松岩寺伝道掲示板から 今月のことば(blog版)

ホームページ(shoganji.or.jp)では書ききれない「今月のことば」の背景です。一ヶ月にひとつの言葉を紹介します

君に戦争があるか。君よ、今を大切にせよ。 大島渚

2018-08-01 | インポート

戦争が終わった日、パパは十三才、中学の二年。
銃をとるだけが戦争じゃない
上級生のビンタ、水びたしの本、
妹と別れてくらすことも、みんなパパの戦争だった。
君に戦争があるか。
君よ、今を大切にせよ   大島渚「パパの戦争」より抜粋

昭和20年8月末 松岩寺周辺 撮影 佐藤虹二

 

追悼の夏の言葉は、映画監督の大島渚さんが書いた「パパの戦争」という詩の一節です。この詩は、昨年(平成29年9月)に発見されて、多くの新聞で報道されたようですから、ご存じの方も多いでしょう。
詩の全編でなく、都合のよいところだけを切りとるのは、礼儀違反ですがお許しを。全文を知りたい方はネットで検索すれば読むことができます。新聞以外の活字媒体では未だ発表されていないようで、新聞記事経由ネットでしか全文を見ることはできないようです。
何紙もの新聞で報道されているのですが、私は今年の夏まで知りませんでした。教えてくれたのは、福岡県・博多の聖福寺・芙蓉庵老師です。老師から直接教わったわけではなくて、聖福寺の寺報「聖福・平成30年お盆号」に「一語一聲」というコーナーがあって、老師自らが書かれた記事で知りました。
「パパの戦争」が見つかる2年前に大島渚・文『タケノコごはん』(ポプラ社)という絵本が出版されています。この絵本と詩「パパの戦争」の関係がよくわからないのですが、長男の大島武氏が、あとがきで、「パパの戦争」の周辺を書いています。一部を紹介してみます。

この本(『タケノコごはん』)のおはなしは、わたしの父〈パパと呼んでいました〉が、わたしの小学校の宿題として書いてくれた作文です。親がこどものために作文を書くってちょっとへんですよね。でも、担任の先生は、こうい言ったのです。
「お父さんかお母さんにたのんで、こども時代の思い出を作文に書いてもらってください」。
小学校3年生のわたし悩みました。父は大島渚といい、テレビにもしょっちゅう登場する映画監督でした。さらに悪いことに母、小山明子も女優で、こちらは映画や舞台で大いそがしです。多忙な両親にたのんで、はたして作文を書いてくれるだろ。大いに悩んだわたしは、まあ、パパのほうがマシかなと思って、おそるおそるたのんでみました。
「よし、わかった」
父は軽くうけあい、なんとその翌々日に作文を書いてくれました。クラスで一番です!いち早く宿題が出せたことがとてもうれしかった。でも、その作文を読んでの感想は、「おとなの作文ってずいぶんと長いなあ」というていどのものでした。
 父はよく、「自分で考えることができる人になってほしい」と、わたしに言っていました。ですから、作文にも「むかしはこんなに悲惨だった」とか「戦争だけはぜったいにいけない」と直接的に書くのではなく、少年時代に起こったできこど、ひのとき感じたことをたんたんとかいたのでしょう。(大島渚・文 伊藤秀男・絵『タケノコごはん』ポプラ社)

たんたんと生きることが、人の心に響くのでしょうか。「君よ、今を大切にせよ」。暑い夏の胸にしみることばです。


今日までのことは問題外として、今日からのことを一言でいい表してみよ  雲門禅師

2018-07-01 | インポート

 

                         (千田完治撮影)

ほんとうにふと気がついてみたら、7月1日になっていました。伝道掲示板を書きかえなくてと思ったのは、今朝、日曜坐禅会で坐っているときでした。朝、六時の本堂はすでに28度あった7月1日の熊谷です。
それで何の言葉にするか。7月だから、中国は唐の時代に雲門禅師がおっしゃった次の言葉はいかがでしょうか。
雲門和尚(八六四~九四九)が修行僧に問いかけます。
「十五日までのことは問題外として、十五日からのことを一言でいい表してみよ(十五日以前は汝に問わず、十五日以後一句を道(い)い将(も)ち来たれ)」
 だれも応えないので、雲門が自ら言いました。
「日日是れ好(こう)日(にち)」
中国宋の時代に編集された『碧巌録』の問答です。
 禅問答ときくと、「当事者以外にはわからない会話」と敬遠されてしまいます。でも、言葉が発せられた現場をたどってみれば、真意を解き明かすヒントがあるはずです。
 この場合は、「十五日以後はどうするのだ」と尋ねています。十五日には諸説あるけれど、伝統的な解釈に従って、七月十五日のこととします。この日、九十日間続いた夏の修行期間が終わります。修行僧たちは集まって、布薩会をおこないます。布薩会とは、簡単に言ってしまえば反省会です。反省会といっても、「おまえのここが悪い」とか、「あの時、規則をやぶった」と、問いただして非難しあうわけではありません。
 懺悔と戒律の文言を声に出してよみ、如来さまや菩薩さまのお名前を声を出して唱えます。この、声をだすというのが気持ちがよいのです。身体のなかにある邪悪なものが、声とともに体外にはきだされていきます。でも、声だけでは不十分です。身体も動かします。唱えるごとに、五体を地に投げふして、礼拝をし身体も清淨にするのです。
 いつもだったら、ここで終わりになるのかもしれません。でも、その日は、お師匠さまの雲門禅師がひとこと加えました。
「明日からはどうするんだ」。
 誰も応えられないので、お師匠さまがみずからいいました。
「日日是好日」。
「日日是好日」は最もよく知られた禅語のひとつです。が、「平和で良い日が続く」なんて解釈したら、オチのない噺になってしまう。そんな、ノーテンキな説明ではなくて、過去でもなくて未来でもない、只今のこの時が特別なのだという、禅の重要なテーマです。
「マンネリズムのくりかえしを突き破る感激」と訳注しているのは、入矢義高・柳田聖山・梶谷宗忍共著『雪竇頌古(せっちょうじゅご)』(筑摩書房・禅の語録15)です。つまり、「毎日が新しい。やるなら、今でしょ」と励ました情景が想像できます。
「十五日以前云々」では道ばたの掲示板ではわかりにくいから、「今日までのことは問題外として、今日からのことを一言でいい表してみよ」としました。拙い現代語訳は私の作です。

追伸
高円宮家絢子さまの7月2日、婚約内定記者会見中の次の言葉を、朝日新聞デジタル(7/2)より拝借します。

絢子さまは父の高円宮さまを、守谷さんは母をそれぞれ亡くし、かけがえのない家族を突然亡くした体験を共有し「心の距離がさらに縮まった」(守谷さん)。絢子さまは「今日あることが明日も必ずあるわけではないという共通の認識を持っている」と話した。

「今日あることが明日も必ずあるわけではないという共通の認識」というのは、まさしく「日日是好日」ですね。いい言葉を聞かせていただきました。

 

 


悪を為すは/おのれ自らなり/心を浄めるのも/おのれ自らなり  鈴木大拙訳『因果の小車』より

2018-06-01 | インポート

悪を為すは/おのれ自らなり/心を浄めるのも/おのれ自らなり/汝みずから努めるべし/諸仏はただ導びくに/過ぎず 鈴木大拙訳『因果の小車』より

今月のことばはポールケーラス(1852~1912)が書いた「カルマ」という仏教説話を鈴木大拙が日本語に翻訳した一節です。日本語のタイトルを『因果の小車』といいます。「仏語に曰く」として引用されているから、原典があるはずなのですが、しめされていないし、不勉強者には不明です。
冒頭のことばは恐縮乍ら、筆者の抄訳です。原文とくらべてみれば、ずいぶんとことなります。鈴木大拙訳の原文は以下のとおりです。

悪を為すは己自ら之を為す也/苦に悩むは己自ら悩む也
悪を為さざるは己自ら為さざる也/意を浄むるは己自ら浄むるなり
浄も不浄も皆己自らに属せり/誰か他人を浄め得るものあらん
汝自ら努めざるべからず/諸仏は只之が導師たるに過ぎざるなり

亜米利加足球の監督・コーチ問題が世を騒がしている今日、「諸仏は只之が導師たるに過ぎず」というのが意味深長でしょうか。
鈴木大拙訳『因果の小車』の初版は、明治三十一年に長谷川商店から出版されて、それは現代、国会図書館がデジタル公開しているから、自宅のパソコン上で見ることができます。でも、この画像が不鮮明でみにくい。読みやすいものといったら、『鈴木大拙全集増補新版第二十六巻』(岩波書店)で見ることができます。初版は平成十三年十一月です。これまで、『鈴木大拙全集』は三回にわたり編集・出版されましたが、その最新刊です。全部で四十巻という大全集です。でも、その中で、この『第二十六巻』だけが品切れで、重版の予定はないという。なぜか。
鈴木大拙訳『因果の小車』には、五つの説話が紹介されているのですが、そのなかに「蜘蛛の糸」と題した話があるのです。これが、ご存じ芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の原話だと、いつの頃からかいわれ始めたのです。それで、この巻だけが売れて品切れになっている。
関心のある方は、アマゾンでも何でもよいから調べてみてください。『鈴木大拙全集増補新版第二十六巻』は流通していないと思う。
そんな貴重本を私がもっているかというと、持っていません。先日、国会図書館でコピーしてきた果実が、今月の言葉です。


人は口の中に斧をもって生まれている

2018-05-02 | インポート

人は口の中に斧をもって生まれている。悪いことばを口にすれば、その斧で自分も他人もきりつけてしまう

(世間に生まれてより、口中に大斧有り。それを以て若し自他を斫れば、口中に悪語出ず)」(『正法念處経・巻一』)

(千田完治撮影)

ゴールデンウィークというのは、映画関係者の業界用語たったそうな。つまり、休日が続いて、観客がいっきょにふえる週間だから、そう名づけたという。でも、この映画の封切りは盆暮れだったのではないか。「男はつらいよ」シリーズです。
ふうてんの寅さんがおいちゃんやタコ社長に意見された時、たまらなくなって口にする、捨てせりふがあります。
「それを言っちゃあ、おしまいよ」
 言ったら、おしまいになるほど重大な「それ」とは何か。たとえば、おいちゃんが不用意に口にした、「ほんとうはみんな、お前に迷惑しているんだ」、なんていうせりふです。
 寅さんのまわりにいるおおかたの人が心の奥底にしまってあった真実を、言葉にしてしまった瞬間、傷ついた寅さんは柴又からふらりと出て行きます。言葉にだしてしまったほうも、「あんなことまで言わなくても」と後悔する場面です。そんなシーンを予想していたかのような文言が、仏教経典にあります。
「人は口の中に斧をもって生まれている。悪いことばを口にすれば、その斧で自分も他人もきりつけてしまう(世間に生まれてより、口中に大斧有り。それを以て若し自他を斫れば、口中に悪語出ず)」(『正法念處経・巻一』)
 寅さんの例でいえば、「ほんとうはみんな、お前に迷惑しているんだ」というのは悪口です。でも、真実です。真実が人を傷つけるならば、お世辞やウソでその場をごまかせばよいのでしょうか。口にしてはいけない四つの言葉を定義している、経典がありました。
「口には四つの悪行がある。一つはウソ、二つは二枚舌、三つは悪口、四つはおせいじ(謂口四悪行、一者妄語,二者両舌,三者悪口,四者綺語}」(『長阿含経・巻八』)
 まことを言ったら角が立つ。お世辞や二枚舌で固めたら、ウソになる。とかくことばは難しいものです。


花御堂の花しほれたる夕日哉 正岡子規

2018-04-01 | インポート

花御堂の花しほれたる夕日哉 正岡子規


明治三一年の句だという。この句をよむおよそ二か月前の二月一四日に『再び歌よみに与ふる書』発表して、「貫之は下手な歌よみにて『古今集』はくだらぬ集に有之候」と激烈な歌論をくりひろげた正岡子規です。
四月八日がお釈迦さまの誕生日、降誕会ですから『再び歌よみに与ふる書』が発表された二月十四日はおよそ二か月まえです。明治三一年は当然ながら新暦ですが、明治三一年頃は月遅れの降誕会をしていたのではないか。そうでなくては、花御堂を飾る野の草花はさいてなかったのでは。だから、五月八日頃の情景ではないか。『子規全集』などで調べればわかるのでしょうが、あいにく手もとにありません。だれか調べてみてください。

子規はずいぶんと降誕会の句を作っています。短い生涯を走り抜けた俳人は膨大な数の俳句を作っているから、春の季語の降誕会の句が幾つかあるのも当然といえば当然なのですが。
『歳時記』をめくっていて知ったのですが、四月八日は虚子忌なんですね。高浜虚子は昭和三四年に八十四歳で亡くなっています。五日後の四月十三日は石川啄木が亡くなった啄木忌。啄木忌に寺山修司つくった俳句を紹介して、少しばかり忙しく開けた四月のことばのオマケとします。寺山修司が高校時代に『蛍雪時代』に投稿して、中村草田男が講評していたんだって。それにしてもも『蛍雪時代』なんて雑誌を知っているのは、何歳くらいまででしょうか。私は雑誌の名前は知っていますが、読んだことはありません。新しく蛍雪の時代を迎える新入生の季節です。


便所より青空見えて啄木忌  寺山修司