「是非(どうあっても)の初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず」世阿弥『花鏡』
2ヶ月前の4月の言葉は、妙心寺派発行の月刊誌『花園』、巻頭ページから引用しました。6月の言葉は、『花園』誌の最終部の連載、「としよりのむだごと」より孫引きします。
執筆しているのは、頑迷庵(がんめいあん)さん。もちろん、ペンネームです。妙心寺派に属するご住職で本名も存じているのですが、本人が頑(かたく)なに迷い庵と名のっているのだから、身をバラすのは失礼かと。
頑迷庵さんの似顔絵を描いているのは、三木澄子さん。拙書『おうちで禅』と『またまたおうちで禅』のイラストを担当した画工です。
「初心忘るるべからず」は、世阿弥の『風姿花伝』にある名句です。頑迷庵さんのすごいところは、『風姿花伝』ではなくて、世阿弥のもうひとつの著作『花鏡(かきょう)』から「初心」の項を引用しているところです。『花鏡』の「初心」は、「初心不可忘」としたあと、「この句、三ケ条の口伝(くでん)在り」として、冒頭にかかげた、「是非の初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず」をあげています。
現代語訳すれば、「良くも悪くも、修行をはじめた頃の初心を忘れるな! 修行の各段階の初心を忘れるな! オトロエタナー、と感じた時の気分を忘れるな!」。とでもなるでしょうか。「初心、忘るるな」には、三つのおまけがあるとは知らなかった。
ところで、頑迷庵さんの「はじめのこころ」と題したこの文章は『花園』誌4月号に掲載されています。ほんとうは、5月号にある「お茶のはなし」を紹介したかったのですが、これは伝道掲示版の寸言にはならない。伝道掲示版には不向きだけど、どうしてもご紹介したかった話を、以下に一部分を引きます。
妙心寺の開山さまの逸話に、戸外で雨に濡れて茶摘みをする修行僧を不欄(ふびん)に思われ、茶の枝を刈り取って室内で茶葉を摘むように指示されたとの話がある。しかしながらこの話、いささか腑に落ちない。それは、雨や夜露に濡れた茶葉を摘むことは決してないからだ。これにはいろいろなわけがあるようだが、濡れた茶葉はすぐさま発酵しはじめてしまうからだと聞いたことがある。発酵した茶葉では日本の緑茶にならないのだ。
中国では烏龍茶のように生葉を発酵させて製茶することもあるのだが、はたして開山さまの時代、妙心寺ではいったいどのような茶を飲んでいたのだろうか。
妙心寺開山(かいさん=創始者)の茶摘みの話は、妙心寺派に属する者には、よくしられた話で当然私も知っていました。でも、この話の深意はよくわからない。開山さまのやさしさを伝えようとしたのだろうか。なんなんだか、わからない。わからないから、私はご紹介したことがなかった。でも、頑迷庵さんのように、「雨や夜露に濡れた茶葉を摘むことは決してない」から「開山さまの時代、妙心寺ではいったいどのような茶を飲んでいたのだろうか」という切り口で、探っていくと、開山・無相大師(一二七七~一三六〇)の時代のお茶から食、あるいは外交事情まで色々なことがわかってきます。
でも私には「濡れた茶葉はとらない」という基礎知識がないから、「開山さまの時代、妙心寺ではいったいどのような茶を飲んでいたのだろうか」という疑問に結びつかなかったのです。
大リーグの大谷選手が三試合連続でホームラン打っても、そう驚かなくなった今ですが、「濡れた茶葉は摘まない」という気づきは私にとって場外ホームランです。