松岩寺伝道掲示板から 今月のことば(blog版)

ホームページ(shoganji.or.jp)では書ききれない「今月のことば」の背景です。一ヶ月にひとつの言葉を紹介します

仏法遙かにあらず

2014-04-12 | インポート
青春漂流 (講談社文庫) 青春漂流 (講談社文庫)
価格:¥ 555(税込)
発売日:1988-06-07

仏法遙かにあらず、心中にして即ち近し      弘法大師空海

境内の桜も散りました。いつまでも、桜の言葉を掲示しておくのも無粋なので、月のなかばで書き換えました。この二か月、文字数の多い言葉を紹介してきたので、短い言葉です。しかも、昨年10月の釈尊の言葉以来、経典やその周辺の言葉がなかったので、仏教者の言葉にしました。弘法大師空海(774~835)の著作『般若心経秘鍵』からの引用です。
始めて読んだ時、「これ、空海さん?」と思いました。禅宗の誰かの言葉のようではないですか。よく知られた禅語でいえば、「脚下照顧」とか「大道長安に透ず」とか。白隠禅師の「衆生本来仏なり」だって、同じ事をいっている。「仏教は崇高なところにあるのではなくて、日常の中にある」、といのは禅宗の得意芸ではないか。それを真言密教の空海さんがいう。しかも般若心経の秘密を開ける鍵というタイトルの注釈書の言葉ですから、意外です。
空海62年の生涯で45歳頃の著作らしい。年表を簡単にたどると、31歳で遣唐使に紛れ込んで唐にわたり、密教の奥義を究めて、33歳で帰国。36歳で京都の高雄山寺に居を定める。この頃から留学生仲間の最澄から求められて、密教の経典を貸し儀礼を教えた。最澄はそれ書写し、読んで密教を理解しようとした。が、空海40歳の時に、核心部分の書物(『理趣釈経』)の借用を求められて断る。なぜなら、密教の学習は、言葉や文字ではなく、人を通じて伝えられるものだから。これって禅でいうと、「不立文字」ってことではないの!
自分の拠りどころである禅から真言密教を考えるなんておこがましいこと。だって日本へもたらされたのは真言密教の方が大先輩なのですから。

というわけで、密教と禅はもしかすると近いのかなぁー、と思った言葉です。

それにしても、空海さんというのは魅力的な大天才だから、いろいろな人が書いてます。たとえば、立花隆さんの『青春漂流』(講談社文庫)のエピローグに「謎の空白時代」と題して、若き空海の話が書かれている。スキャナーしてコピペしてちょっとだけ紹介しておわります。

四国の讃岐出身の空海は、十八歳のときに京に出て大学に入った。大学というのは、貴族階級の子弟の教育機関で、古代のエリ-ト教育機関である。しかし空海は、せっかく大学に入ったのに、ほどなくしてドロップアウトしてしまう。そして、乞食同然の私度僧(自分勝手に頭を丸めて坊主になること)となって、四国の山奥に入り、山岳修行者となる。これ以後、三十一歳の年に遣唐使船に乗り込むまで、空海がどこで何をしていたかは明らかではない。「謎の空白時代」といわれる。山野をめぐり、寺院をめぐり、修行に修行をつづけたと推定されるだけである。それがいかなる修行であったかは明らかでない。
彼が遣唐使船に乗り込むにいたった経緯もまた明かではない。ただ一つはっきりしていることは、彼がその直前まで私度僧であったことである。空海は留学僧として遣唐使船に乗り込んだ。しかし、留学僧になれるのは、正式に出家した僧だけである。そこで空海は、遣唐使船に乗り込むほんの一ヵ月ほど前に、あわてて東大寺で正式の出家を果すのである。その記録が東大寺に残っている。
遣唐使船に乗り込んだ空海は一介の無名の留学僧にすぎなかった。彼に注目する者は誰もいなかった。
しかし、唐の地に入るや、空海はたちまち頭角をあらわす。十年余にわたる彼の修行時代の畜積が一挙に吐き出されて、唐人から最高の知識人として遇されるにいたるのである。密教の権威、恵果阿闇梨をして、門弟の中国人僧すべてをさしおいて、外国人たる空海に、密教の全てを仏授しようと決意させるほど、空海に対する評価は高かった。
「謎の空白時代」に、彼がどこで何を修行していたかは明らかでない。しかし、その修行がもたらしたものは、歴史にはっきりと刻印されている。唐に滞在したわずか一年余の間に、空海は名もなき留学僧から、密教の全てを伝えられた当代随一の高僧となる。それは、留学の成果というよりは、「謎の空白時代」の修行の成果が、留学を契機に花開いたものというべきであろう。
「謎の空白時代」は、空海の青春である。


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