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線翔庵日記



おまつり、民謡、三絃、名水、温泉、酒、そして音楽のこと…日々感じたことを綴ります。

遠山霜月祭も終わり…

2011年12月26日 23時12分54秒 | おまつり
行きたいとか言いながら、仕事的に12月は祭りに出にくい環境のため、案外「遠山霜月祭」へは、あまり回数を重ねたことがない。

いろいろ言っているうちに、もう今シーズンの祭りはすべて終了。ああ…今年も行けずじまいだった



ここのところ、大掃除をかねて、ちょっぴり部屋の片付けをしたすると、探していたのに見つからなかったもの、あることを忘れていたものなど、いろいろな「発見」があった。

そして
探していた本が出てきた。
長野県教育委員会編「遠山まつり」(写真 信濃風土記3)昭和31年


これは、まつりの場である神社のなかで、普通に売られていたので、即買いした記憶がある。ちょっと見たかったときに、すぐに見つからず、ようやく探り出したのだ。


あらためて本をめくってみた。
写真がいい。遠山谷は、現在出かけても、古い雰囲気を残していると思わせるが、この本に出てくる写真は、とにかく貴重な風景が写っている。舞人の装束の微妙なちがいも感じる。

そして文章は、「遠山風物記」のページが、信州の民俗学徒では知らない者はいない向山雅重氏。そして「遠山のまつり」のページが、三隅治雄氏。三隅さんは、遠山のまつりへ来たときのことをなつかしげに語られるのをお見かけする。三遠南信の「芸能の谷」へは、足繁く通ってこられた。

この本を見て、ふと思った。発行が昭和31年ということは、今から55年も前。すると三隅さんがこの文章を書かれているのは20代後半か30才になられたくらいではないだろうか。今とちがって、自由に遠山入りするのが難しい交通状況のなか、柳田国男を筆頭に、早川孝太郎の「花祭」、折口信夫の「新野の雪祭」や「西浦の田楽」の紹介はよく知られているが、「遠山霜月祭」はもう少し時代があとなのだ。そして、当時20代の若き研究者が、この「遠山まつり」の書に文章を寄せておられたことに、驚きと感動。


こうした先人たちの資料にふれると、知らないことばかり。…というか、今でもまだ分からないことばかり。体力のあるうちに、訪ねておきたいまつりだ。

冬来ると 誰が告げつらヤンヤーハーハ

2011年12月02日 22時25分06秒 | おまつり
毎年12月になると、地元紙には「遠山霜月祭」が始まる!という記事が紙面を飾る。

【信濃毎日新聞(2011.12.2)】

今朝の新聞には、昨晩の12月1日に行われた飯田市南信濃の中立・稲荷神社の祭りの「湯切り」の写真が載っていた。
また自分は見逃したが、夕方のテレビニュースでも流れたという。

ただ…記事には「15日まで、昨年と同じ数の9神社で祭事が繰り広げられる」とある。
自分が歩き出した頃は「遠山霜月祭」といえば12ヶ所、13神社であった(中立・稲荷神社と八日市場・日月神社が隔年)。

その後、衝撃的なニュース。1998年の土砂災害で、須沢・宇佐八幡宮が休止。
そして一昨年の2009年に上島・白山神社、昨年の2010年には大町・遠山天満宮が、それぞれ休止に追い込まれた。大変残念なニュースが続いた。


一方、祭り開催日の変更もある。旧南信濃村では中立・稲荷神社が12月1日、小道木・熊野神社の12月第1日曜日とった変更が位置付いてきた。

旧・上村地区では12月11日が上町・正八幡社、12日が中郷・正八幡社、13日が下栗・拾五社大明神、14日が程野・才若八幡社と続いていた(…もっとも下栗は1月3日であった)。ここのところ、中郷が12月第1土曜日に変更になった。

奥三河の花祭は、ほぼ祝祭日の前日になっているのに対して、遠山霜月祭は変更はないのだ…という認識であったが、やはり現在の状況ではやむを得ないのだろう。むしろ、休止という苦渋の決断を強いられた地区の皆さんの思いは、いかばかりであろうか。


ところで、この新聞記事には「豪快湯切り 遠山郷の祈り」という見出しが目に入る。本来、その通りだと思う。祭りには、やはり人々の「祈り」がある。観光や研究のために、祭りが存在しているのではない。
しかし、自分のような祭り好きにとっては、「何か」に惹かれるのだ。人々の「祈り」を踏みにじらないよう、祭りの場の片隅に出かけたいものだ。

上田獅子

2011年12月01日 19時46分31秒 | おまつり
長野県東信地域には風流系三頭獅子が伝承されている。関東では三匹獅子と言われることが多いが、当地域では三頭(みかしら)獅子とか三ッ頭(みつかしら)獅子と呼ぶ。

上田市では、天正11年の真田昌幸による上田城築城に舞い込まれたという伝承をもつ「上田獅子」がよく知られている。常田獅子房山獅子があり、総称して「上田獅子」と呼ぶ。

当地域でも千曲川左岸の塩田地区には、1頭の雌獅子を2頭の雄獅子が奪い合う「雌獅子隠し」が多いが、千曲川右岸の上田城下の2ヶ所は、その源流とされる真田町の上原三ッ頭獅子とともに、神事舞的なものとなっている。

【常田獅子】

三頭の獅子は、赤い頭だ。また鉦を打つ小天狗がつく。

祢宜とよばれる鼻高面は、大きな団扇をもつ。


【房山獅子】

こちらも黒々としたタテガミに赤い頭。小天狗もつく。

こちらの祢宜は五色の紙をたらした大幣をもつ。


これらの上田獅子は古くから、上田城下の祇園や、上田城の城固めに舞われていたという。これについて、信州のことを取材し記録した井出道貞による『信濃奇勝録』にも、図入りで掲載されている。

このページは常田獅子の図と、房山獅子の獅子唄が記されている。
塩田地区の「雌獅子隠し」とは雰囲気のちがい、祝賀のときにしか出されない。本来は神社に属して、例祭等で行われたようだが、イベントや祝賀行事のみの演舞だ。また、4月中旬の上田市主催の「真田まつり」では、常田と房山で隔年で演じられている。

当地域を代表する三頭獅子は、上田城下の歴史とともに今日まで伝えられている。

花祭の笛

2011年11月19日 21時51分28秒 | おまつり
11月から1月、3月の奥三河は花祭シーズン。

もう7~8年前になるであろうか、東栄町で花祭の笛を製作しておられる方のお宅へうかがったことがある。とても気さくに対応してくださり、花祭のこと、笛のことなどをお聞きすることができた。

笛は6孔と7孔のものがあり、花祭を伝える地区によってちがいがあるそうだ。
東栄町からも豊根村からも買い求めに来るという。素の竹のままのものや塗りで仕上げたものなどがあった。

笛の製作といえば、よく流通している獅子田の篠笛をよく見かけるが、獅子田よりはいくらか短い感じ。



自分も6孔と7孔のものを購入した。選ぶとき、何と!実際に音を出していいとのこと。笛など、ろくに吹けもしないのに、もっともらしく手にとって、何となく音の出しやすいものを選ばせてもらった。

その後、東栄町へもご無沙汰してしまった。どうしておられるだろうか。


ただ今、奥三河は花祭真っ直中。今日は11月第3土曜日、東薗目かな。ここは、自分が初めて花祭見学に行ったところだ。大変衝撃的な印象の土地だ(…と思って確認したら、東薗目は日曜日の朝からの開催にしたようだ)。


今年は行く予定が立たないが、また「花通い」に出かけたい。

「花祭」文献

2011年11月18日 21時35分06秒 | おまつり
11月から1月、3月の布川まで、奥三河は花祭シーズン。自分が喜んで通っていたのは、上伊那時代なので、もう10年以上前だ。上伊那から自動車でせっせと通っていた。

そんな頃、「花祭」に関わる文献も勢いで買っていた!

まず、早川孝太郎の大著『花祭』。

これは、花祭ファンのみならず、民俗学徒にとって知らない人はいないものだろう。

ある年、松本市の古書店でウロウロしていたところ、ひょんなことから見つけてしまった。国書刊行会によるものではあるが、定価29,000円のところ、どういう訳か24,000円で売られていた。
おおっ!これは買うでしょ!
興奮した自分、定価より安いとは言え、手持ち金がなかったので、慌てて銀行へ金を下ろしに行ったのは言うまでもない(笑)。

続いて、芳賀日出男の『花祭り』-フォークロアの眼9-

これも伝説的な民俗写真集の1つ。後藤淑「花祭りの歴史」という文章もよく知られている。

こちらは上田市内の古書店で見つけたもの。やはり定価3,500円のところ、店頭では2,000円だった。
やっぱり!これは買うでしょ!



こうした時代の祭りを実見することは難しくなってきているが、それでも現在まで脈々と受け継がれている花祭。全国各地にファンをもつ、この霜月神楽は、今が真っ盛り。

今年は行く予定が立たないが、また「花通い」に出かけたい。