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松岩寺伝道掲示板から 今月のことば(blog版)

ホームページ(shoganji.or.jp)では書ききれない「今月のことば」の背景です。一ヶ月にひとつの言葉を紹介します

是非の初心、忘るべからず。時々の初心、忘るべからず。老後の初心、忘るべからず 世阿弥『花鏡』

2025-06-01 | インポート

「是非(どうあっても)の初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず」世阿弥『花鏡』

 2ヶ月前の4月の言葉は、妙心寺派発行の月刊誌『花園』、巻頭ページから引用しました。6月の言葉は、『花園』誌の最終部の連載、「としよりのむだごと」より孫引きします。
 執筆しているのは、頑迷庵(がんめいあん)さん。もちろん、ペンネームです。妙心寺派に属するご住職で本名も存じているのですが、本人が頑(かたく)なに迷い庵と名のっているのだから、身をバラすのは失礼かと。
 頑迷庵さんの似顔絵を描いているのは、三木澄子さん。拙書『おうちで禅』と『またまたおうちで禅』のイラストを担当した画工です。
「初心忘るるべからず」は、世阿弥の『風姿花伝』にある名句です。頑迷庵さんのすごいところは、『風姿花伝』ではなくて、世阿弥のもうひとつの著作『花鏡(かきょう)』から「初心」の項を引用しているところです。『花鏡』の「初心」は、「初心不可忘」としたあと、「この句、三ケ条の口伝(くでん)在り」として、冒頭にかかげた、「是非の初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず」をあげています。
 現代語訳すれば、「良くも悪くも、修行をはじめた頃の初心を忘れるな! 修行の各段階の初心を忘れるな! オトロエタナー、と感じた時の気分を忘れるな!」。とでもなるでしょうか。「初心、忘るるな」には、三つのおまけがあるとは知らなかった。
 ところで、頑迷庵さんの「はじめのこころ」と題したこの文章は『花園』誌4月号に掲載されています。ほんとうは、5月号にある「お茶のはなし」を紹介したかったのですが、これは伝道掲示版の寸言にはならない。伝道掲示版には不向きだけど、どうしてもご紹介したかった話を、以下に一部分を引きます。

 妙心寺の開山さまの逸話に、戸外で雨に濡れて茶摘みをする修行僧を不欄(ふびん)に思われ、茶の枝を刈り取って室内で茶葉を摘むように指示されたとの話がある。しかしながらこの話、いささか腑に落ちない。それは、雨や夜露に濡れた茶葉を摘むことは決してないからだ。これにはいろいろなわけがあるようだが、濡れた茶葉はすぐさま発酵しはじめてしまうからだと聞いたことがある。発酵した茶葉では日本の緑茶にならないのだ。
 中国では烏龍茶のように生葉を発酵させて製茶することもあるのだが、はたして開山さまの時代、妙心寺ではいったいどのような茶を飲んでいたのだろうか。

 妙心寺開山(かいさん=創始者)の茶摘みの話は、妙心寺派に属する者には、よくしられた話で当然私も知っていました。でも、この話の深意はよくわからない。開山さまのやさしさを伝えようとしたのだろうか。なんなんだか、わからない。わからないから、私はご紹介したことがなかった。でも、頑迷庵さんのように、「雨や夜露に濡れた茶葉を摘むことは決してない」から「開山さまの時代、妙心寺ではいったいどのような茶を飲んでいたのだろうか」という切り口で、探っていくと、開山・無相大師(一二七七~一三六〇)の時代のお茶から食、あるいは外交事情まで色々なことがわかってきます。
 でも私には「濡れた茶葉はとらない」という基礎知識がないから、「開山さまの時代、妙心寺ではいったいどのような茶を飲んでいたのだろうか」という疑問に結びつかなかったのです。
 大リーグの大谷選手が三試合連続でホームラン打っても、そう驚かなくなった今ですが、「濡れた茶葉は摘まない」という気づきは私にとって場外ホームランです。


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母の日のてのひらの味塩むすび 鷹羽狩行

2025-05-01 | インポート

母の日のてのひらの味塩むすび」 鷹羽狩行

 写真 千田完治

 時節季節にあう言葉を毎月のことばにしようと思っています。5月は風薫るようなことばにしようとするからでしょうか。先住職から掲示版を受け継いで、20年ほどになるけれど、母の日のことぱはたぶんなかったと思う。
 というわけで、俳人の鷹羽狩行(たかは しゅぎょう・1930~2024)の俳句にしました。鷹羽氏は山形県生まれで山口誓子に師事し、数々の賞を受賞し毎日俳壇・NHK全国俳句大会などの俳句選者をつとめたようです。
 俳句愛好者でもない私がこの句と巡り合ったのは、櫂未知子著『食の一句』(ふらんす堂)という便利な詞華集(アンソロジー)です。では、櫂氏の講評はというと。

〈「おにぎりカフェ」が人気だという。そこのメニューに〈塩むすび〉はあるのだろうか。海苔も巻かず、米と塩だけを供する塩むすびはまさしく家庭の味。かつての母達は、おなかをすかせた子供達のためにさっとおむすびを作ってくれた。贅沢とは無縁だった古き日本の母親達は、その〈てのひら〉から素朴な、しかし間違いなく美味しいものを生み出してくれた。子が母を信頼するのは、理屈ではない。空腹を満たしてくれたかどうか、である。(『遠岸』)季語=母の日(夏)〉

  櫂未知子著『食の一句』は2003年1月から12月まで、ふらんす堂のホームページに連載されたものを一冊にまとめた本だという。だから、櫂氏が「おにぎりカフエが人気」と書いたのは、20年前のことになるけれど、今も「カフェ」というかどうかは知らないけれど、おにぎり屋さんはあちらこちらにあるし、外国にも進出しているというから、おにぎりは永遠不滅なのでしょうか。
 おにぎりって買うものではなかった。なんていうとジジイなのがばれてしまうけれど、どうやって開いたらよいかわからない包装紙(フィルム)を身にまといコンビニで現れたのが、売り物として登場したおにぎりの最初ではないだろうか。
 あるいは、「おにぎり」なのか「おむすび」なのか、とか円いのか△なのか、俵形なのか、塩だけでなく、混ぜる具は、とかいくらでも書けますね。いくらでも書けるというのは、それだけ偉大なわけです。母が偉大なのと同じに。偉大だけど、少し寂しさもまじっているのが、おにぎり。母の日って、寂しさも混じってないですか。

 

 


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青空のもと一人颯爽と歩むこの先には気持ちの良い青空が広がっていると信じて   山川宗玄妙心寺派管長

2025-04-01 | インポート

「青霄を独歩す(せいしょうをどっぽす)」

青空のもと一人颯爽と歩むこの先には気持ちの良い青空が広がっていると信じて

山川宗玄妙心寺派管長

 

 4月8日はお釈迦さまの降誕会です。降誕会とは、「釈尊の誕生を奉讃する法会(ほうえ)。灌仏会(かんぶつえ)」(広辞苑)です。
 キリストさまのクリスマスに比べて、地味で知らない人も多い。僧侶たるもの、4月には声を大きくして「花まつりだー」と叫ばなくてはいけないと思う。
 さて、4月は新入社員もいるし入学式もあるし、新学期もはじまる。「新」の季節です。わが妙心寺教団が発行する月刊誌『花園』も4月号から表紙と巻頭のデザインが一新されました。4月号の表紙は山川宗玄妙心寺派管長の墨跡で、「青霄独歩」とあります。「霄」はなじみのない字だけど、白川静『字通』を引くと,「みぞれ。くも、宵(よい)と通じ、きえる、暗くはるかない意によって、天空の意にもちいる」とあるから、少々複雑でただの青空ではなさそうです。花園誌には「せいしょうをどっぽす」と、読みがなもふられています。その上、管長様ご自身の解説まであります。(管長は、禅宗では教団の代表者をあらわす職名ですが、実務的な代表というよりは、象徴的存在です。現管長の山川宗玄老師は昨春に就任されました。宗玄老師は昭和24年、東京東久留米市の米津寺に生まれ埼玉大学理学部物理学科卒業というおもしろい学歴です)。長くはないので、全文を載せます

 青空のもと一人颯爽と歩く、なんと清々しい言葉でしょうか。
 この春新しく社会人になる方、新たに進学する方たちにこの言葉を贈ります。
 我々は誰でも色々な人たちに助けられながら生きています。しかしその分、世間のしがらみに束縛されることも多いようです。真に自由な人間となるには先ずこの柵(しがらみ)から自立することが必要です。孤独と共にある清々しさ、何ものにもとらわれず歩む自由、そして独り堂々とこの人生を歩んでいくのだという自覚。
 人生の岐路に立つ多くの人に、今こそしっかりと自分をもち、自分の人生に責任をもって独り歩いていただきたいと願います。誰かのせいにする人生はつまらなく、美しくないものです。
 そうして独り歩むこの先には気持ちの良い青空が広がっていると信じて。

 管長さまの墨跡と解説は、まさしく、降誕会の言葉です。
 約二千五百ほど前の四月八日、現在のネパールにあるルンビニーで生誕された釈尊は、「手助けなくして四方に行かれること各七歩されて、自ら、天上天下、ただ我のみ独り尊し」。そう、仰ったという。いくら聡明な釈尊でも、生まれてすぐに歩きはしないし言葉も発しない。後の時代にできた神話です。そんな神話化は、釈尊ご自身にとっても迷惑な話でしょうが、現代日本では、「唯我独尊」を、「ひとりよがり」のたとえと誤解するから深刻です。このやっかいな4文字があるから降誕会の説明は簡単ではない。4文字をいかに読み解けば良いか。キーワードは、「独」の字です。
 宗玄管長さまは解説のなかで、「孤独と共にある清々しさ、何ものにもとらわれず歩む自由、そして独り堂々とこの人生を歩んでいくのだという自覚」。そう書いておられる。まさしくこれは、「唯我独尊」の現代語訳ではないだろうか。
 しかしひとつだけ、管長さまに向かって凡僧の私などが申し上げるのは非礼ではありますが、「独り歩むこの先には気持ちの良い青空が広がっていると信じて」東西南北に各七歩されたのが、釈尊の誕生で仏教のはじまりになるわけで、凡夫はそれに気がつかないから、そこのところを明らかに記していただきたかった。もっとも、「奧に潜めた深意がわかるかなぁー」と、にんまりして読者を試しているかもしれない

 


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香は禅心よりして火を用ゐることなし花は合掌に開けて春に因らず  菅原道真

2025-03-01 | インポート

香は禅心(ぜんしん)よりして火を用ゐることなし花は合掌に開(ひら)けて春に因(よ)らず     菅原道真

 写真 千田完治

 へぇー、と自分自身で驚いてみる。冒頭にかかげた詩句は有名だけど、まだご紹介していなかったか(有名だから紹介しなかったのかも)。
 詩の背景と現代語訳は、大岡信著『第四折々のうた』から引用します。「折々のうた」は昭和54(1979)年から平成19(2007)年まで、朝日新聞朝刊第一面に大岡信(1931~2017)が連載したコラムです。全文を紹介します。

〈『和漢朗詠集』巻上「仏名」。『菅家文草』中の仏教法会を詠じた長詩「繊悔会作、三百八言」からの一節。言い廻しが漢詩独特だが、大意はおよそ次のようになるだろう。「香は火を用いてたくものである前に、何よりもまず禅定の心のうちに薫るのだ。花も春の到来によってはじめて開くのではない。何よりもまず合掌した手に花は咲くのだ」と。意味もさることながら、表現法そのものに妙味がある。〉

 新聞掲載時は一行が20字で9行。全部で180字に収めるという名人芸です。もう、ちょっとかみ砕いた現代語訳を引きます。川口久雄訳註『和漢朗詠集』(講談社学術文庫)から。

〈禅定の心がしっかりしてさえいれば、別に火をもってきて香を焚かなければならないということはありません。しっかり合掌することができてさえいれば、それが仏にまつる花なのであって別に春をまつことはありません。〉

 くだいてくだいてわかりやすくドロドロになった現代語訳です。ただ、大岡訳も講談社学術文庫訳も「禅心」を「禅定」と訳しているのですね。禅定のほうが、かえって難しくなっているのではないかなぁー。
「定」の字を白川静『常用字解』(平凡社)は「安定」と教えてくれます。「禅」の字をみて、現代人は「禅宗」の「禅」、あるいは「坐禅」の「禅」を連想してくれるけれど、もともは「ゆずる」っていう意味なんだそうだ。「禅譲」と言うじゃないですか。けんかしないで、譲りあうような。安定した状態ならば、香を火で焚かなくても、香(かぐわ)しい花のような人間になれる、と天神様はおっしゃっている。でもねー、そんな人を見たことある? いないよね。実現不可能なことをなぜ、詩にするのか。
 こう、思うのです。香しくて花のような人物というのは、北極星のような存在なのではないか。星は手に取ることはできない。でも、いつも同じ場所にいるから、行くべき場所を示してくれる。願いは大きいほどよい。


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何を言っても画いた牡丹餅(ぼたもち) 聞いたばかりではお腹は飽(ふく)れず 水も飲まねば冷暖知らず 坐ってみなければ禅はわからない 白隠禅師

2025-02-01 | インポート

何を言っても画いた牡丹餅(ぼたもち) 聞いたばかりではお腹は飽(ふく)れず 水も飲まねば冷暖知らず 坐ってみなければ禅はわからない 白隠禅師『おたふく女郎粉挽歌』

1月中旬に冬の京都へ行きました。京都もわが本山・妙心寺界隈(右京区花園)は静かです。そこからバスで20分ほど乗って嵐山となると原宿状態。とは言っても原宿なんて行ったことないけれど。
 嵐山は歴史ある景勝地だからしょうがないとして、以前は行列などしなくてもスンナリと手に入れられたものまでが、入手困難になっている京都です。たとえば、町衆のおやつだった某店の豆餅。
 それが、今回さいわいに手にはいりお土産にしました。その、写真をアップします。でもねー、これって見せびらかすだけで、まったくもって「画に描いた餅」。みなさんは口にはできない。スミマセン。
「画に描いた餅」を、『日本国語大辞典』(小学館)でひくと、「画餅(がべい)」(「がへい」とも)の見出しで、「実際の役には立たないもの、骨折り損になることのたとえ」として、例文に抜隊得勝禅師著『塩山和泥合水集』(1386)から「なほ画餅の飢をみてざるが如し」をあげています。「みてざる」は「充たすことができない」の意味。「画に描いた餅」は鎌倉時代の禅僧も使った由緒あることばなのです。抜隊得勝禅師ばかりか、曹洞宗の開祖・道元禅師(1200~1253)は著書『正法眼藏』に「画餅」の巻をもうけているくらいですから。
『正法眼藏』って難解な書物でしられるけれど、餅にかんしてもやわらかくはない。こんな調子です。「画餅不能充飢(がびょうふのうじゅうき)と道取するは、たとえば諸惡莫作(しょあくまくさ)、衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)と道取するがごとし」(日本思想大系12『道元』岩波書店)。
 つまり、「絵に画いた餅と体得するのは、(悪いことをしないで良い事をしょう)というのと同じように、言うのは簡単だけど、行うのは難しい」。
 道元がここで、「諸惡莫作、衆善奉行」という言葉を引っぱってきているのには深い意味があって、それについては花岡博芳著『またまたおうちで禅』(春陽堂書店)の69ページ、「京都・祇園祭に登場する禅僧」を読んで! この本、まだお持ちでない方は買って! 年が変わっても、『またまたおうちで禅』の営業は変わりません。
 というわけで、現代日本のおおかたの辞書は「画餅」を「役に立たないもの」と解釈するのですが、禅僧は「やってみなければわからない。さぁー、起ちあがれ」の意味で使います。
 今月の言葉にしたのは、白隠禅師(1685~1768)の著作だとされる『おたふく女郎粉挽歌』から引用しました。原文は「まだしも近道、坐禅が何より、望な御方は大善知識に真実篤(とっく)り参禅しめされ、こゝでいふても書いた牡丹餅、聴いたばかりで御腹はれず、水も飲まねば冷暖知なひ」(芳澤勝弘訳註『白隠禅師法語全集13』禅文化研究所)
 原文とおりでは、わかりづらいから、私めが加筆いたしました。実をいうと、白隠作『おたふく女郎粉挽歌』も白隠自身が書いたのは最初の十句だけで、白隠遷化後63年して「老乞士」なる人物が加筆したものが今日伝えられている。というややこしい成り立ちの「歌」です。だから、そのうえにまた駄文を加えても怒られまい。
 ところで、今年のNHK大河ドラマの影響もあって、『おたふく女郎粉挽歌』というタイトルで、「女郎」という言葉に現代人はどんなイメージをもつだろうか。女郎=遊女といった印象をもつのではないか。これも違うんだなー。広辞苑は「身分のある女性。若い女、広く女性をいう」と教えてくれますし、遊女も「室町時代には遊芸に従事して皇族の周辺にも出入りし得た芸妓」のことを言ったらしいから、言葉は変化するので今の感覚で読むと、正しい姿はみえてこない。
 さてさて、2月は釈尊の涅槃会(2月15日)の月ですし、節分もあります。節分の正しい豆まきの仕方も『またまたおうちで禅』239ページの「鬼のひそひそ話」を読んで! そして、2月といえば入学試験のシーズン。こんな三択の問題、どこかに出ないだろうか。

〈問い〉ことわざ「絵に描いた餅」に該当する英語表現を以下の3つの内から一つ選べ
1 No sweet without sweat
2 A picture is worth a thousand words
3 Pie in the sky 

 これ、道元さんや白隠さんはできるだろうか


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