からっぽのうつわのなかに、いのちを注ぐこと。それが、いきるということです。 日野原重明
ご存じ、日野原重明・聖路加国際病院名誉医院長のことばです。七年前に出版された『十歳のきみへ』(富山房インターナショナル刊)からの引用です。 本のタイトルからわかるように、子どもたちへのメッセイジです。その冒頭の「寿命ってなに?」と題された中にある一節です。日野原先生はこう続けます。
寿命というのは、つまり、生きることに費やすことのできる時間です。 それは、生まれたときに、「はい、きみは日本人ですね。では、いまのところの平均寿命は八十二歳ですから、八十二年分の時間をさしあげましょう」と、平均寿命に見合った時間をぽんと手わたされるようなものではありません。それではまるで、生まれた瞬間から寿命という持ち時間をどんどんけずっていくようで、なんだか生きていくのがさみしい感じがしてきます。 わたしがイメージする寿命とは、手持ち時間をけずっていくというのとはまるで反対に、寿命という大きなからっぽのうつわのなかに、せいいっぱい生きた一瞬一瞬をつめこんでいくイメージです。
そして、こうも書かれている。
二万二千もの遺伝子の情報をもとにしてつくられる設計図のパターンは、いったいどれくらいの数にのぼるのでしょうか。それは、「無限」という表現がぴったりかもしれませんね。わたしたちは無限にある可能性のなかから、一つ一つを選びとりながら、一瞬一瞬を生きているのでしょう。
説得力のある書籍なのですが、寿命の「寿」という字をめぐっては、少しばかりもどかしい表現にとどまっているように思える。 ご存じのとおり日野原先生のご両親は牧師さんであり、ご自身もキリスト教信者であるのだけど、漢訳仏教経典で「寿」という漢字がでてきたら、「いのち」というフリガナをふることが多いのです。たとえば、「無量壽」という仏教語があるけれど、「はかりしれないいのち」のことで永遠の生命と仏教語辞典は説明します。永遠の生命といっても、不老長寿のことではない。禅は「生死がない」と考えます。生死がないってどういう事。うーん、難しいな!難しいから、からっぽのうつわにいのちをそそいで考えるしかないのだろう。
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