松岩寺伝道掲示板から 今月のことば(blog版)

ホームページ(shoganji.or.jp)では書ききれない「今月のことば」の背景です。一ヶ月にひとつの言葉を紹介します

福は内 鬼も内 鬼を追いはらうだけでは、どこかへ行って悪事を働くかもしれない。鬼も福にかえるのが、仏教の慈悲。

2023-02-01 | インポート

福は内 鬼も内 

鬼を追いはらうだけでは、どこかへ行って悪事を働くかもしれない。鬼も福にかえるのが、仏教の慈悲だから。

 節分の掛け声は一般には、「福は内、鬼は外」。しかし、「鬼は外」のみを連呼する神社や、「鬼は内、福は内」と唱える寺院もあるようです。例年、多くの参拝客が集まる成田山新勝寺では、「鬼は外」とは言はずに「福は内」だけを連呼するという。なぜか?鬼を嫌って追い立てるだけでは、どこかよそへ行ってまた悪事を働くかもしれない。鬼を追いはらうことなく、福に変えてしまうのが、成田山のご本尊である不動明王のご慈悲だから。以上は著名な仏教学者の中村元先生(一九一二~九九)が編集した書籍に『仏教行事散策』(東京書籍)からの受け売り。だから、今月の言葉は『仏教行事散策』の一節をお借りして、短い掲示板のことばとして、編集したものです。そこで、「松岩寺住職曰く」とは言いきれないし、(『仏教行事散策』より)とも書けない。どうする……わたし。
 そういえば、私の知っている某寺は、節分の夜に山門を開け放すという。あちこちで追い立てられた鬼がかわいそうなので、寺内へかくまってあげるのだという。仏教は鬼にやさしいのです。
 たとえば、夏のお盆の時に読むお経に次のような一節があります。「汝等鬼神衆(ジテンキジンシュウ)、我今施汝供(ゴキンスジキュウ)」。現代語訳すれば、「お前たち、もろもろの鬼神たちよ、私はお前たちにお供えしよう」。つまり、鬼がお腹をすかしていると悪い事をするから、鬼にも食事を供えて、静かにしてもらおうというのです。福は善、鬼は悪。そんな常識を一度疑ってみる柔らかな発想が、仏教や禅にはあります。
 仏教は鬼を退治しないのですが、鬼を退治したのは桃太郎です。童謡『桃太郎』を思い出せば、「桃太郎さん、お腰につけたキビ団子、一つわしたにくださいな」とねだったイヌ、サル、キジをお伴にして「のこらず鬼を、攻めふせて、分捕物を、えんやらや」。悪をこらしめ、善を勧める物語です。そういう単純な思考に反論したのは福沢諭吉です。曰く、「もゝたろふが、おにがしまにゆきしは、たからをとりにゆくといへり。けしからぬことならずや」。鬼ケ島にある宝は、鬼の所有物である。それを理由もなく取り上げるとすれば、むしろ桃太郎は盗人だというのです。『ひびのおしえ』という、諭吉翁の二人の息子たちに、半紙四つ折の帳面に毎日一つずつ書いて与えたもののなかにあります。
 さて、諭吉先生が没してから百十年後、2013年の新聞広告に次のような文字がありました。「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました」。その下には、こう書いてあります。「一方的な『めでたし、めでたし』を、生まないために。広げよう、あなたがみている世界」。
 見ている世界をひろげてみても、日本中どこも寒い今年の冬です。


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