考えながら、帰宅した。

別れの松~不戦の像

2013年11月03日 23時27分01秒 | 歴史
 先日、南佐久郡南相木村に出かけたときに「不戦の像」を見かけた。

 何とも悲しげな表情の親子が手を振っている像だ。母の背中には幼子が負われている。

 いわれを知らずにいたので、解説を読んだ。

 ここ村境の「別れの松」は、過ぎし戦いの日、大命を受けた若者たちが、一言の抗弁も許されずに、村民総出の歓呼の声に送られて、愛する人々と、最後の言葉を交わした、まさに戦争の悲劇が凝縮した場所であります。

 当時、出征するということは、死を決意することであり、肉親に対する断ちがたい愛情と、国に対する忠誠のはざ間に苦悩しつつ、征途についたのでした。

 送る者、送られる者「達者で帰って」という切なる願いも空しく、多くの若者が再び 「別れの松」の下に姿を見せることなく、その尊い生命を国に捧げたものです。

 見送る母親の表情には、当時軍国の妻、軍国の母の名のもとに、万斛の思いを秘めて、透徹した諦観の相を感じます。母親の手にすがる男の子は、「お父さん早く帰って」と必死に叫んでおります。そして、母親の背中に無心に眠る幼子は、二度と父親の顔を見ることはできません。何という非情の世界でありましょう。

 さらに、残された家族のたどった戦後の苦難の歴史を思う時、この悲劇は断じて繰り返してはなりません。戦後四十年、往時を回顧し、村民相はかつて戦没者に対する鎮魂と、平和への悲願をこめて、ここに 「不戦の像」 を建立いたしました。      昭和62年9月23日   南相木村


 この山村にあって、何とも悲しい場所ではないか…。そして「別れの松」は…。


 初めて行った南相木村。ここで未知のことを1つ覚えた。