松岩寺伝道掲示板から 今月のことば(blog版)

ホームページ(shoganji.or.jp)では書ききれない「今月のことば」の背景です。一ヶ月にひとつの言葉を紹介します

花は誰のために開くか。花を知るなら一度見れば済むはずである。   西村惠心

2022-04-01 | インポート

花は誰のために開くか。花を知るなら一度見れば済むはずである。それを毎年のように繰り返し見に出かけるのは、一年一年と変わっていく自分を見るためではないか。       西村惠心

 

4月8日はお釈迦さまのお生まれになった降誕会、花まつりです。それにちなんだ言葉となると、どうしても短歌や俳句になってしまう。それはそれでよいのでしょうが、少し変わったところで、禅の語録『碧巌録』第五則にある、「百花春至って誰が為にか開く」を西村恵信花園大学名誉教授が、ご著書(『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』)で解説されているので、その抜粋を今月のことばとしましたが、全文をご紹介します。


花は誰の為に開くか

―百花春至って誰が為にか開く―(『碧巌録』五)

春になると百花が咲き乱れる。彼らはいったい誰のためにああして美しく咲いているのだろうか。いうまでもなく、それをじっと見つめる人が前に立つのを待ち望んでいるのだ。それに気がつかないということは何という惜しいことだろう。

 芭蕉の句に、「よく見ればなつな花咲く垣根かな」というのがある。春になるとみんながご馳走をぶら下げて桜の下に集まってくる。けれどもほとんどの人は、「花より団子」であるらしい。
 芭蕉は静かな庵の垣根に、ひっそりと咲いている小さなペンペン草に目が止まったのだろう。彼は屈み込んで、それを見つめたのである。「よく見れば」という五文字が、この句のいのちになっている。果たして樹の下に群がる桜見の客は、今年限りの花の「いのち」をよく見ているのだろうか。
 いったい花は誰のために咲いているのだろう。「年々歳々花相(あ)い似たり、歳々年々人同じからず」というではないか。花を知るなら一度見れば済むはずである。それを毎年のように繰り返し見に出かけるのは、一年一年と変わっていく自分を見るためではないか。今年限りの花はまた、今年限りの自分の姿でもある。そう思って花を覗き、花のいのちの短さに思いをいたすべきであろう。
「微風幽松を吹く、近く聴けば声愈々(いよいよ)好し」という寒山の詩がある。この詩の核心も「近く聴けば」にあるだろう。近く聴くということは、耳をそば立ててよく聴くということである。すると微かな松の音が、耳に入って自分と一つになるのだ。
 南泉普願(なんせんふがん)という禅僧は庭先の花を指さして、「時の人、此の一株の花を見ること、夢の如くに相い似たり」といって嘆いている。世間の人はあの一株の花を見るのでさえ、まるで夢でも見ているようで、自分が花になってしまうほどの見方をしていないというのである。(西村惠心箸『禅語に学ぶ 生き方。死に方。』禅文化研究所)


 さてさて、「花は誰のために咲いているのだろう。……一年一年と変わっていく自分を見るためではないか」を読んで思い出したのは、寺山修司です。
 寺山修司に「さよならだけが 人生ならばまた来る春は何だろう」とはじまる詩があります。これは、よく知られた于武陵の漢詩、「勧酒」(君に勧む金屈巵/満酌辞するを須いず/花発けば風雨多し/人生別離足る)に対する寺山修司の返し歌です。「かえす」といっても、直接にかえしたのではなくて、もうひとつ経由地があります。
 井伏鱒二が「勧酒」を現代語訳した、「コノサカヅキヲ受ケテクレ/ドウゾナミナミツガシテオクレ/ハナニアラシノタトヘモアルゾ/「サヨナラダケガ人生ダ」に対しての寺山修司の返し歌です。以下、活字での出典は追ってなくて、、ネット上からのコピー&ペーストでお許しください。

さよならだけが 人生ならば
また来る春は何だろう 
はるかなはるかな地の果てに
咲いている野の百合何だろう

さよならだけが 人生ならば
めぐりあう日は何だろう 
やさしいやさしい夕焼と
ふたりの愛はなんだろう

さよならだけが 人生ならば
建てたわが家は何だろう 
さみしいさみしい平原に
ともす灯りは何だろう

さよならだけが 人生ならば 
人生なんかいりません

 

 今月のことば自体も、これまでて最長だと思いますが、このブログも長々と他人様の文章を引用して長くなりました。

 

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