松岩寺伝道掲示板から 今月のことば(blog版)

ホームページ(shoganji.or.jp)では書ききれない「今月のことば」の背景です。一ヶ月にひとつの言葉を紹介します

菊を採る東籬の下 悠然として南山を見る      陶淵明(とうえんめい)

2021-10-05 | インポート

 

 

 花岡博芳著/川口澄子画/山原望装丁の『おうちで禅』が、7月に春陽堂書店から出版されました。四十の独立した話から構成されていて、各項目の冒頭に、それぞれ名言名句を掲げています。10月もしつこく『おうちで禅』のことばから、第3章第7話のタイトルは、「菊を葬式の花に使うとはもってのほか」。
 冷泉家の現当主夫人・冷泉貴実子さんが、
「菊は中国原産の花である。日本へは長寿の効用の伝承とともに入ってきたが、ヨーロッパには、その思想はなしに花だけが伝えられたようだ。欧米人はこの花を墓参するときに好んで持っていくらしい。その習慣が近年日本に入ってきて、今、白菊というと葬式を連想するのは、この美しい尊い花への悲しい、浅はかな流行でしかない」。
 そう嘆いているのを引用して、禅と菊の色々を総括する詩句として掲げたのが、陶淵明(365~427)の「採菊東籬下、悠然見南山」です。
『おうちで禅』を編集したときは、忘れていたのですが、金田一春彦著『ことばの歳時記』(新潮文庫)に以下のような興味をひく指摘がありました。エチケット違反かもしれないけれど、スキャニングして全文を紹介します。

 中国の詩人、陶淵明の詩に「采菊東籬下悠然見南山」という有名な一節がある。日本ではこれを「菊ヲトル東籬ノ下、悠然トシテ南山ヲ見ル」と読むので、菊の花を東のかき根のところで摘み、悠然として南の山を眺めると解釈する。つまり「見る」の主語は菊を採った作者自身と見る。しかし、中国の人に言わせると、「見南山」というのは南山を眺めるのではなく、南山が見えるのだ、という。
 そういえば、中国語では雨が降ることを「降雨」といい、冬になることは「立冬」という。「山あり川あり」は「有山有河」だ。出現するのを表わす主語は述語の動詞よりもあとにくる。そうすると、「見南山」は「南山見ユ」でいいはずだ。
 英語などでは、目的語と他動詞との組み合わせの表現が好きで、I see the mountain というが、日本語では、「山がある」だ。従ってこれも、悠然トシテ南山見ユ、とやった方が東洋的のはずで、その方がゆったりとした中国の詩の雰囲気を、よりよく表わすことができる。

 言語学者の金田一先生が説明してくれると上記のようになるのですが、これを禅学者が解説すると、少し斜に構えた表現になります。柳田聖山著『禅語の四季』(淡交社)にも「悠然、南山をみる」という項があります。その冒頭を引用すれば。

 秋は、文学の季節である。陶淵明の、悟りの歌を想い起す。彼は、盧山の念仏結社に入ることを勧められて、酒を飲んでもよいという条件でそれに応じたが、山門の結界石を見ると、顔をしかめて引きかえしたという。詩と酒の日常生活が、すでに彼の仏教であった。悠然というのは、山を見ている淵明の心境であるが、淵明が見た山もまた、悠然としていたに違いない。彼は、東の垣根に菊を手折りに来ただけだ。ふと頭をあげると、そこに南山が目に入ったのである。彼は、山を見に来たのではなかった。山は無心にその姿を現わしたのである。そのとき、南山もまた悠然と淵明を見た。思わぬ感興がそこに涌く。そうした状況が、文学である。

 金田一、柳田両先生も同じく、「南山を見る」ではなくて、「南山が見た」と言っているけれど、柳田先生の書き方には、従来の読み方を訂正することへのためらいと遠慮が感じられるような気がする。なぜなのだろうか。
 一字の読み方によって、句の気分が大きく変化してしまうから、禅は「とらわれるな、こだわるな」と言いながら、 「南山を」なのか「南山が」なのか、こだわって、とらわれているところがおもしろい。


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