松岩寺伝道掲示板から 今月のことば(blog版)

ホームページ(shoganji.or.jp)では書ききれない「今月のことば」の背景です。一ヶ月にひとつの言葉を紹介します

六十、七十は洟垂れ小僧 八十になって一人前 男盛りは百を過ぎてから 大西良慶

2018-09-01 | インポート

             写真/佐藤虹二

月17日は敬老の日、ハッピーマンデーとやらで毎年変動するようになってから、少しばかり存在感が薄れたのでは。敬老の日にちなんで今月の言葉は、京都・清水寺前貫主・大西良慶師のことばを森清範現貫首の著作『心に花を咲かそう』(講談社)から引用しました。良慶和上は昭和58年2月15日に百九歳で亡くなられています。2月15日といえば、釈尊涅槃と同じ日。やるな!という感じ。その辺の消息を森清範師の著作から引用しようと思ったのですが、清範師の本は購入可能だから、買って読んでください。
そのかわりに、あまり手に入らない写真集から良いお年寄りの顔と文章を拝借します。佐藤虹二(こうじ)氏撮影「父の顔」(東京都写真美術館蔵所蔵)です。虹二はペンネームで、お檀家です。8月のことばの1945年8月末の写真と二ヶ月続いての登場です。引用したのは『佐藤虹二の写真』からです。この写真集は限定600部の私家版だから、たぶん流通してないと思う!冒頭に掲げた写真への撮影者本人のコメントです。

父の顔、母の顔  1947(昭和22年)9月18日記
私の作品「父の顔、母の顔」が光画月刊復刊記念懸賞の最高位に入選した。もちろん自信のない作品ではなかったが凡そ懸賞向きといえぬあの写真が推薦となった事は私には望外だった。
私があのテーマを思い付いたのは、昭和20年8月14日即ち終戦前夜の熊谷空襲中に始まる。落下する焼夷弾と燃え盛る炎にあおられながら、父と私、母と妹達で混乱の中を別れた。時過ぎて母達は私達を案じ、父や私は母達を案じた。互に探し求めて打ち合わせてある場所から家の方へ戻る途中、バッタリと路上で会合した。母は私達の手を握り泣きじゃくった。父は'良かった、とたった一言いったきりだったが、両眼にはチラリと光るものがあった。私も胸にこみあげるものを感じながら母の手を夢中で握った。こうして罹災後、私は父の愛や母の愛を更に強く感じる様になった。
落着いて写真が写せる様になったら第一に両親の写真を撮ろう。気のすむ迄写させてもらおう。そうして絶えず私は母の姿や父の姿を追った。母はカメラの前に立てる事は容易であるが父は中々簡単にはうんといわぬ気性だった。
一言にしていえば野人的である父は、日常の言動から風貌までが何か彦六似た風格を持っていた。激しい気性で気むずかしい所もあるが物に動ぜぬオットリした所もある。本気で自分のいった事はあくまで通すといった気風がある。然しその反面には案外アッサリとしたあきらめ方で我々のいう事を承認する場合もある。ほとんどその一日を夏も冬も天候と水の条件が良ければ荒川へ漁に出かける父は漁師といっても立派に通る色をしている。「俺の色の黒いのは他の連中のよりつやがあってきれいだそうだ」。だれかにこんな事をいわれて、一人で喜んでいる子供っぽい所もあった。美男子という言葉は適当ではないが年齢が、作りあげた容貌は美しいという事が出来る。父の顔を見ていると野人的ではあるが立派な顔であると思う。年毎に口やかましく小言をいうので母などは恐ろしがっている。もちろ、私も苦手で40才に近い年でありながら未だにこの小言が恐ろしい気がする。
こうした父を、カメラの前に向けるという事は中々大変な事である。私はかなりの永い間チャンスをねらって父がそのままいながら撮影出来る日を待った。

 乾いた冷静な文章ってすごいと思う。そんなふうに書きたいと思うのですが、難しいのです。

 


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