もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。魯迅『故郷』より
石ころだらけの道を歩いたり、車で走ったのはいつのことだろうか。と、記憶を呼び戻してみても、容易に思い出すことはできません。ナビゲーションの指示にしたがって、きれいに舗装された道をたどるのに慣れてしまったこの頃です。「道普請」なんて言葉は死語になり、道を造ることも、修理することも巨大な公共事業のひとつである今、「歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」というせりふが新鮮に響きます。
標題の言葉は、作家魯迅(1881~1936)の短編小説『故郷』の結末の一節です。
思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものでもある。もともと、地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。-魯迅著『阿Q正伝・狂人日記』竹内好訳・岩波文庫
この一節を読んで思い出すのは、高村光太郎(1883~1956)の「僕の前に道はない」の「道程」ではないでしょうか。「道程」が書かれたのは1914年(大正3年)2月9日。『故郷』はというと、1921年(大正10年)の執筆だという。
ところで、同時代にもう一人、同じような言葉を紡いだ詩人がいます。スペイン人のアントニオ・マチャードです。詩人はうたいます。
旅人よ 道は/きみがあるいた足跡だ/それだけのことだ 旅人よ/そこに道はない/道は歩きながらつくられる-大島博光訳「世界現代詩文庫24」土曜美術出版販売刊-
旅人よ……は詩集『カスチリヤの野』に収められています。その刊行は1912年。マチャードから「道程」『故郷』まで9年の隔たりがある。しかし、光太郎は1906年から1909年まで、アメリカ・ヨーロッパに留学していた。
三人はおたがいにその言葉を知っていて、影響されあったのか。それとも単なる偶然なのか。ユーラシア大陸の極東と西北端で同時代に同じような気分を伝えた三人がいた。と、思うとなんだかゾクゾクしてきませんか。
小さな寺のちいさな伝道掲示板の背景に、こんな気分を隠しておきました。