松岩寺伝道掲示板から 今月のことば(blog版)

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変わらぬ自分というものがどこかにあるという思いは、自分を永遠の存在だと考えたがる私たちの勝手な思い込みだ 釈迦

2020-11-01 | インポート

変わらぬ自分というものがどこかにあるという思いは、自分を永遠の存在だと考えたがる私たちの勝手な思い込みだ 釈迦

  秋本番、11月のことばも孫引きです。拝借したのは、日経新聞2020年10月23日付け夕刊、仏教学者の佐々木閑先生の「数学と仏教」というコラムです。
「変わらぬ自分~勝手な思い込みだ」の一文は、経典の一節を佐々木先生が現代語訳したものだろうと思います。が、原典が何なのかは不勉強者には定かではないけれど、これは、「諸法無我」とも「無我説」ともいわれる仏教の基本を言っているのでは。だいたい「無我」は、「人間存在や事物の根底にある永遠不変の実体的存在(アートマン)を否定すること」なんていうわけのわからない説明がされるのですが、佐々木先生の現代語訳だと、わかった気になります。
 記事の全文を下記に紹介しますが、これは、新聞紙をスキャナーして文字にしたわけです。だから、誤植などはもとの新聞記事にはなくて、私の責任です。それにしても、パソコンのモニターに映る文字より新聞紙に印刷された文字の方が読みやすくて、スゥーッと頭に入ってくるのは、私がお爺だからでしょうか。
 今週のはじめに少しばかり用事があって、一年ぶりに新幹線に乗って京都へ行きました。スマホで列車の出発時間を調べて、紙にメモする代わりに、メールで自分自身へ送信してメモ代わりにしました。これが、何度見ても、列車の出発時間が記憶できない。紙にメモしていた時は、いくらアルコール漬けの頭であっても、もう少し覚えられたように思う。これは爺さまだけのことなのか。学校教育で、「タブレットの活用を!」なんて言われているけれど、タブレットのディスプレーに映る画像で深い思考ができるのだろうか。孫引きばかりの教育にならないのだろうか、と思うのは私だけでしょうか。
 では、仏教学者の佐々木閑先生「数学と仏教」の全文を紹介します。全文を載せるのはエチケット違反かも?


 19世紀末に活躍したアンリ・ボアンカレという偉大な数学者がいる。彼は、科学哲学でも素晴らしい本をたくさん書いたが、その中でとても面白いことを言っている。わたしたちは、固体でできた世界に生きているので、ものごとを固体のように認識する傾向があるというのだ。たとえば三角形の物体があったとして、それを別の場所に移しても、元と同じ三角形のままである。私たちはそれをあたりまえのことだと考える。しかしそれは、固体の世界にいるからそう思うのであって、たとえばこの世が流動的な液体でできた世界であったなら、もののかたちは常に変わっていくのだから、「かたちを変えずに物を移すことができる」などとは思いもしないだろうというのである。
 このボアンカレのアイデアが面白いのは、私たちがあたりまえだと思っているこの世の様相が、実は、自分たちの置かれた特殊な環境によって作られている特殊な姿にすぎないと喝破したところにある。このボアンカレの視点を、外部の物体ではなく、私たちの心にあてはめてみると、ますます面白い。
 私たちは「自分」というものがあると思い込んでいる。どこにあるかはわからないし、それがどんなものか、実体も知らない。それでもどこかに、変わちぬ「自分」というものがあって、それが私たちの真の姿だと考えるのである。「自分探し」とか「本当の自分と向き合う」といった言い方がその思いをよく表している。
 しかしそれは錯覚だ、と言ったのが釈迦である。変わらぬ三角形が存在し続けると思うのは、私たちの単なる思い込みだと主張したボアンカレと同じように、釈迦は、「変わらぬ自分というものがどこかにあるという思いは、自分を永遠の存在だと考えたがる私たちの勝手な思い込みだ」と説いた。その自分中心の思い込みが「この世の主人公は私だ」「この世界は私の都合に合わせて動いているのだ」といった、誤った世界観を生み出す。しかし実際には、この世は私の都合など無視して動く非情の海であるから、その世界観は必ず裏切られ、「どうしてこんなことになるんだ。なぜ世の中は自分の思いどおりに動いてくれないんだ」という悲痛な叫びを生むことになる。
 ボアンカレは、「物体の形が流動的に変形したとしても、そこにはなにか共通する法則性があるに違いない。本当に大切なのはその法則性だ」と考えて、かの有名なトポロジーという数学理論を生み出した。一方釈迦は、、「ありもしない自我を『ある』と考える私たちの愚かさの根底には、なんらかの法則性があるに違いない」と見抜いて、その愚かさを断ち切るための道.を考え出した。仏教の誕生である。心に染みついた、「変わらぬ自分」という思い込みを捨てた時、私たちは様々な束縛から解き放たれて、真の安楽に到達することができる。それを涅槃とか悟りと呼ぶのである。
 数学と仏教を無理にすり合わせようとしてもなんの益もないが、両者に共通点があることは事実だ。それは、人が持つ知性の極限を追い求めるという姿勢である。「私とはなにか」とい茫漠とした問いも、知性を駆使して突き詰めていけば明快な答に行き着く。ボアンカレと釈迦は、その典型的な例である。
 どうも随分長く固体世界に生きているもので、話がカチコチになってしまった。ご寛恕願います。(日経新聞2020年10月23日付夕刊)


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