松岩寺伝道掲示板から 今月のことば(blog版)

ホームページ(shoganji.or.jp)では書ききれない「今月のことば」の背景です。一ヶ月にひとつの言葉を紹介します

俺達は同じ人間やろ?    又吉直樹『火花』より

2015-06-30 | インポート

達は同じ人間やろ? 間違ってる人間がおったら、それ面白くないでって教えたらな。人が嫌がることは、やったらあかんって保育所で習ったやん。

「番茶も出花」なんて書いたら失礼でしょうか。禅では、「好時節」とも「投機」ともいうけれど、時機にぴたりとはまるのは今しかない今月のことばです。
芸人の又吉直樹の書いた『火花』が7月16日に決まる芥川賞の候補作品になったというのを聞いて、本屋で平積みになっている一冊を買い求めたのは6月の中旬でした。
寺の掲示版にそんな小説の一節を紹介するのも7.16以後では遅すぎる。今しかないのです。
150頁ほどの長くはないけれど、短くもない読み物で、一気に読み終わったかというと、中ほどで読み疲れて数日ほっておいたある晩、怒り心頭、胃が煮えくりかえるような出来事があって、再び手にとって一気に読み終わりました。煮えたぎった心をクールダウンさせてくれるには恰好の小説です。
冒頭に紹介したのは、芸人の先輩・神谷のことばです。少し売れ始めた後輩の徳永が、ネットに自分の悪口を書かれるようになりました。その事を神谷に尋ねます。
「人の悪口ばっかりの書き込みに対して、反論するのは、そいつ等と同じレヴェルになるから、やらん方がいいって言う奴おるやん?」
神谷がこたえます。
「レヴェルってなに? 土台、俺達は同じ人間やろ? 間違ってる人間がおったら、それ面白くないでって教えたらな。人が嫌がることは、やったらあかんって保育所で習ったやん。俺な自慢じゃないけど、保育所で習ったことだけは、しっかり出来てると思うねん。全部じゃないかもしれへんけどな。ありがとう。ごめんなさい。いただきます。ごちそうさまでした。言えるもん。俺な、小学校で習ったこと、ほとんど出来てないけど、そういう俺を馬鹿にするの大概が保育所で習ったことも出来てないダサい奴等やねん」
だいぶ前に『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』ロバートフルガム著(河出書房刊)という本があったけれど、やっぱし幼稚園ではなくて保育園でないとこの小説にはしっくりこない。
それと幼稚園で学んだのは知恵になっているけれど、先輩芸人が保育園で学んだのは知恵ではなくて、智慧です。知恵と智慧はどうちがうのか。私流に言えば、知恵は忘れてしまうもの。智慧は身体の奥底まで染みわたって、忘れようにも忘れることのできないもの、と定義しています。仏教は智慧の宗教だとどなたかが書いていたけれど、先輩芸人のいうのはまさしく仏教的な智慧だと思う。なぜなら、仏教は何かといえば「諸惡莫作(しょあくまくさ)、衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)、自浄其意(じじょうごい)、是諸仏教(ぜしょぶっきょう)=「悪をやめ善をおこなおう。そして、自身の心の浄化に努めること、これが時空越えた仏たちの教えであるから」です。まさしく、小説『火花』のことばは、衆善奉行ではないですか。
ところで、掲げた写真は一休禅師の「諸惡莫作、衆善奉行」です。風狂の禅僧・一休禅師はこのことばを隨分と染筆して残されているようです。風狂と善。意味が深いなぁーと思うのです。

 


真理は……。中峰明本のことば

2015-06-09 | インポート

真理は/言説を離れ/思惟を離れ/分別を離れ/取捨選択を離れている    中峰明本(ちゅうほう/みょうほん)『山房夜話』(さんぽうやわ) 

今月のこばは中国・元の時代の禅僧・中峰明本(1263~1323)のことばです。
どこから見つけてきたかというと、知人の松原信樹君が訳注した中峰明本『山房夜話』(汲古書院刊)からです。信樹君がそんな本を出版したのは風の噂で聞いていた。聞いてはいたが、読むのに根気の要る本で、しかも定価が8,000円となると、購入するのをためらっていました。すると信樹君の祖父・松原泰道師と御父君・松原哲明師の七年忌法要が5月末にあって、参列したらその引き物として、頂戴したという次第です。
中峰明本と聞いても馴染みはないでしょう。恥ずかしい話ですが、私も「中峰和尚座右銘」というのを知っていただけでした。なぜ、知っていたかというと、「末世の比丘、形沙門に似て、心に慚愧無し。身に法衣を着けて、思い俗塵に染む(今頃の坊主ときたら、法衣を着て坊さんらしい格好をしているけれど、中味は俗世の煩惱に染まっている)」と始まる、まったくもって嫌みというか激烈な戒めを、修行道場の開枕(就寝)の時に毎晩木魚に合わせて読誦したので、お名前だけは知っていた、というまことににみっともない話なのです。
さっそく拾い読みをして、見つけたのが今月の言葉です。『山房夜話』は深い山奥に隠れ住んでいた中峰のもとをひとりの隠者が訪ねてくる。ふたりは夜坐をする。「時に山にかかった月は照り輝き窓は昼のように明るかった」。そんな情景で、隠者が中峰にいろいろな質問をします。
7番目に「見性という道理について」という小見出しのついた一節に「言説という有り様を離れ……」がでてきます。まずは原文です。

若使一期説性、則不妨偏将古人極理之談、従頭記一偏過、其如転説転遠何。蓋見性之理、離言説相、 離思惟相、離分別相、離取捨相

何がなにやらわからないから、書き下し文はというと、

「若使(も)し一(もっぱ)ら性を説くことを期さば、則ち偏(あまね)く古人の極理の談を将て、頭(はじめ)従り記すること一偏し過ごすことを妨げざるも、其れ転た説かば転た遠きことを如何せん。蓋し見性の理は言説の相を離れ、思惟の相を離れ、分別の相を離れ、取捨の相を離る

これでもわからないから、松原信樹訳をみてみると、。

もし、もっぱら仏性についてしゃべりたいと望むのであれば、古人が説いた究極の真理の言葉を、片っ端から全部暗記してしまっても構わないが、〔そんなことでは〕しゃべればしゃべるほどことば〔真理から〕遠のいてしまうことになる。思うに、見性という道理は、言説という有り様を離れ、思惟という有り様を離れ、分別するという有り様を離れ、取捨選択するという有り様を離れている

一字一句を忠実に訳していくわけだから、すごい根気がいる作業です。でも、まだわかりにくいですね。料理でいえば、もう少し庖丁をいれて、調理料くわえて、盛りつけも工夫をこらして美味しくしてくれればよいのですが……。今時は超訳なんていう言葉も聞かれるけれど、それをやってはいけないのが、訳注本です。原典になるべく近づこうとするわけです。すると常に問題になるのが翻訳です。中国・元の時代の言葉を現代の日本語に翻訳するわけです。中峰の生きた時代は日本でいえば鎌倉時代です。道元さんが(1200~1253)だから、『正法眼藏』を現代語訳するのだって困難なのに、同じ漢字を使っているといっても外国語ですよ。だから、いろいろな問題がでてくる。
松原君の訳注本とは直接には関係ないけれど、こんな論争がおきています。長くなるから詳しくは書かないけれど、こういうことです。
語学的な研究が進んで「千年以上前の中国の方言さえも正確に読めるようになった」という学者グループがいます。だから、「これまでのお坊さん方が読んできた読み方は間違っていた」と非難されるわけです。それに対して、お坊さん方は「そう言われればそうかも」と、深く考えないで、降参してしまうわけです。すると、異なる学者さんのグループが雄叫びをあげます。「現代の日本人の解釈のみが正しいのであれば、ほぼ一千年の間、中国も日本の禅僧もほんとうの意味がわからなかったのか。いやそんなことはない」という反論がでてきます。外野席で見ていると面白のですよ。これは機会を作っていつかご紹介します。