「古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない」(スッタニパータ)
必要があって、次のような文章を書いていました。
自動車の運転免許をとって数十年。優良ドライバーではないけれど、たいした事故も起こさずに過ごしてきました。そんな筆者が少し前から、マニュアル車を運転しています。今どき珍しい手動の車にどうして乗っているのか。坊主根性よろしく、タダでいただいた車がマニュアル車だったから。
オートマチック車ならば、自動でギアを変換してくれるので、法衣を着て雪駄をはいて操作できるけれど、マニュアル車はそうはいきません。法衣の長い袖はギアのシフトレバーにひっかかるし、雪駄はクラッチを踏み込む時にすべります。結果、姿勢を正して、運転に集中せざるを得ない。スマホを片手になんて、滅相もない。不便ではあるけれど、それが新鮮で楽しいんです。
ここまで書いて、立ち往生。このまま書き続けても、わたしのつまらない身辺雑記になってしまう。読む人はそんなものを期待してないのです。
最近読んだ酒井順子著『日本エッセイ小史』(講談社)に次のようなことが書かれています。
「功なり名を遂げた人による若き日々の回顧というのは、有名人エッセイにおいて最も好まれる内容です。稀代のベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』にしても同様のケースであり、有名人がどのようにして育まれたかを知ることが、読者としては嬉しいのです。
このタイプのエヅセイの書き手として求められるのは、「一流の人」です。そのジャンルにおいて二、三流の人が、自身の修業時代や青春譚を熱く記しても、読者は興味を示さない」
この一節を読んで、思いあたる経験があります。私自身が少し前まで、つたない法話をする時に自分の修行道場時代の苦労話をすることがありました。話しても聞いている人が、興味をしめしていないのが表情からわかります。道場の話って、日常生活から離れすぎているから、わかってもらえないんだろうな。そう、思って最近はしないようにしたのですが、道場が特殊だから聞いてくれないのではなくて、私が三流四流の坊主だから、そんな者の「修業時代や青春譚を熱く記しても、読者は興味を示さない」のです。
というわけで、冒頭で紹介した私の文章にもどります。このまま自動車談議など書いても読んではくれない。ここら辺で、どなたかの名言至言箴言(しんげん)が欲しいと、本棚をのぞき、偶然に手にとったのが、中村元訳『ブッダのことば』(岩波文庫)です。これは、『スタッニパータ』と呼ばれる初期仏教の経典で、1149の短い詩句から成っています。全部で450ページ余り、けっこうボリュームのある文庫です。
その厚い本をパラッとめくります。ナンバー944が赤いマーカーでチェックされています。私がマークしたのでしょうか、何時だったかは記憶のかなたにすっ飛んでいます。それが、今月の言葉にした「古ものを喜んではならない」の一節だったというわけです。
本棚から一冊を取りだして、ぱーっと開いたら、その時に求めていた言葉だなんて、出来すぎでウソだろう。と思われるだろうけれど、こういうのって経験ないですか。
比べるのも、おこがましいけれど、江戸時代に臨済禅中興の祖と慕われた白隠禅師(1685~1768)の逸話を思いださずにはおられない。白隠20歳、行く末を決めかねていた頃、行脚中の寺で、書物の虫干しがあった、仏教の本だけではなく、儒教、和歌、漢詩などさまざまな分野の本が並べられていた。白隠は思う「自分の進むべき道はこの書物の中にある」「自分の進むべきを道を示したまえ」と目を閉じて一冊の本を探しだして取りあげる。なんの分野の本か。『禅関策進(ぜんかんさくしん)』という中国は明の時代に編集された禅の書籍だった。「やはり、禅」と白隠は修行を続けたというお話。
天才・白隠だからある逸話なんだけども、これに似た経験というのはあり得る。というわけで、冒頭の言葉は、言葉自身がピカピカ光って、目の前に現れてくれたので、使わないわけにはいかない名句です